【人権フォーラム】『宗報』にみる戦争と平和―明治期曹洞宗の動向―


仏教者の戦争責任

第2次世界大戦、日本にとってはアジア・太平洋戦争において敗戦というかたちで終戦を迎えて、今年で70年目を迎えます。

当時の生々しい従軍、戦争体験のある世代、幼少期に戦時下の辛く不自由な暮らしを記憶している世代から、現在では大半を占める戦後成長の世代まで、それぞれの立場において戦争の悲惨と平和の尊さについて思いをめぐらしていらっしゃることでしょう。

不定期になりますが、本欄では戦後70年を契機にして、曹洞宗教団、寺院、僧侶の戦争体験の一端を、本宗の公式機関誌『宗報』記事等によって紹介し、戦争と平和、とりわけ戦争責任について考えていきます。

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終戦時『曹洞宗報』(左)と『宗報』創刊号(右)

仏教者の戦争責任とはいったい誰のいかなることを指しているのでしょうか?

過去の戦時中に生存していない大半の世代が、個人として関わっていない戦争について何らかの責任を問われるということはありません。

たとえ戦時に生存していたとしても、幼少で一人の大人としての判断力も責任能力もない人が、「日本人」だから、「曹洞宗」の一員だからということだけで、一律に戦争協力の責任を担わなければならないということではないのです。

それにもかかわらず、なぜ仏教者の戦争責任なのか、ということについては若干の説明が必要になります。

仏教者の戦争責任について、その主体的かつ先進的な研究者として著名な市川白弦(1902~1986)師は、次のように述べています。

「戦争の罪責はもともと平和の罪責である。戦争の罪責は戦争の勃発と同時に生起したのではない。それは平和のなかでの平和に対する罪責である。‥‥われわれの戦争責任は、平和の時代における平和と自由にたいする罪責の平生業成のつみかさねであり爆発である。われわれは個人としてまた共同体として、平和のなかで平和と自由への罪責をつみかさねてきたのである。そして現在もなおつみかさねつつある‥‥」と。

市川師は臨済宗寺院出身で、臨済宗大学(後の花園大学)を卒業し、後に同大学教授となった、仏教の戦争責任論の草分け的な存在です。師は自らの戦争協力への反省と懺悔を通して、宗教界とくに禅仏教の戦争責任を追究しています。

市川師は、戦争責任とは、たんなる「戦争」時の責任ではないととらえ、「平和のなかでの平和に対する罪責である」と主張します。これによれば、過去の例えば15年戦争(満洲事変~ポツダム宣言受諾)はじめとする対外戦争に実態として関わらない仏教者であっても、平和な時代に平和の恩恵を満喫している現代のわれわれであっても、もし現時点で「平和と自由に対する」批判と努力を怠っているのであれば、近い将来の戦争責任を積み重ねつつあることになります。その意味では、仏教者の戦争責任とは、過去の他人事ではなく、わたしの、あなたの、みんな一人ひとりの問題なのだということになります。

未来を予測するのは難しいですが、過去の教団、寺院、僧侶が関わった歴史と具体的事例を振り返ることはできます。

時代や社会の違いや制約はありながらも、本来であれば不殺生を戒律の第一に掲げ、殺し殺され、殺さしめる戦争という暴力行為を容認できないはずの仏教者たちが、どのように戦争に巻き込まれ、それだけではなく、更に積極的に戦意高揚を先導していったのかをたどっていきます。

 

 

日清戦争と曹洞宗

明治時代の日本国による対外戦争には、日清戦争(1894〈明治27〉年7月~1895〈明治28〉年3月)と日露戦争(1904〈明治37〉年2月~1905〈明治38〉年9月)が挙げられます。

日本と清国、日本とロシア帝国との戦争ですが、戦争の動機と背景には、いずれも朝鮮半島における権益をめぐる両国間の対立がありました。

日清戦争開戦時、『宗報』記事はありません。読者の皆さまは意外に思われるでしょうが、これが事実です。

なぜなら、曹洞宗が『宗報』という公式機関誌を創刊するのは、1896(明治29)年12月ですので、日清開戦時には、一宗としての情報告知媒体がなかったのです。

日清戦争関係の記事が『宗報』等に見いだされない第2の事情は、曹洞宗内部の政治情勢によるものです。

近代曹洞宗における最大の政治抗争として有名な能本山分離独立事件がありました。1892〈明治25〉年3月の能登總持寺の独立宣言により始まり、1894〈明治27〉年末の和解成立に至るまで、一宗の行政機関としての曹洞宗務局は、両山不和のため事実上休止状態でした。

日清戦争開戦時(1894〈明治27〉年7月)は、抗争激化により一宗としての戦時通達はおろか、機関誌すら発行不可能な状況にありました。

当時の曹洞宗と寺院の動向は、一般新聞記事にその片鱗が見られます。

【海軍に従軍僧を派遣】 曹洞宗にては、若生国栄、白井一秀の両師を、大本営の許可を得て軍艦へ乗り組み布教せしむ。

(明治28年3月30日 毎日新聞)

【従軍僧、威海衛で短艇に乗って布  教】 曹洞宗の従軍布教師佐々木珍龍師は、先頃威海衛にて軍隊布教‥‥なおも布教に尽力し居れりと云ふ。

(明治28年4月6日 報知新聞)

当時の『宗報』の記事はありませんが、明治27年末に曹洞宗当局は政府・大本営と交渉し、2名の従軍僧の許可を得、従軍布教に着手しています。他に佐々木珍龍師は、独自に軍隊布教に携わっていることが分かります。

 

 

日露戦争と曹洞宗

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『宗報』第172号 日露開戦時

日露戦争時の曹洞宗の動向を『宗報』記事に見てみましょう。

『宗報』第172号(1904<明治37>年2月15日)巻末には、同年2月10日の「対露宣戦詔書」全文を掲載し、この詔勅を受け、宗務当局役員連名の「普達第11號」を全国寺院に向けて発令して、 

1  各寺院毎朝特ニ天皇陛下ノ玉體康寧聖壽無彊ヲ奉祝シ帝國陸海軍人ノ身體健全武運長久ヲ祈念スヘシ

2  各寺院僧侶説教若クハ法話ヲ為スノ際檀家信徒ニ對シ其職務ヲ勵ミ且忠勇ノ精神ヲ以テ節險ノ美風ヲ養ヒ切ニ帝国陸海軍人ヲ慰恤スルコトヲ奬ムヘシ

3  各寺院僧侶ハ此際各自ノ衣資ヲ節シテ當局告示ノ旨趣ニ準シ應分ノ恤兵金ヲ寄附スルコトニ努ムヘシ」

と、全国寺院が「忠君報国ノ志ヲ発揮」するように要請しています。

国家有事における曹洞宗としての対応は、将兵の「武運長久」等の祈願のみならず、説教法話を通して、戦争遂行への協力を促し、「恤兵(じっぺい)金」(軍人・軍隊への慰問金)の寄付を勧奨しています。

約1年7ヵ月に及ぶ日露戦争は、日本軍の勝利で終結はしましたが、日本軍将兵の戦死者は、ロシアのそれをはるかに上回り、少なく見積もっても約8万4千人、一説では11万人を超える人的損失があったとされます。

曹洞宗は出征し戦病没した宗門僧侶にたいして、「兩本山貫首禅師ヨリ特別ノ慈慮ヲ以テ法階贈補又ハ其他ノ殊遇ヲ贈表」する旨の「告示 第19號」(『宗報』第180号・明治37・6・15)を発令しています。同日の「告示第20號」では、宗門檀信徒の戦死病没将兵軍属にたいしては兩本山貫首から「血脈ヲ贈授セラレ及兩本山ニ於テ征露軍戦死病歿者過去簿ニ記入シ永世回向」する告示も発しています。

まさに物心両面における戦争推進と銃後の戦意高揚に邁進しているのです。

 

内山愚童師の非戦論

曹洞宗のみならず仏教界全体も同様に戦争の国策に積極的に協力している中、忘れてはならない宗侶がいます。

その人の名は内山愚童師(1874~1911)です。愚童師は戦争後、秘密出版『帝国軍人座右之銘』の中で次のように述べています。

「戦争は総(すべ)て罪悪也(なり)、常に専制者と相場師とを利するに過ぎざる者也。故に吾人は曰(い)ふ、決して犠牲の羊となる勿(なか)れ」という非戦論を宣言したのです。その言動の背景には、『万朝報』や後の『平民新聞』における非戦論の高揚や、愚童師の妹ヨシの夫の戦死などが影響していると考えられます。

仏者としての自覚のもとでの非戦論を宣言した愚童師は、これから二年弱で、国家反逆を謀議(大逆事件)したとの汚名を着せられ、刑死しました。

        (人権擁護推進本部)