【人権フォーラム】被差別部落の歴史に学ぶ


去る7月18日から19日にかけて京都市内・真言宗御室派「仁和寺」を会場に、第27回「同宗連」部落解放基礎講座が開催され、初日に大阪市立大学人権問題研究センター特別研究員であり、部落史研究家の上杉聰氏の講演が行われた。

今回はその概要を掲載する。

 

 「士農工商エタ非人」の間違い

これまでの教科書には「士農工商エタ非人、この身分制度の始まりは江戸時代である」と書かれていました。しかし、現在ではどちらも教科書から消えています。「士農工商」という表現は小学校では2000(平成12)年までにすべて消え、中学校に関しても、今年からなくなりました。

「士農工商」はピラミッド型で学んできましたが、この身分制度は、江戸時代に存在していません。「士農工商」は、元々は今から3000年前の中国の文献に出てきます。それを私たちはあたかも日本の言葉であるかのように考えてきたんです。

中国での意味はピラミッドではありません。中国では皇帝がいて、その下に民(たみ)がいます。職業で分類するならば、「士農工商」は横並びで4種類です。民全体を表すことから「みんな」という意味でも使われていました。これが中国の「士農工商」の考え方です。この言葉自体は、奈良時代にすでに日本にきています。

関連して「士」という文字ですが、「武士」ではありません。例えば、大学を出れば卒業証書に「学士」という称号がつきます。税理士、会計士など何らかの専門家、あるいは役人という意味で使われてきました。3000年前の中国の言葉を、わずか150年前の江戸時代の身分制度に適用することは、無理な話なんです。

では、「士農工商」という表現が今の教科書でどうなっているかというと、武士と百姓、町人という3身分に変わっています。そして、職業で分けずに田舎に住めば百姓と呼び、町に住めば町人と呼び、武士が百姓、町人を支配しているのが現実のあり方です。

次に、「エタ非人」について、現在は「百姓・町人」の「他に」「別に」と書かれていますが、かつては「最底辺に」「下に」と書かれていました。現在は「エタ身分、非人身分などの人びとがいました」と書かれていますが、この「いました」の部分は、以前は「この頃作られた」と書かれていました。

東山文化の室町時代に「河原者(かわらもの)」が出てきます。銀閣寺や龍安寺の石庭を作ったのは差別をされた河原者です。河原者と被差別部落との関わりについて文献には「河原者の別名をエタだ」とあります。さらに、同様の意味の言葉で「屠者(としゃ)」とも書かれています。

「河原者」は土地につく名前で「屠者」は職業に引きつけた名前、そして「エタ」は人そのものを表す言葉として出てくるわけです。さらに遡ると、鎌倉時代の1280(弘安3)年前後の文献に「エタ」という言葉がたくさん出てきます。その時すでに「人交(ひとまじ)ろいもせぬ」という部落差別特有の表現があって、その人たちが「エタ非人」と呼ばれています。

総人口に対する被差別部落の人口比率から見ますと、近畿が圧倒的です。権力が被差別部落を作ったとすれば、どこに最も多く作るでしょうか。権力のお膝下に最も多くできるならば、権力が京都にあったから被差別部落を作ったと説明がつきます。もし、江戸幕府が作ったとしたら東京が多くなるはずですが、東京は下から10番目です。江戸幕府が関係してないということです。ところが、ついこの間まで江戸幕府が作ったと言ってきたのです。

 

 2種類の差別

実は、私は明治の初めが専門で、若い頃に明治元年から10年までの全国の被差別部落に関する資料を集めて資料集を作りました。そこで気づきました。私も被差別部落を社会の下、最底辺だと習ってきました。ところが、その表現がないんです。圧倒的に「外」という表現です。そこで、ある資料に「エタ非人というのは、名前のようにみんなの中に加えない者だ」と書いてありました。名前のようにですから、「非人」は「人にあらず」。もし下であれば「下人」になります。下人はどういう人かと言いますと奴隷です。

奴隷の歴史は古く、下人の前には奴婢(ぬひ)と呼ばれ、『魏志倭人伝』に、卑弥呼は1000人の奴婢を従え、卑弥呼が亡くなった時に100人の奴婢が殉死をさせられたとあります。

自分の命、肉体を売買され、主人の持ち物で生きる権利も主人に握られている。これが下人、奴婢と呼ばれる人たちでした。これは、関ヶ原の合戦のころまで続きます。

江戸時代になると、無期限の売買が禁止され、10年以内の売買しか許されない形になります。この時に出てくるのが「娼妓(しょうぎ)」と呼ばれる人たちで、例えば、遊郭などへ売られる女性です。これが、廃止をされるのが1872(明治5)年の『娼妓解放令』です。この時、まだ地方に残っていた下人、旅芸人に売られていた子どもたちも解放されます。つまりこの布告は奴隷解放令です。

この約1年前の明治4年8月にも解放令が出されています。これは被差別部落を対象とした解放令です。

わずか1年2カ月の間に2つの解放令が出たということは、差別をされていた人も2種類いたということではないでしょうか。一方は「外」と呼ばれ、一方は「下」と呼ばれてきました。後者は性格上、明らかに奴隷です。その形態は人を持ち物にする。前者は人をのけ者にする。差別の形態にも2種類あったと考えた方がいいのではないでしょうか。

 

 部落差別といじめの関係

この2種類の差別を授業で説明したところ、最後に学生が手を挙げて「僕は中学の時にいじめをしていました。いじめにも2種類あります。口を利かない、無視する、しかとする。これは部落の方です。もう1つ、パシリ(使い走り)があります。ものを巻き上げる。命令をする。だから今日の話はすごくよくわかった」と言いました。

どちらもとても古い歴史を経ている差別です。それが、今の子どもたちのいじめの中に生きている。親の社会がしていることを、子どもたちは空気のように吸い込んで自分たちの中のいじめで使っているんです。

そうすると、いじめのうちの半分は部落差別で、半分は奴隷的な差別です。それが長い歴史を背負って、子どもたちに何の教育もしないで行われているとしたら、この差別をなくすのは簡単ではないと思ったのが20年前ぐらいでした。

現在起こっている部落差別はもちろん、いじめの中にも明確に部落差別が生きています。例えば、「村八分」で3年間付き合いを禁じられるという制裁がありました。その時、付き合いを禁じられた人は非人の髪型をして、部落との連絡係、つまり部落と接触を強いられます。この制裁は3年間だけ部落民にすることです。

つまり私たちは部落差別を自分たちの制裁の中に組み入れてきた。ですから、一朝一夕になくなるわけではありませんし、こういうところまでいじめの問題を掘り下げる必要があります。しかとのいじめは部落差別に関係するものとして、同和教育に結び付けてやらなければいけません。