【人権フォーラム】江戸期の浅草弾左衛門支配について(講演録)


1月15日から1泊2日の日程で、曹洞宗人権啓発相談員協議会が開催され、初日は台東区今戸「安昌寺」を会場に、東京部落解放研究所研究員・浦本誉至史氏を講師に招き、江戸時代の浅草弾左衛門支配についてご講演をいただいた。今号は講演録として、その概要を掲載する。
会場の今戸地区は、江戸時代、今戸町と浅草新町(しんちょう)という2つの地区に分かれており、浅草新町には「長吏(ちょうり)」「猿飼(さるかい)」という2種類の被差別民が住んでいた。浦本氏はまず、「長吏」という呼び方について説明した。
 浦本誉至史氏
「『長吏』という言葉は元々は中国の言葉で、官吏のトップ、日本で言えば長官にあたる言葉です。この呼び名は、長吏自身がそう名のったのであって、関東の人たちは『穢多』と言って差別の対象にしました。これに対して長吏たちは『穢多』という言葉を非常に嫌っており、自分たちでは決して呼びませんでした。少し前まで学校では、被差別部落の祖先のことを『穢多身分・非人身分とされた人たちの子孫』と教えていましたが、今はまったく出てきません。なぜかというと、この言葉が江戸時代から差別語であって、その言葉を使ってそれを嫌っていた人たちの説明をするのはおかしいということと、近年被差別民は穢多身分・非人身分だけではないことが分かってきましたので、この説明を使わなくなりました」

続いて、浅草の被差別民について述べた。

「住民のほとんどを占めていたのが長吏です。古い歴史を持った被差別民で、斃牛馬の処理と皮革産業、灯心の商いの独占販売権、町や村の警備や刑場の管理運営、さまざまな芸能の興行、他の被差別民の管理など、非常に幅広い仕事をしていました。そして、『猿飼』とは『猿回し』のことで、江戸時代は被差別身分で、基本的には関東では長吏と生活を共にしていました。他に、『浅草非人小屋』といわれる長屋の集合体があり、『非人』と呼ばれた被差別民が住んおりました。浅草非人小屋は江戸最大で、500世帯以上が生活しておりました」

次に、白山神社と浅草新町との関連について述べた。

「関東の被差別部落にだけ特有なことですが、白山神社が多いという特徴があります。その理由は浅草新町の守り神が白山神社だったからです。そして、浅草新町は全関東の被差別民にとって首都なのです。なぜかというと、ここに弾左衛門という存在が代々屋敷を構えていたからです」

屋敷の面積は約740坪、最上級の旗本である3000石の格式の屋敷である。弾左衛門は基本的には世襲性で、江戸時代、13人の弾左衛門が全関東で長吏・非人・猿飼・乞胸(ごうむね※)という4種類の被差別民を支配しており、その支配体制に関して言及した。

「弾左衛門屋敷は江戸の被差別民から『新町役所』、関東の被差別民からは『浅草役所』と言われていました。弾左衛門も江戸後期には『御役所様』と呼ばれ、この屋敷は政府の所在地として機能した役所だったのです。歴代の弾左衛門の中でこの支配体制を確立したのが、6代弾左衛門集村(たねむら)です。時代にすると8代将軍吉宗のころで、集村は町奉行大岡越前守と政治的な駆け引きを繰り返し、弾左衛門体制を築き上げ、全関東で10万人の被差別民を支配する日本一の被差別民の頭に上り詰め、巨万の富を抱えたのです」

弾左衛門の財力について幕府は「10万石の大大名の財力を上回る」と認定し、庶民は江戸の大富豪として「西は越後屋三井八郎衛門、東は浅草の弾左衛門」と呼んでいたという。しかし、明治維新後、弾左衛門体制は大きく変化を余儀なくされる。

「十三弾左衛門を代表とする東京の被差別民たちは、自費でアメリカから皮革技師を招いて、皮革技術を磨く職業訓練学校を建設しました。当時、世界最先端のアメリカの皮革技術を導入しようと考えたのです。現在でも、浅草に靴屋が多いのは、浅草が日本皮革産業の故郷だからです」

弾左衛門は、皮革技術の導入と同時に、明治新政府に以下の3項目の要求をしている。
1、すべての被差別民の身分解放
2、弾左衛門の支配権を全国化し、自治権を保持する
3、皮革の仕事など、これまで専売権をもって行ってきた仕事を引き続き行うこと

この中で、特に2番目の項目の「自治権の保持」について述べた。

「関東の被差別民は幕府に対して治外法権を認めさせているのです。江戸や関東の被差別民を裁判する権利が幕府には存在しません。これは非常に有利なことで、被差別民は弾左衛門発行の身分証を持っていて、逮捕された時に身分証を見せるのです。そうすると指一本触れることができず、弾左衛門屋敷に連れてこられて、その中で裁きを受けます。独自の法律を持っており、体罰は存在しません、拷問禁止です。死刑は一応ありますが、市中引き回しのような晒し者にすることは一切ありません。弾左衛門体制が確立した後も支配は拡大をしていきましたが、弾左衛門の配下に入ると非常に有利なことがあるのです」

この要求に明治新政府が出した返答は「拒否」であった。この理由について「明治維新の最大の目的は、日本に中央集権国家を成立させることです。中央集権は一切、他の自治権を認めませんから当然拒否です。その後『穢多非人賤称廃止令(解放令)』が出された日、弾左衛門は新政府に呼び出され、一方的な解任通知が出されます。皮革や灯心などの専売権、自治権はすべて取り上げられました。一方で維新の混乱で多くの困窮民が発生、中世以来の差別も何も変わらなかった。さらに、外国人に東京の被差別民を見られたくないということで、強制移転命令を乱発します。30日以内に原住地を離れなければ、全員逮捕するという命令です。その結果、さまざまな排除が始まり、被差別民も抵抗を始めます。こうして、近代東京の被差別部落と都市社会が形成されていったのです」と最後に述べて締めくくられた。 
  ※乞胸…大道芸を生業としていた下層民。一応身分は町民とされたが、稼業を行う時は非人頭の支配下に置かれた。