【人権フォーラム】平成26年度 第1回曹洞宗人権啓発相談員協議会


2014(平成26)年度第1回曹洞宗人権啓発相談員協議会が、11月6日から7日にかけて千葉県佐倉市、成田市を会場に開催された。今月はこの協議会において行われた2つの講演の内容をお伝えする。

第1講は一般財団法人千葉県人権啓発センター常務理事の鎌田行平氏より「被差別部落の歴史」についてお話いただいた。

歴史を知ることが差別の解消には欠かせないと鎌田氏は語る。

「部落とはなにか? このことが『わからなくなっていった』時から差別は始まり、問題が解決できなくなったといえるでしょう」

一般的に語られる江戸期の政治や身分制度だけではなく、さらにその奥にある歴史的、文化的背景を遡ることが重要だという。鎌倉期の『塵袋』という書物には「清め」と呼ばれる集団が存在したことが確認できる。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて「神賤」「神人」「犬神人」「清め」などと呼ばれる一群の集団が歴史に登場する。皇族、貴族、寺社などに帰属し、清掃、葬儀、治安維持などに携わった。

彼らは「清め」の名が示すとおり、「けがれを取り払う」ことを職業とした。生命のエネルギーのことを古語で「気」という。「けがれ」とはそれが枯渇した状態、つまり「気枯れ」である。この生命のエネルギーは古来、東洋では循環しているものとしてとらえられてきた、「循環の思想」というべきものだ。活力にあふれた状態とはこの循環に滞りの無い状態のことであり、「気枯れた」状態とは循環の停止した状態とも言うことができる。

病を例に挙げると西洋医学は病原体や症状を克服しようと志向するもので、病の原因を消毒や治療によって取り除く。対して東洋医学は病の原因は自己の不調にあると考え、気の巡りを整え再循環させることを志向する、西洋医学的には免疫学と言うことになるだろうか。

「清め」もこの再循環に関わる仕事であることを念頭に考えると、死牛馬の処理が何故、被差別部落の産業とされていたのかも見えてくる。

牛馬も生まれて死んで、その間に、子牛、子馬として再生がある、循環するものであり、馬の死に際して清めがなければ魂は循環を止め、子馬という恵みが再生しなくなると考えられた。「馬の清め」とはいうなれば馬の葬送であり馬の再生である。毛皮や膠などは本来、副産物であり、江戸時代まで皮革も肉も自然死した牛馬からとっており、皮革や肉を「とるために殺す」ということはなかった。魂の清めが目に見えない仕事であるが故に、目に見える副産物が時を経て彼らの産業とされた。あるいは芸能や祭事も1年という循環する季節の節目を清める役を担ってきた。

前近代、こうしたことに携わる人々は一般社会と距離を取ってきた、しかしそれは生と死を司る、安易に近づくべからざる存在であるが故であり、差別とは違う色合いが確かにあった。「貧困」も存在しなかった。

部落が差別と貧困の二重の苦しみにあるという問題は、明白に明治以降の近代化の中で発生した。身分特権産業の廃止により経済的な基盤を失った。そしてかつて「清め」と呼ばれてきたさまざまなことが時代遅れで非科学的なものであるという認識が広がっていったと鎌田氏は語る。

「こうした『部落とは何か』がはっきりとすることが差別解消への道。部落の担ってきた過去の産業から、前近代の日本社会の智慧を学び、今後に生かしたい」

その後、引き続き翌日のフィールドワークに備え、室町時代より佐倉城の門前を護ってきたという上本佐倉の部落の歴史、城主である中世千葉氏の歴史をご講義いただいた。

第2講は「分けない社会は分けない教育から」と題して、千葉『障がい児・者』の高校進学を実現させる会」の中邨淑子氏よりご講演いただいた。

中邨氏の次男は高校を卒業し、就職をして現在三五歳となっているが、幼少の頃、脳細胞に影響を及ぼす発作を発症、IQは20以下と判定されている。親子の歩んだ歴史は「あたりまえ」を取り戻す歴史だ。

「私自身、それまで障がいについて何も学んでいなかったので、大いに戸惑いました。でも、あるとき長男が無邪気に弟と接しているのを見てはっとさせられました」

その後、保育園には現在ほどの困難も無く入園が出来た。

「保育園では3歳の子どもでも助け合ってくれるから、小学校でも大丈夫なんじゃないかと思ったのですが、これが大変でした」

入学の数年前、1979年に養護学校(現在の特別支援学級)の制度が始まったために、地域の小学校に通わせたいという母の願いは中々聞き入れられなかった。

「行政はこっち(養護学校)の方が幸せになれると言って聞かないんです。じゃあこの子の将来に責任を持ってくれるのか、といえばそうではないのに。生きる場所を自分で決められないのかと思いました。それでも話し合いを重ねてようやく入学通知がもらえました。兄のときは何気なく受け取った1枚のはがきがこんなにも重いものなんだ、あたりまえに生きるってこんなに難しいことなんだと思いました」

中学校にはそうした苦労も無く入学することができた。校長先生の「手伝ってなおかつ平等という教育をしたい」という言葉のとおり、学校全体で受け入れ、充実した学校生活を送った。

そして高校進学をめざす活動が始まる。

「浪人中、毎日登校時間に学校の校門まで行ってみんなに挨拶をしました。元気に挨拶を返してくれる子もいました。学校側も授業に出なければ、学内に入ってもいいといってくれるようになり、生徒会を中心に友だちもできました。高校生だと、友だちだけで出かけたりしますよね。そうしたあたりまえの生活ができるようになったんです。でも、うれしい反面やっぱりそれは交流生という扱いなんです。交流って言う言葉は本来行けない所に行くという意味、あくまで分け隔てが前提にあるんですね」

3年の浪人を経て高校生になった。

「息子が3年で入試に受かるようになったということではないんです。3年で社会が変わってくれたんです」

高校に進学し卒業したことが本人の大きな自信となったという。

「卒業しても、地元に同級生、知っている人がいるということ、地域につながりがあるということ。あたりまえに生きているとは、こういうことなんだな、と実感しました」

そして現在、息子さんは地域で働いている。

「サポートさえあればどんな障がいの子でも働けるんです。一緒に働く人たちが、まずどんな声を掛けたらいいのかと悩んでいるときは普通に『おはよう』と声を掛けてくれればいいと思います」

最後に、

「小中高と色々なクラスがありました。でも息子が居心地がよいクラスは、他の子にとっても居心地のよいクラスだったと思います。社会の中でも同じだと思うんです。共に生きる社会でないことは、生き辛さを抱えることになる。分けない社会は、分けない教育からだと思うんです」

と結ばれ、現在「実現させる会」で進学をめざして活動中の子ども達の様子を映像で紹介いただいた。力強く「あきらめない」と語る姿が印象的だった。

 

(人権擁護推進本部記)

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