【人権フォーラム】『宗報』にみる戦争と平和2 ―明治期軍人布教の草創期―


戦争とは平時を含むプロセス全体

近代日本の対外戦争は、日清戦争(1894~95)、日露戦争(1904~05)そして第一次世界大戦参戦(1914~18)とそれにつづく「チェコ軍救援」を大義名分にしたシベリア出兵(1918~22)などがあげられます。日本国は、ほぼ10年に一度は大きな国家戦争を主導・参戦していることになります。

明治期のふたつの戦争(日清・日露戦争)当時における曹洞宗とその僧侶の行動については、前回の「明治期曹洞宗の動向」(『曹洞宗報』8月号・第959号)で触れていますが、実はこのふたつの対外戦争の間の「平時」に重要な意志決定があったことは、あまり知られていません。

戦争とは、当事国政府による相手国への宣戦布告にはじまり、休戦協定で終結するという単純なことではありません。また、戦時と次の戦時にはさまれた、かろうじて均衡を維持している時期が「平和」を実現しているということでもないのです。

戦争とは武力衝突や戦争状態にある時期のことだけではなく、戦争に向かい構造的暴力を容認しつつある「平時」をも含むプロセス(過程)全体を指していると考えられないでしょうか。戦争は平和の尊さを満喫していた個人や集団が、いきなり非理性的な狂気に駆られて起こしてしまうものではありません。「平時」において積み重ねた共同の業(ごう)が引き起こすのです。市川白弦師の言を再び引用すれば「戦争の罪責はもともと平和の罪責である。戦争の罪責は戦争の勃発と同時に生起したのではない。それは平和のなかでの平和に対する罪責である」ということです。

 

軍隊布教 従軍布教  軍事布教

軍人を対象にした布教の呼称(曹洞宗に限定)には、いくつかのバリエーション(類義語)があります。平時、軍隊営内の施設内で、兵士教育の一環として行われる「軍隊布教」。戦時中、直接戦地に同行する「従軍布教」。主として平時の招魂祭を執行する「軍事布教」などがあります。それらを総称して「軍人布教」といいます。

前回記事(『曹洞宗報』8月号)でも紹介しましたが、本宗が組織的に軍人布教に着手したのは、明治28(1895)年日清戦争中の「従軍布教」です。当時は一宗として軍人布教関係の規程はありません。戦時対応の一環として、政府からの要請というよりは、仏教各宗派と連携して、政府と大本営に対して従軍布教開始を積極的に交渉した結果です。曹洞宗からは若生国栄師・白井一秀師が本宗従軍僧に許可されています。

 

義和団事件の従軍

日清、日露のふたつの戦争にはさまれた「平時」において、宗門の軍人布教の既成事実化と制度整備が急速に進行します。

明治33(1900)年6月、清の愛国排外結社、義和団は「扶清滅洋(ふしんめつよう)」を標榜して、北京駐留の日欧米露の8ヵ国連合軍と戦闘状態に入りました。この武力衝突は、日本では「北清(ほくしん)事件(事変)」と呼ばれていました。日本政府は、7月6日混成一個師団の増派を決定し、これにより日本軍の総数は、約2万2千人に達し、8ヵ国7万人の中で最大規模の兵力を派遣しています。

『宗報』第88号(明治33年8月15日)には、この時期、「北清事件」の従軍布教師の養成と早急な派遣を全宗門に呼びかけています。この従軍布教の主たる目的は、戦意高揚のための戦死者供養です。

 

軍隊布教廃止・自粛 ―キリスト教宣教師任用事件―

翌明治34(1901)年には、「軍隊布教の廃止」の記事があります。

軍隊布教といふ事は二十七八年の日清戦役の際従軍布教を僧侶に向て許され功ありしかば、其後引続いて平時も営中に於て僧侶に道徳修身の説話を為さしめたるものなり然るに近日乃木希典氏耶蘇宣教師を用ひて衛戊監獄の教誨を為さしめしより問題となり乃木氏も休職を命ぜられしも軍隊布教といふこと面倒の種子なれば営中には一切宗教の説話を為さぬことに議決せしとぞ

『宗報』第115号(明治34年10月1日)

乃木希典(のぎまれすけ)は、明治34年5月22日付で、第11師団長を解任されました。右引用の『宗報』記事によれば、乃木の休職は、軍隊営内の監獄で、耶蘇(やそ)=キリスト教宣教師を教誨師に任用したことによる処分ということになっています。

仏教教誨師の軍隊内の活動(軍隊布教)は何らとがめられることがないのに、キリスト教の場合のみ問題化するのは、明治31年9月「巣鴨監獄教誨師問題」と同様に、キリスト教に対する仏教教団側の強い反発にその原因があると考えられます。

ここに言う「軍隊布教の廃止」は、軍人布教そのものの禁止や廃止を意味するのではなく、軍隊施設における公然の宗教活動・宣教の自粛要請ということでしょう。

日清と日露にはさまれた「平時」にあって、軍人布教の実績と必要性が着々と既成事実化されていきます。

政府や軍などの軍国主義に強いられて、やむなく軍人布教に同調するという雰囲気ではなく、宗門が積極的、主体的にこのような施策を選択しているようです。

 

軍人布教規程の成立

第4次曹洞宗議会(明治29年)において、両本山は「陸海軍布教案」を提出しましたが、審議未了廃案となりました。その事由は、宗内の内紛によって議事が滞り、一議案も正規に審議できなかったからです。

続く第5次曹洞宗議会(明治34年)に、「軍人布教規程案」が提出されました。その案件の全文は次のとおりです。(『宗報』第一一九号〈明治三四年一二月一日〉所載)

第一条 曹洞宗両大本山ハ陸海軍人ノ志気ヲ涵養スル為メ軍隊所在地ニ布教師ヲ常在セシメ軍人ノ化導ニ従事セシム

第二条 軍人化導ノ方法ハ説教演説講義及施本又ハ吉凶慶吊其他適宜ノ施設ニ依ル

第三条 軍人布教ノ事務及軍人布教師ハ曹洞宗務局之ヲ直轄ス

第四条 両本山貫首内地親化ノ際ハ適宜ニ其巡錫地域ノ陸海軍隊ヲ慰問シ及軍人ヲ親化セラルルモノトス

第五条 陸海軍隊所在地又ハ最寄リノ寺院ニシテ軍人布教ニ関スル道場ニ指定セラルル時ハ之ヲ辞スルコトヲ得ス

第六条 陸海軍隊所在地又ハ其地方ノ寺院住職前住職徒弟ハ軍人布教ニ関スル法要アル毎ニ曹洞宗務局又ハ布教師ノ指揮ニ依リ随喜参同スルノ義務ヲ有ス

第七条 軍人布教師ハ戦時ニ於テ従軍布教ノ義務ヲ有ス

第八条 第八師団軍人ノ布教及台湾守備隊軍人ノ布教ハ北海道及台湾ノ各布教規程ノ定ムル所ニ依ル

第九条 軍人布教二関スル細則ハ宗令ヲ以テ別ニ定ム

第十条 此規程ノ施行期日ハ宗令ヲ以テ之ヲ定ム

この議案の趣旨説明を担当したのは、番外議員の木田韜光・弘津説三両師です。それによると、「軍人布教については、日清戦争以来の実績があるにもかかわらず、それに関わる規程がない。是非とも規程を整備し、陸海軍合計三〇名の軍人布教師の派遣を提案する。また、宗門の基礎は国家にあり、宗門は国家に対して奉公の義務を有す。その最も効果的で、曹洞宗の教義に最も適合する事業は、軍人布教である」(要旨)と説明しています。

これに続く「軍人布教規程案」の審議過程を要約すると、反対意見を述べたのは、7名の議員です。その反対理由は、軍人布教の非仏教性を指摘するものではありません。ひとつは布教師の人材不足の問題。もうひとつは、宗門の財政事情からすると、負担が大きすぎる点などです。

11月6日正午に採決が行われ、反対19名、賛成38名の賛成多数で、原案に文言の訂正を施しての可決となりました。その訂正箇所は、第6条の「曹洞宗務局」の下に「曹洞宗務支局」の6文字を挿入した点です。

この「軍人布教規程」は、「甲第44号(明治34年11月28日付)」で、全国末派寺院に普達され、さらに、その実施細則が「甲第62号(明治34年12月15日付)」によって制定されました。これにより、軍人布教は、名実ともに曹洞宗教団の正規の事業となったのです。来るべき日露戦争時の従軍布教のための制度整備が完了しました。

そのような動向にあって、内山愚童師は「戦争は総(すべ)て罪悪也(なり)、……故に吾人は曰(い)ふ、決して犠牲の羊となる勿(なか)れ」(『帝国軍人座右之銘』)という非戦論の思いを強くしていったのでしょう。

平時において戦争への傾斜と準備を選択している宗派と、それに抗う一宗侶との対比をどのように私たちは受けとめたらよいのでしょうか。明治時代の昔話とは思えません。

 

前回記事についてのお問合わせ

前回本欄記事「明治期曹洞宗の動向」での中、「日清戦争と曹洞宗」項について、読者の方からお問い合わせならびに資料提供をいただきましたので、補足説明をさせていただきます。

前回記事では「日清戦争開戦時、『宗報』記事はありません‥‥日清開戦時には、一宗としての情報告知媒体がなかった」という文章でした。

当該記事をお読みくださった方からは「情報告知媒体はなかったし、日清戦争に係る宗門の普達も確認されていないというのは事実に反する。史料が残っているはずだ」という趣旨のご指摘を頂戴しました。拙文をご高覧いただいただけではなく、ご意見まで頂戴しました。紙面を借りてこころより御礼を申し上げます。

当方は曹洞宗宗務庁や在京の宗門学校等に保管されている『宗報』およびそれに至るまでの宗門の公式記録文書綴を検索してきましたが、その範囲では日清戦争当時の広報・記録簿冊の存在を確認できませんでした。そのために前記事のような解説となりました。

ご指摘をくださった読者の方から後日提供をいただいた資料によれば、私どもが把握していなかった当時の『曹洞宗宗務局普達全書』の総目録が、すでに愛知学院大学の川口高風師により発表されています。

この『明治27~28年曹洞宗宗務局普達全書』目録によれば、当時の曹洞宗には、『宗報』というかたちでの情報伝達媒体が実際にはなかったことは改めて確認できましたが、個別の普達および諸通達は存在していたことが新たに判明いたしました。

日清戦争時における宗門普達類を目録から列挙します。

  • 明治二十七年九月一日 諭達 征清事件ニ付恤兵寄贈及軍資献納ノ事
  • 明治二十七年九月二十八日 普達甲第二十号 征清陸海軍恤兵寄贈品購入金高報告ノ事
  • 明治二十七年十月一日 甲第二十一号 征清軍人戦死者病死者姓名取調ノ事
  • 明治二十七年十月一日 甲第二十二号 征清軍人戦死者病死者精霊吊慰ノ事
  • 明治二十七年十一月十五日 報告 征清軍恤兵寄贈承認物品送納ノ事

等とあり、日本の最初の本格的な対外戦争に際して、後の日露戦争ほどの態勢ではないにしても、宗門挙げての国策推進の指示を発令していることが確認できます。

たいへん有益なご指摘と資料のご提供にあらためて感謝いたします。今後も本記事をご覧いただければ幸甚です。

(人権擁護推進本部)

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