迷える中年ライターが『修証義』を書き写してみた ~曹洞宗のお経を一般人が読むと?(第2章・第8節)~

2017.05.19

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honbun初めて触れる『修証義しゅしょうぎ』の本文を読み、鉛筆を手に書き写し、また現代語訳を読む中で感じた事を率直に語っていきます。第8回は、第2章「懺悔滅罪」の第8節について。

第8節「然あれば誠心を専らにして 前仏に懺悔すべし

■ライターはこう思いました

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ライター 渡辺ロイさん

この節は、現代語訳を読んでしまえば、すらすらと読めてしまうものです。
語訳を要約すると、こうなります。
「仏の前で懺悔をすることで、自分の心は軽やかになり、前向きな気持ちになる。その気持ちは優しい気持ちを生み、周囲の人間に対しても発露する。それは人以外の全てものへの愛情となり、心が豊かになる。」

この節で展開されている話は、懺悔を出発点としています。なぜ懺悔が出発点となるのかは、前節を参照してください。平たく言えば、懺悔はいろいろなことを修正するための機会だから、と私は認識しています。
そこをスタート地点として、ピタゴラスイッチのように、心の動きが次から次へと良い方向に転がっていく。そういう話です。

門外漢のフリーライターが興味深く感じたポイントは、2点あります。
まずひとつめは、この節は、これまでになく「難しい漢字」が使われているというところです。
冒頭から「然(しか)あれば」というパラグラフが飛び出していきます。「然」という字を、まず普段はお目にかからない読み方使い方をしています。
これは前節を受ける「そのようであれば」という意味の使い方です。前節で語った懺悔のシステムや心の動きなどを指しているのですが、こういう言い回しをすることで、かなりの強調話法となっています。

難しい漢字、一般ではあまり使わない言葉、そういうものは、人を立ち止まらせます。
話の流れや勢いよりも、正しく物事を伝えるために、ちょっと飲み込みづらくてもより正確を期することができる「難しさ」を優先するのです。

他にも、「恁麼(いんも)」や「拯(すく)う」「無礙(むげ)」、そして「蒙(こう)ぶらしむ」といった言葉が使われています。それぞれの言葉は、今では一般的には使われていませんが、調べれば一発で意味がわかる言葉です。

ということは、一見すいすいと進んでいくように思えるこの節ですが、ある程度スピードを落として読まなくてはならない、きちんと理解しなくては本当に大事なところを通り過ぎてしまうかもしれない、そういう節なのかもしれません(深読みの可能性も高いのですが)。

もうひとつのポイントは、最後の最後に、ぽーんと論旨が飛躍している、というところです。
もしかしたらこの飛躍があるからこそ、「難しい漢字問題」でブレーキをかけているのかもしれない、とさらに深読みを重ねつつ、話を進めますね。

どこが飛躍かと言えば、「普(あまね)く情非情に蒙ぶらしむ」という部分です。
懺悔によって自分の心の動きが、自分のみならず周囲の人間に対しても働き、結果的にそれも良い影響を与える。ここまでは順調に読み進められるのですが、そこから「非情」、つまり生き物ではない感情のない石や木に対しても、自分に対することと同様に愛情が湧くようになる、という結びになっている。ここ、です。

すべてのものに愛おしさを感じるというのは、確かに不思議なことではありません。
自分の心の動きが、世を見渡す時に「良いフィルター」となって、愛おしさを感じる。理解はできます。
楽しい旅行のお土産に、例えば海岸などで拾ったシーグラスを持ち帰ったこととか、子供の頃には誰にでも覚えのある出来事でしょう。
楽しかったという感情が、浜辺に打ち寄せたガラスのかけらを美しく見せ、その存在自体が思い出とつながりつづけるわけです。

ですから、理解はできるのです。できるのですが、やはり少しギャップを感じてしまいます。
自分の心を見直すような懺悔という行為が、木石に至る世界の全てに対して愛おしさを生み出すという、この普遍性にまで及ぶロジックが、やはり飛躍に思えてしまうのです。

私はこのギャップを、勝手に「信心の壁」と呼ぶことにしました。
信心し、その中で生きることで初めて見える景色や、感じ取れる感覚というのがあるのでしょう。
同じ会社で働いていても、経営者が見る景色や感じる心の動きは、社員には計り知れないでしょうし、その逆もまたあり得ます。
仏教に発心することで、普遍的な愛情や豊かな気持ちになれるとしたら、それはとても素晴らしいことではあります。

ただ、現段階では、門外漢のフリーライターは、そこに至れてはいません。
仏教の持つ、覚悟であったり、潔さであったり、情け深さであったり、そういうものに対してはとても共感するのですが、「信心の壁」はまだ超えられていません。
これは大きな課題として、心のちょっと大事なところに留め置いて、とりあえず読み進めてみたいと思います。

   


■禅僧がライターへこう応えました

ロイさん、こんにちは。

『修証義』第二章・第八節へのコラムを拝見いたしました。

まず、難解な漢字が出てくることについてですが、『修証義』の本文に引用された『正法眼蔵』を著した道元禅師は、かなと漢字を組み合わせて用いることで、ご自身の得られた宗教的境涯を独自に表現されました。よって、一見して難しい漢字が出てきても、それを学びの機会としてとらえていただけるとありがたいです。

また、懺悔の意味については、伝統的な仏教の教理や、道元禅師が説かれる教えは様ざまですが、『修証義』の場合には明確で、懺悔を行うことによって、仏道をより学べる状況を得ていこう、というものです。コラムで示されたロイさんの捉え方は間違っていないと思います。

その上で、問題として残された「信心の壁」についてですが、「壁」と表現されたのはさすがだと思います。人は自ら迷いを深め、さとりの世界を隔ててしまうものですが、その迷いそのものの壁、そして、迷いの結果あまねく一切への眼差しを得ることができない「分別という壁」がそびえています。しかし、実はこの迷いの壁、分別の壁は同じことです。

これ以上のことは、続く節から理解を深めて欲しいところですが、「分別から無分別に到る」という転換を念頭に学んでいただけますと、特に第三章の終わりの方で得るものがあると思いますので、是非、注意しながら学んでいただければと思います。

 

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