迷える中年ライターが『修証義』を書き写してみた ~曹洞宗のお経を一般人が読むと?(第2章・第7節)~


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honbun初めて触れる『修証義しゅしょうぎ』の本文を読み、鉛筆を手に書き写し、また現代語訳を読む中で感じた事を率直に語っていきます。第7回は、第2章「懺悔滅罪」の第7節について。

第7節「仏祖憐れみの余り 広大の慈門を開き置きけり

■ライターはこう思いました

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ライター 渡辺ロイさん

この第7節から第2章が始まります。
この章では、懺悔滅罪について説かれるとのこと。より具体的な部分に踏み込んでいくようです。
ここまでで、大きな覚悟や重要な意識改革のようなことを、読み手側は「突きつけられて」きました。
「突きつけられる」というのは少し強い言葉かもしれませんが、仏教にはそんなこちらの覚悟を正すようなスタンスがあるように思えます。
普段は立ち止まって深く考えることもなく、のほほんと生きていてもただ入信すればバラ色の人生が待っている……。そういうことを標榜する宗教っぽい何かではなく、仏教はもう少し哲学的であり、厳しい側面のあるものだ、というのがここまでの感想でした。
そして、そういうスタンスこそが、信頼に値するものではないかな、と。

さて、今回は具体的な領域に入る第一歩。とてもさっぱりと端的な節です。
仏は、多くの人たちのために「誰でもいつでも入ることができる大きな救いの門」を開いているのですよ、と言っています。これはつまり仏教のことですね。
そして、この門をくぐると、すべての人が「これまで生きてきたことを振り返り、悟りの機会が与えられる」とも言っています。
また、良からぬ行為をした者が必ず受ける報いも、仏の教えに従って懺悔すれば、好転し軽くすることができる、と。

私が面白いと感じたのは、この「悟りの機会が与えられる」という部分と、その具体的な行為が「懺悔」であるというところです。

順番は逆ですが、まずは「懺悔」について。
これは「さんげ」と読みます。「ざんげ」と濁らないのです。
辞書によれば、これはもともとの読み方であり、仏教ではこちらの読み方をするとのこと。さらに語義を見てみれば、まず「神仏の前で罪悪を告白し悔い改めること」とあります。これは、「修証義」で言っている「懺悔」と同じような意味ですね。
しかし、辞書にある2つ目の語義には、「キリスト教会一般では」という補足をしつつ「罪を告白し、神の許しを請うこと」となっています。

ここが面白いのです。
仏教などでは「悔い改める」という自主的な行動のみを指すのに対して、キリスト教などでは「許しを請う」という、結果を求めて行う行為を指しているのです。

現在、軽い使い方も含めて私たちが普段使うのは、どちらかといえば後者、キリスト教的な許されることもワンセットの懺悔ではないでしょうか。
罪を告白することで許される。もっと言えば、懺悔をすれば漏れなく(ある程度は)許されるのだ、というようなイメージですよね。
懺悔室で犯罪を告白した悪人が、晴れ晴れした顔で教会から出てきて、その直後に部下に殺人の指示をする……なんていうシーンを古い犯罪映画などで見たからでしょうか。懺悔というのはなんとなく、「許されるためにする行為」というイメージがあるんです。
ちょっと胡散臭いですよね。

しかし、「修証義」でいうところの懺悔は「さんげ」であり、どうやらちょっと違うようです。
許されることはセットになっておらず、しかも罪を告白することよりも、それを悔い改めることのほうが重要だと言っているように思えます。
つまり、自助を前提としているのが、仏教の懺悔「さんげ」ではないのかな、と感じるのです。

で、ここで2つめの面白いと思ったポイント。
それが「悟りの機会が与えられる」というところです。
この「機会」というのが、実に面白い。面白いし、とても重要だと思うのです。

例えば、ゴルフ。
ミスショットをしてフェアウェイから大きく外れてしまった時、ただ「あーあ」と思うだけで済ませたとしたら、その後も同じ過ちを繰り返して、最終的にはギブアップをしてしまうかもしれません。
ミスショットをした時、なぜ失敗をしてしまったのか、どうすればよかったのかを、改めて「考える」ことで、次の失敗を回避できるかもしれない。少なくとも、少しずつ上達していくはずです。

大事な人生をゴルフに例えるのは確かにどうかと思いますが(しかも、私はゴルフをしないし)、とても似ているのではないでしょうか。
立ち止まって悔い改める「機会」があってこそ、戻ってこられるし次に進める。
そういう機会がないと、流されるままにただ無為に時間を過ごし、何度も同じ過ちを犯してしまう。
懺悔は自分の心を軽くするためだけに機能するイベントではなく、立ち止まって考え直すチャンスだという考え方。
これはとても理知的です。

仏が用意したという広く大きな救いの門、仏教。
本当に救ってくれるのかどうかではなく、少なくとも人生をより良くするためのチャンスがここにはありますよ、そう言っているように思えるのです。

   


■禅僧がライターへこう応えました

ロイさんのコラムを拝見いたしました。

ロイさんが、「懺悔」という語に、罪の告白と、悔い改めることの二つの意味があることを論じておられるように、「懺悔」という語は、中国仏教では、「相手の忍耐を乞う」・「許しを乞う」意味での「懺摩」と、「為した行為を悔いる」意味での「悔」とを合成して訳され、理解されてきた言葉です。

特に、『修証義』第10節に引かれる「懺悔文」の第四句に見られる「懺悔」のもとの言葉の意味は、「私は〔あなたに向かって〕告白いたします」というものであります。お釈迦さまの時代から、仏教教団では、お弟子さま達は、自らが戒律に違犯した行為を為してしまった場合、それを半月ごとに行われる布薩(ふさつ)と呼ばれる儀式において、お釈迦さまや長老さま達の面前で告白しなければならないという規則がありました。

従いまして、私たちも、この「懺悔文」を唱える際には、自ら為した行為の中に、お釈迦さまの教えに照らして、違犯したものがなかったかを、具体的に反省した上で、あたかも目の前にお釈迦さまやお祖師さま方がいらっしゃるとお思いになりながら、包み隠さず総てを告白する思いで唱えなければなりません。

その様に、誠心誠意、懺悔なさることが出来た時、ロイさんは「許されることはセットになって」いないと感じ取られたようですが、道元禅師さまは、「重きを転じて軽受せしむ、また滅罪清浄ならしむる」とお説きになってくださいました。この部分が、ある意味では「赦し」とも言えるでしょう。こうした「赦し」が、冒頭に「仏祖」の「憐れみ」のあらわれであり、「広大」な「慈しみ」の「門」と表現される所以なのです。どの様に赦されていくのか、懺悔の功徳とも言うべき内容は、続く第8節から第10節に説かれることになります。

 

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