【人権フォーラム】平成24年度第1回全国人権擁護推進主事研修会


10月31日から11月2日まで2泊3日の日程で、福岡市内を主会場に全国人権擁護推進主事研修会が部落差別問題をテーマに開催された。
初日午後2時、開会諷経に続いて主催者を代表して、齋藤裕道人権擁護推進本部次長の挨拶、オリエンテーション続き、休憩をはさみ、福岡県立大学副学長・森山沾一氏より「山本作兵衛さんと人権」と題した講演が行われた。
山本作兵衛氏は50年にわたり筑豊・田川の炭鉱で労働し、60歳を過ぎてから「炭鉱の生活や作業、人情を残したい」との思いから、亡くなる92歳まで炭坑の記録を絵に残した。そして、昨年5月、ユネスコの世界記憶遺産に絵画や日記など697点が日本で初めて登録された。
森山氏は、山本氏の炭鉱との出会いについて「作兵衛さんの両親は飯塚で農業しながら船頭をして石炭を運んでいました。しかし、陸蒸気ができて船頭を失業してしまいます。そしてお父さんは鶴嘴を持って炭鉱に潜っていく生活になり、そこで作兵衛さんも働いたのです」と説明した。
次に、世界記憶遺産登録への取り組みについて「筑豊・田川地域は貧困地帯と言われるマイナスイメージでしかマスコミも捉えません。これを変えるためには世界的な基準、自分たちの故郷に歴史的な誇りを持てるような遺産、私は千載一遇のチャンスと言っていますが、作兵衛さんが突破しようとしています。今、筑豊田川が変わろうとしています」と指摘した。
多くの日記を紐解く作業の中で、生き方について「ヒューマンライツはヨーロッパの言葉ですが、私は日本語で言えば『まっとうに生きる』と捉えています。作兵衛さんの日記を見ていると、本当にまっとうな人間、最後まで偉ぶっていない。水平社宣言の最後に『人の世に熱あれ、人間に光あれ』とありますが、まさにそういう生き方をした人だと思います。作兵衛さんは亡くなる2週間前まで日記を書いて、2000枚の絵を残しました。多くのボタ山(※1)が道路やコンクリート、ビルディングに変わっていきました。自身が50年間一生懸命最先端で働いたものが無くなっていくという喪失感。この記憶を子や孫の世代に残したいという執念があったと思います」と述べた。
続いて、部落解放同盟中央本部執行委員長・組坂繁之氏より「全国水平社創立90周年とこれからの部落解放運動」と題した講演が行われた。組坂氏はまず、水平社宣言について触れた。
「全国水平社創立までの運動は融和運動で、人間の尊厳を求めるというよりは同情融和の考え方で、胸を張って運動するということではありませんでした。水平社宣言の骨子は人間の尊厳で、人間は人間だからして尊いということです。住井すゑさんは、全国婦人集会(現『女性集会』)での講演のおり『日本でただ1つの文化遺産を挙げろと言われれば、何の迷いなく水平社宣言を挙げる』とおっしゃいました。目からうろこが落ちる思いでした」
次に、解放運動の歴史を、部落解放同盟執行委員長を勤めた松本治一郎氏と上杉佐一郎氏の運動を中心に説明。そして、これからの解放運動について人権委員会設置法案の必要性を訴えた。
「現在でもインターネットを始めとして差別が平然と行われています。さらに、大きな問題になっている福島県民に対する差別についても、人権委員会を設置して取り組まなければなりません。いじめによる自殺も、いつでも人権委員会に訴えることができれば、なくすことができるのではないかと思います」
最後に「全国水平社から90年ですが、まだまだ厳しい差別があります。運動の原点である全国水平社宣言が世の中に行き渡り、人間の尊厳が守られる社会にしなければいけません。そのためにも一人ひとりの人権が守られる社会の仕組み、構造を作っていかなければなりません」と締めくくった。講演終了後は、7班に分かれての分散会を行い初日の日程を終了した。
2日目、参加者は最初に田川地区人権センターに移動。センター事務局長・堀内忠氏より「石炭産業と人権」と題した講演が行われた。
江戸時代の初め、田川地区には被差別部落がなく、産業も農業中心だった。堀内氏は被差別部落について「年貢というのは、その年の米の出来高に応じて決まるのではなく、検地の上で、個人ではなく村で何俵とあらかじめ決められています。享保の大飢饉の時に、筑豊では4人に1人が亡くなりました。その他にも多くの夜逃げがあり土地が空いてしまい、年貢が納められなくなったので、藩は夜逃げなどの多くの流民や無籍者に空いた土地を与えていきました。
堀内忠氏
その後、江戸幕府の指示で身分統制令が出され、夜逃げなどで自分の身分を言えない人を被差別身分としたのです。しかし、村人にとっては年貢を共同で払うわけですから仲が良いわけです。そこで藩は20数回にわたり『エタ身分と農民とが仲良くしてはいけない』というお触れを出し、服装も制限します。ただ、土地をもらうわけですから自作農です。被差別部落と言いながら決して貧しいところではありません」と形成課程を説明した。
江戸の中期なると、偶然、石炭が発見される。これが2回目の被差別部落の形成に繋がったという。
「石炭を売れば現金収入になりますから農民は米を作らなくなります。藩としては困りますから、農民は石炭を掘ってはいけないという禁止令が出ます。すると外から石炭で一儲けしようという人たちが集まってくるわけです。つまり、江戸の終わりから明治の始めにかけて、よそ者が石炭を掘っていました。しかし、掘るには住む家が必要になります。今は土地はお金を出せば買えますが、昔は土地は顔を見て売りました。自分の土地をよそ者に売るのを嫌ったのです。そこで、原野であった土地を開墾しました。すると外のグループとは違う集落ができます。つまり被差別部落です。筑豊は2回被差別部落ができました。筑豊の部落は、よそから来た人たちに対して排除する考え方から被差別部落を作っていく。炭鉱が部落産業と言われる所以はここにあります」
昭和に入り戦争が始まると募集・幹斡旋・徴用という形で、朝鮮半島から10万人以上が福岡県内の炭鉱での労働を強いられた。氏は最後に労働で犠牲になった方がたについて言及した。
「炭鉱事故で亡くなったら火葬をしますが、遺骨を朝鮮労働者の寮に持って行くだけで、本国に送るという手立てをしませんでした。寮の人は2つの方法で供養しました。1つは仲間がお金を出し合って理解のあるお寺(法光寺)に永代供養をお願いする方法です。もう1つは、原野に持って行って遺骨をそっと埋めたのです。そして分かるようにその上にボタ石(※2)を墓標の代わりに置きました。
ボタ石のお墓
現在、市営霊園の中には整然とある墓地の後ろや横に、60から70のそのようなボタ石のお墓があります。こういう状況が韓国に伝わり、在日コリアンの方を中心に供養したいということで、お墓にある土をひとつまみして集め『翔魂之碑』を建てて、毎年供養をしています。日本人も朝鮮人も、炭鉱で働いた人たちがいたから、日本の繁栄がもたらされました。その人たちのお墓を粗末にしていいのかということで、市として管理すべきではないかと市長と話しています」
堀内氏の講演を踏まえ、午後は実際に翔魂之碑、石炭公園、石炭・歴史博物館、法光寺の「寂光」の碑などをまわり理解を深めた。また現地学習後の分散会では今回の研修について意見を述べ合った。
最終日は、人権本部より「宗門の取り組みと現況報告」、人権啓発相談員・狩野草原師より研修内容の補足説明があった、全体会では、分散会での意見を各班から発表、質疑応答をもって正午に全日程を終了した。

※1)ボタ山…石炭の採掘に伴い発生する捨石の集積所
※2)ボタ石…石炭になりきらなかった珪化木