迷える中年ライターが『修証義』を書き写してみた ~曹洞宗のお経を一般人が読むと?(第3章・第12節)~

2017.09.19

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honbun初めて触れる『修証義しゅしょうぎ』の本文を読み、鉛筆を手に書き写し、また現代語訳を読む中で感じた事を率直に語っていきます。第12回は、第3章「受戒入位」の第12節について。

第12節「外道の制多げどう せいた帰依きえすることなかれ」

■ライターはこう思いました

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ライター 渡辺ロイさん

一見インパクトの強い「外道」という言葉がタイトルに踊っている第3章の2つめの今節ですが、例によって現代語の語釈と合わせて読めば、大きな誤解はしないで済むのかと思います。

前節で「仏法僧」という言葉が出て、この仏教の3大元素を心の支えとしましょう、と説いていました。
この節では、「では仏法僧を大事にしない人はどうなるかというと……」という部分です。
仏教から外れる諸々の宗教風な存在に帰依する(心身ともに寄り添ってしまう)と、苦しみから逃れることは不可能だ、と言っています。
この部分、とても共感します。

この手のエセ宗教ともいうべき存在は、システムがとてもシンプルだ、という共通項があるのではないかなと思います。
こうするだけで、途端に幸せになれる。この神を信じれば、何もかもうまくいく。
たったの2ステップです。
「幸せとはそもそも何か」とか、「自分自身がどう変化したらいいのか」とか、吟味が必要なものごとを、簡単にすっ飛ばしています。
悩む余地も考えるタイミングもへったくれもなく、とにかく「これでいいのだ!」と聞こえのいいゴール地点だけを瞬時に提示します。
恐ろしく簡単です。

簡単すぎるものは、実は誰にも寄り添うことはありませんよね。
誰にでも操作できる簡単なアプリは、最初はいいけれどそのうち物足りなくなります。なんなら、とても不便に感じてしまいます。それは、自分の都合や個性に合わなくても、それを調整することができないからです。

多くの人を救うこと、より良い場所に連れていくことを目標にするのが宗教であるなら、そのシステムがいかに複雑になろうとも、ひとりひとりに寄り添うことを放り出してはいけない。そう思うんです。
「こういう方向に行きがちな人は、こんなふうに思い直してみたら?」とか、「焦らず、気持ちを整えて考えてみたら、違う答えが見えてくるかもよ」とか。
個人の置かれている環境や、ものの考え方の傾向、言葉が心に染みるスピード感、そういうものを考慮したうえで、進むべき道を(その道が一見複数あろうとも)見つける手伝いをする、それが宗教なのだと思うのです。

ということで、この節で言おうとしているのは、「仏教以外はダメよ」ということではなく、「信じればすぐに楽になるような、簡単なシステムのあれこれはダメよ」なのではないかな、と。

だって、これまで語られてきたことって、相当面倒臭いですよ(曹洞、のシャレではない)。
懺悔さんげですら、襟を正すきっかけにしかならないんですから。

菩提を成就ぼだい じょうじゅする」という言葉も、この節では印象的に活きています。
現代語釈で「正しい智慧に目覚める」とされているこのセンテンスは、つまりゴールでありながらゴールではないのですね。
正しい智慧に目覚めても、それをどう生かすのかとか、その先が待っているから。
そういえば、仏もまだ修行継続中であるとか。
そういう大変そうなゴールが、とても仏教的で、面白いんです。

面倒臭いルートで、簡単じゃないゴールを目指す。
あー、大変だ。
でも、そうじゃないと困ります。それこそが、信頼感の担保となりうるのですから。

 


■禅僧がライターへこう応えました

ロイさん、こんにちは。

『修証義』「第3章 受戒入位」第12節についての感想を拝見しましたけれども、以下の2点について、こちらからの感想を申し上げたいと思います。

(1)仏教と他の宗教との関係について
(2)仏道修行のゴールについて

まず(1)から申し上げますと、ご指摘の通りで良いと思います。その上で、『修証義』でいいたいことは、すがりつくような信仰への拒否になります。すがりつくのではなくてお任せするわけです。そうすると、自分自身に余裕ができ、自らを顧みることにより、懺悔も活きてきますし、その後の受戒の意義も正しく会得できるようになってきます。受戒の意義は第16節で示されますので、その時にまた学んでみて下さい。

それから(2)についても申し上げますと、仏道修行のゴールについて、多くの人は「悟りを得る」とか「真理を得る」とかいうイメージがあると思います。我々はその関係を専門用語で「修証」といいます。ちょうどこのテキストの名前『修証義』は、修証という用語からできました。詳しく書くと、「修行(手段)と証悟(目的)」という理解になると思います。そこで、曹洞宗では「修証」を「一等」であるとします。そうなると、手段としての修行を継続して、ある時目的としての証悟に至る、のではなくて、修行がそのまま証悟ということとなります。

これを『修証義』に転ずると、ゴールというのはどこにあるのでしょうか?
いただいた文章にも「ゴールであってゴールでない」とあり、これはとても鋭いご指摘なのですが、『修証義』の文脈を広い視点で見ていただくと、正しいゴールのありようが見えてくると思いますので、今後の感想についても楽しみにお待ちしております。

 

~ 「迷える中年ライターが『修証義』を書き写してみた」バックナンバー ~

『修証義』についての詳しい説明はこちら


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