【人権フォーラム】人権啓発相談員協議会報告


人権啓発相談員協議会報告

9月1日から3日の2泊3日の日程で、人権啓発相談員協議会が開催された。

今回は、宗門が2005(平成17)年から取り組みを進めている「東アジア出身の強制徴用者等の遺骨問題」の柱の一つである、北海道宗谷郡猿払村浅茅野での遺骨発掘事業をテーマに、初日は千歳市内のホテルで事前学習、2日は猿払村に移動し、フィールドワークを行った。

初日、午後2時半、開会にあたり主催者を代表して、千葉省三人権擁護推進本部次長より挨拶があり、続くオリエンテーションでは、日程説明と併せて、宗門が発掘事業に取り組む経緯等についての報告がなされた。

休憩を挟み、蔡 鴻哲強制連行・強制動員犠牲者を考える北海道フォーラム(以下、北海道フォーラム)共同代表に「旧日本陸軍浅茅野飛行場建設工事―犠牲者遺骨発掘事業の沿革」と題して講演いただいた。

蔡氏の父親は戦時中、強制労働の経験があり、戦後、強制連行の問題に取り組んでいた。蔡氏自身は、政治的な問題よりも、半世紀以上、遺骨が帰らないまま寺院に残されていたり、土の中に埋まっていることに、なぜ、自分の思いが届かなかったのかという反省の念から遺骨問題に入ったという。

そして2002(平成14)年12月、浄土真宗本願寺派本願寺札幌別院が101体の犠牲者遺骨と名簿があることを公表、遺骨奉還の意思表示があった。この問題解決を目指し「北海道フォーラム」が結成された。名簿調査と道内寺院に未返還の遺骨がないか調査を行う過程で、2005(平成17)年1月、浅茅野犠牲者遺骨問題を知ることとなった。

蔡氏は早速、浅茅野に入ったが、最初はなかなか受け入れられなかったという。「2005(平成17)年の試掘で、1体の完全な埋葬遺骨が発掘され、大規模な第1次発掘事業となったが、10数回猿払で話し合いを重ねた。その中で、現地実行委員会事務局長を務めた小山内浩一さんの『政治的な背景は知らないが、私たちが笑って暮らすこの村の土の中に、朝鮮人が埋まっているままだったら、笑って暮らせないだろう。せっかく札幌から来て掘ろうというのだから協力しようじゃないか』という言葉で、村人たちも重い腰をあげてくれた」

次に、これまで行われた発掘事業を説明、「試掘は手探りの発掘。第1次は発掘と同時に猿払の産業などにも韓国の学生に触れてもらうワークショップ形式の発掘。第2次からは日韓合同の学術発掘、実行委員会会長に渕 英德宗務総長が就任され、特に第2次は、韓国から実際の労務者池玉童さんが現地を訪れた」と特徴を述べた。

第2次発掘で現地を訪れた池さんが現地を離れてからも、蔡氏は2日間通訳で一緒に過ごした。その時に聞いた思いを紹介した。「この60数年で日本人はこんなにも変わったのか。浅茅野は良い思い出はなかったが、今回訪れた浅茅野はみんな素晴らしい人だった。北海道の炭鉱で同じように働いていた友だちがいるので、帰ったら伝えたい。こんなに、みんなが過去のことをやってくれている」

そして「戦後、日本政府・企業の責任を問う中で、常に置き去りにされてきたのが、まさに遺族や直接苦労された池玉童さんのような方ではないか」と指摘した。

また今後の課題として「発掘遺骨のDNA鑑定」「すべて発掘したと言えるのか、発掘の範囲をどこまで広げるのか」「他にも証言があり、この証言にどう対処するのか」「発掘現場をはじめとした戦争遺構の保存」などを挙げた。

最後に、「多くの方が心を一つにして発掘に全力を尽くしてきました。そこには被害者、加害者という線引きはなく、共に平和な東アジアの未来を求める姿だったと思います。浅茅野の取り組みが、今後の東アジアの平和な未来を目指すモデルケースになるのではないか。そういう意味では、新たな歴史を浅茅野で始めたと思っております」と締めくくった。

2日目は猿払村に移動し、浅茅野周辺でフィールドワークを行った。

参加者はまず、猿払村役場を訪問、巽 昭村長から猿払村の特産である天然ホタテの歴史、猿払村の国際交流について講話をいただき、次いで、遺骨発掘事業の地元実行委員会会長を務める水口孝一浅茅野自治会長にお話いただいた。水口氏は浅茅野出身ではないが、浅茅野に移ってきて昭和30年代前半、朝鮮人強制労働の事実を知ったこと。また、浅茅野飛行場建設に強制労働させられていた父親をもつ在日コリアン2世の自分史をまとめる作業に携わったことなどについて述べられた。

その後、実際に発掘現場を訪れた。読経の後、小山内浩一氏と第1次発掘事業から事務局として深く関わってきた追久保敦猿払村役場係長に、当時を知る方がたの聞き取りから分かった旧共同墓地の様子や、最初の試掘で1体の遺骨が発掘された時の状況、さらにこれまでの発掘事業について、事前準備、発掘方法、また、どこからどういう状態で遺骨が掘り出されたのかなど、詳細な説明を受けた。

次いで、遺構が多く残る第1飛行場跡周辺をフィールドワークした。
ここには現在、宗谷バスの「飛行場前」というバス停があるが、この名称は、現在は廃線となった天北線「飛行場前駅」の名残りで、今も朽ちたプラットホームが残っている。また、建設工事で亡くなられた方を旧共同墓地(発掘現場)へ埋葬するための旧道や、飛行機を格納し、敵の攻撃から隠すための掩体壕跡、基地の出入り口である営門跡、気象観測所の遺構などを追久保氏の説明を受けながら見学した。さらに、発掘事業で掘り出された38体(推定)の遺骨を前に追善法要を修行、参加者全員が読経、焼香を行った。

最終日は、宿泊ホテルにて約1時間協議を行い、現在制作中の人権啓発ビデオ第13作について、制作委員の相談員から進捗状況の説明があり、意見交換がなされた。最後に、宗谷岬平和公園に建つ、1983(昭和58)年サハリン沖で起きた大韓航空機撃墜事件の遭難者慰霊と、世界平和を願って建てられた「祈りの塔」を見学し、帰路についた。

これまで、3回の発掘事業を行ってきたが、宗門寺院に安置・供養されている遺骨も含めて、身元の確定や、遺族の特定等、むしろこれから大きな課題が山積している。

しかし、遺骨は単なる「遺物」ではなく、その方が確かに生きていた「命の尊厳の象徴」である。我われ宗教者は常に、そのことを忘れずに、取り組まなければならない。