家族相談室
腹を割ってお話ししませんか・・・・
第34回 こんなはずではなかったのですが・・・・
教育カウンセラー 千葉明徳短期夫学客員教授
富田富士也(とみたふじや)
幼子の孫を抱っこし、ほお擦りしていても、老いているとはとても思えないおばあちゃん。
お腹がいっぱいなのか、口元に差し出された小さなスプーン一杯の食さえ嫌がる幼子。その振り切る口元に「ダメでチョ。食べないと。たくさん食べないと大きくなれませんよ」と甘える言い方で再びスプーンを押しつけるヤンママ。
ほほえましい親子、孫とおばあちゃんの姿にも見えるが、どこかで”支配”的関係が感じられてくる。自分の意に添って幼子が応えてくれているうちはいいが、ぐずり始めたらどうなるのだろうか。ヤングおばあちゃん、ヤングママの一方的な白己満足の「かわいさ」ばかりが目につくのである。
幼子を”ペット”にしているのではないだろうか。私にふっとそんな不安が起こってくる。子育ては親の自己満足でするものではない。大人としての自分の満たされない愛情の埋め合わせに子どもを”ペット”にしてはいけない。ところが相手が大人に手出しできない無力な幼子だけに、なりがちである。それだけに”ペット”化してしまう自分の浅はかさに目覚めていなければならない。そしてその気付きのチャンスは子どもがサインとして発信してくれているが、「かわいがっているという思いが邪魔して親の方には分かりにくい。さらに先達としての、他者の危機介入が希薄であれば「子を想う親の思いの深さ」は「押しの強さ」になり、子どもの世界に入り込み”侵害”するしかない。もちろん”侵害”というような認識が親にあるはずもなく、躾(しつけ)と「本人のため」という美名がサインを消してしまうのである。
何度もほお擦りするおばあちゃんのしつこさに、抱かれた幼子はぐずり始める。泣き出すと周りを気にするおばあちゃんはだんだんと語気を強くして「泣かないの、周りの人が騒がしいって言うよ」と怒り出す。ヤンママも食べることを嫌がるわが子が乗るベビーカーを自分のイスに引き寄せると、泣きじやくる顔をタオル製のハンカチでひと拭きする。そして「もう、言うこときかないんだから」とため息まじりに幼子に向かってこぼすと、後は知らん顔をする。
いずれからも「あやしている」場面が見えてこない。「ペットにされたくない」という子どもの心を「気付かなくてごめんね」となだめたり、和らげたりしていく手間が見えてこない。「あやす」という和解の言葉は「愛(あや)す」という字をあてると聞いたことがある。そしてその「愛」には無視や攻撃をもって手離すのではなく、関わり続けるという意味もあるという。
一方の都合をもって拘束に近い形で付き合いを強制され、また状況が変われば手離されてしまう。これではチョロチョロしないようにと大きな子までベビーカーに乗せてしまう”ペット化”である。そこには「愛子(あやし)」が見えないのである。
思春期から青年期に入り、今度はベビーカーにおとなしく乗りたくても乗れない大きな体と不安を抱えた子どもたちが「愛子」の心が分からず親の意を無視し行く当てなくさまよい始める。
親や周りの大人も悪気で”ペット””ロボット”化させようとしたわけではない。わが子の将来が親の将来になるから、無関心ではいられなかったのである。だがその関心は、往々にして親自身の欲望や願望を満たす自己愛的なものになりがちであることに無頓着だったのではないだろうか。
自分の将来を見定めることができないほどにわが子が”暴走化”し始める気配を感じたとき、親には不安な自分の将来がまるで「合わせ鏡」のように写し出されてくる。
私の相談室には沖縄、長崎、渋谷、長野と連続して起きた思春・青年期の悲しい事件を機に「腹を割った」こんな親の声が届けられた。
「勉強が第一と教え込んで育てて来ました。中学受験を勝ち抜き志望校に入りました。ところが精気が全く感じられません。
長崎で起こった事件の子どもと同年代の男子です。何をたずねても『別に〜』を繰り返すばかりで、言葉のやり取りができません。こんなことになるなら・・・・」
こんなはずではなかった、という切ない思いが伝わってくる。
「一人娘を可愛がるのは、親として当然だと今でも思っています。それに着ている服でイジメられたり、笑われたら悔しいでしょ。だから私は全身ブランド品の子にしたんです。結果的にはこれがねたみを買った気もしますが・・・・。二重瞼(ふたえまぶた)の手術もしました。やっぱり顔だって、お金を出せば可愛くなってモテるわけだし、娘も人気がある方がいいと思ったんです。
ところが娘は親の心も知らないで、中学生になったら生意気なことばかり言って私を動物にたとえたりするんです。こんなことになるなら服が汚れても、髪のセットがくずれても何もしてやらなければ良かったと腹が立ったりします」
まるで愛犬に問答無用に着せ替えを強いて、手がかかり過ぎて可愛くなくなったら、野放しにしてしまう。なにかそんな感覚とどこか似ている親の訴えである。しかし、いくら野放しにしても人は犬や猫と違って必ず自立の目途(めど)が立たなければ親元に戻って巣ごもるしかない。にもかかわらず拒絶すれば、親を”ペット”にするか”奴隷”にしてしまうかの選択に暴走する子もいる。もちろんこの母子カプセル状態は事故や事件にならない限り表面化することはない。
時代の子育てキーワードは「過保護」から「ペット化」である。そして「愛子」の心は遠のくばかりである。
「叱られた恩を忘れず墓参り」この川柳の心をあらためてかみしめたいものである。