【人権フォーラム】日韓合同 「朝鮮半島出身の強制徴用者等の遺骨実地調査」


7月20日、長野県大町市長性院において、厚生労働省、外務省、韓国政府合同による朝鮮半島出身の徴用者等の遺骨実地調査を行った。
調査団は、日本側は厚生労働省の松本安彦氏、韓国側は呉日煥(オ・イルファン)氏を筆頭に日韓両政府の6人で構成されていた。
今回の実地調査は、報道機関等へ公開で行う政府調査としては20回目、長野県内では初めてのことで、宗門として立ち会うのは今回が13回目のこととなる。
宗門が長性院(藤井俊道住職)へ聞き取り調査を行ったのは2008(平成20)年11月18日。その際、朝鮮半島出身者と推定される遺骨が4体、境内の供養碑に合祀されている可能性のある遺骨9体、合計13体が確認されていた。
また、大町市は高瀬川の水力発電所とその電力に依存した昭和電工のアルミニウム工場があり、多くの朝鮮半島出身の労務者が高瀬川発電所の建設工事に従事したらしいこと、先代・先々代のご住職と朝鮮半島出身者との交流があり、その関係で遺骨を一時預かりしていた経緯を確認していた。
 
調査の様子
調査当日は前晩からの台風の接近による調査への影響が心配されたが、当初の予定通りに実地調査が行われた。
日韓そして宗門、各々の情報と知識を持ち寄っての打ち合わせ後、ご住職へのヒアリングが行われた。調査の冒頭、調査団長の松本氏より報道関係者へ合同調査の趣旨説明。次いでご住職の挨拶。その後、4体の個別性のある遺骨の調査が行われた。
引き続き、長性院境内にある供養碑を調査団と確認した後、記者発表を開始。調査によって両政府の確認した事実を松本氏らが報道関係者へ発表。記者より活発な質疑があった。
記者の「今回の調査で有力な情報は得られたか」との質問に呉氏は「今回新たに確認した身元情報をもとに再度調査を行います。可能性はあるのです。しかし本籍地が分かっているような事例でも、調査をすると戸籍に記載が無いこともあります。除籍されていたり、記録が焼失しているといったこともあるのです」と答えた。遺骨と遺族の間に横たわる時間の隔たりはあまりに大きい。
 
長性院の遺骨4体
今回調査されたそれぞれの遺骨が、どういった経緯で現在の状況に置かれているのか、詳細は分からない。しかし、短くとも生ききった人生がそこには確かにあったのである。調査により判明した各々の人生を記しておきたい。
 
崔錫(清)龍さんの遺骨
創氏名は崔山清一、本籍は郡まで判明。1958(昭和33)年12月30日没、骨箱によると享年は58才だが、調査によって判明した生年は1906(明治39)年9月17日、52才ということになる。
 
増山粉伊さんの遺骨
骨箱包布には氏名しか記されていないが名前は朝鮮半島出身の女性と思われる。徴用の行われた時期は、日本風の名字に朝鮮風の名前を名乗ることが多かった。
 
具順奉さんの遺骨
本籍は「里」(日本で言うところの「字」)まで判明しているが、生没年は不明、20才で亡くなったことのみが記録されていた。名前からは性別は分からなかった。
 
供養碑に9名の名前と戒名
1922(大正11)年3月20日、藤元源次さんほか9人は、高瀬川発電所建設工事の最中に事故に遭い亡くなられ、長性院に葬られた。当時の地元新聞や大町市史にもこの事故は記録されている。
 
『大町市史』について
先述の工事事故に関する記述に加え、当時の朝鮮半島出身者に関する記録が市史に残されていた。そこに記された当時の様子の一部を紹介する。
 大町市や周辺の村に、朝鮮半島出身者が居住した最初は、1922(大正11) 年に開始された東信電気株式会社による、高瀬川発電所建設の難工事である。
 この工事現場には、下請の組の労務者として数百人の朝鮮半島出身者が働いていたというが、正確な人数はつかめない。ほとんどが男性であったが、飯場で働く女性もいたようだ。
 七倉沢の工事現場で、ダイナマイトの取扱いの不注意から、9人が爆死するといういたましい事故があった。その遺骨は南原町の長性院墓地(当時 の六角堂)に葬られ、供養碑が建てられた。
 事故死した人たちの名は日本風になっているので、本名もわからない。また死亡の知らせが遺族へ届いたものかどうかも今となっては確かめる術もない。
 長畑発電所の建設工事は、1937(昭和12)年よりはじめられた。
 当時、現場付近の集落に朝鮮半島出身者の住む長屋ができたり、付近に間借りする人も少なくなかった。その家族をあわせると数百人となり、子どもたちは大町の小学校に通った。
 やがて工事終了とともに、大部分は次の工事現場へ移っていった。しかしこの地にとどまり、中には日本人の娘と結婚した人もあった。
 太平洋戦争が熾烈を極めるようになった1943(昭和18)年、昭和電工大町工場で100人ほどの朝鮮半島出身者が働くようになった。
 この工場で働く人たちの中にも、徴用連行された人たちは多く、当時の回想では、朝鮮半島北部の人たちが特に多かったようである。中には妻子ある人もいたが、みな故郷を離れて単身で、工場の近くの「和光寮」という建物で寮生活を強いられていた。
 そして戦後、帰国する人も、そのまま日本にとどまって新しい生活をふみ出す人もあった。
 1960(昭和35)年、朝鮮民主主義人民共和国へ帰国しようとする人たちが、一基の碑と多くの桜の木を当時の大町公園に残した。
 
碑と桜を訪ねて
 調査終了後、長性院ご住職に大町公園の記念碑へ我々を案内していただいた。
 “日本の友よ 山河よ さようなら さくらの花よ 永遠に咲け”
そう刻まれた記念碑と、その傍らに小さな桜の木が1本立っていた。当時植樹された桜は多数と聞いていたが…。
この記念碑と桜の記事の載った長性院の寺報を見せていただいた。
「この記念碑は公園施設の建設に際して移転され、当時植えた桜は所在不明になっていました。そのことを知った大町北高校放送部のメンバーが、記念樹探しを重ね、ついにその1本を探し当てました。その木の根元の枝から株分けしたのがこの桜です。その経緯をまとめた放送作品は、2005(平成17)年NHK長野県高校放送コンテストで最優秀作品となり、全国でも優良作品に選ばれました」
 
現在にも残っている在日韓国、朝鮮人差別の中、若い世代がそれを乗り越える営みを示してくれたことに、勇気を与えられた。
この記念碑と桜のように、遺骨と遺族とが再び対面できる日が来ることを信じて、静かに手を合わせた。
 
※被徴用者等の遺骨調査の記事では、故人の氏名・死亡時期等の身元情報が報告されています。日韓両政府の努力にもかかわらず、遺族捜索が大変厳しい状況の中、さらなる情報を広くお寄せいただくために、人権擁護推進本部の文責で公表しています。