【人権フォーラム】『宗報』にみる戦争と平和3-大正期・第一次世界大戦-


大正デモクラシーと曹洞宗

俗に言う「大正デモクラシー」は、厳密な歴史学術用語としては、必ずしも適切ではないという評価が一方にありますが、一般には「大正時代の特徴をなす、政治、社会、文化の各方面にあらわれた民主主義的・自由主義的傾向」(平凡社『日本史大事典』4・514頁)という認識が定着しています。

曹洞宗教団は、内外激動の明治期を経過して、大正期は制度・組織とその運営において一定の安定期にあります。

『宗報』記事を見るかぎり、明治期にはあった甲論乙駁風の活発な論説記事は姿を消し、「法規令達」「職員任免」「懲戒」「賞典」「住職任免」等の通達・告知記事が大半を占めます。その点では宗内の多様な動向や思潮を知りうる興味深い記事は少なくなっています。

宗議会の議事録においても、明治時代よりはむしろ保守的で、国家方針に積極的に順応する傾向が強いのです。

『宗報』記事ではありませんが、曹洞宗儀軌の基準である『洞上行持軌範』が、1918(大正7)年6月に大幅に改訂増補され、「祝聖」はじめ天長節関係行持等の皇室崇敬にかかわる諸行持が追加・補足されている点はその後の動向との関係で注目されます。

巷間の大正デモクラシーの影響は曹洞宗寺院、住職や檀信徒等にも及んでいたでしょうが、教団規模では、必ずしも大正デモクラシーの特徴である「民主主義的・自由主義的傾向」が浸透していたという顕著な事例は確認されていません。

大正デモクラシーという視点だけで、当時の曹洞宗の動向を分析することには、あまり有効性が認められません。

 

第一次世界大戦と曹洞宗 

では、『宗報』に掲載されている公文書の発令・伝達状況から、曹洞宗教団の戦時動向を概観しましょう。当時の公文書は①政府からの要請事項の伝達 ②教団の戦時基本方針 ③戦死病没者供養 ④戦時寄付関係 ⑤国民精神の指導の5項目に分類できます。

最初の、①政府からの要請は、大正3年8月23日の開戦詔書に始まります。「詔書」が『宗報』(大正3年<1914>年8月24日号外・写真)巻頭に大きな活字で掲載されることは、日露戦争からの慣行です。その要旨は、。日本はヨーロッパの大規模な戦乱に対して、極力局外中立を守ってきたが、日英同盟の協約によって、イギリスと交戦状態にあるドイツへの宣戦布告のやむなきに至った。東洋平和の保持と国益の保護という軍国の目的を達成すべく勤めよ、というものです。

次に「宗達甲第五号」(大正3年8月23日付)には、神道・仏教各宗派管長に対し、文部大臣の「文部省諭告第一号」(同日)があったことを伝達しています。対ドイツ宣戦に際しての宗教者の役割として、宗教者の本分と奉公の義務を尽くすべきことを諭し、また、極端な敵対心に駆られて、交戦国民を迫害したりすることのないように注意を促しているのです。

また、「宗達甲第六号」(大正3年8月29日付)は、文部省の宗教局長より特に曹洞宗管長へ、戦時の心得の基本を先の日露戦争に準じて徹底せよとの要請があった(発宗七九号)ことを、宗内寺院僧侶に伝達しています。

以上のように、第一次大戦への日本参戦の当日もしくは数日中に、政府から戦争協力の要請が仏教教団にあったことは確かです。

それでは、政府の要請を受けてから急きょ、曹洞宗が戦争協力に乗りだしたのでしょうか。事実は必ずしもそうとはいえません。 それは②教団の戦時基本方針に明らかです。つまり、対ドイツ開戦の「詔書」渙発の当日に、管長・内局部長名で「告諭」「宗達甲第四号」「宗達乙第三号」(大正3年8月23日)を発令し、「詔書」の趣旨を体して「忠君報國ノ赤誠」の本分をそれぞれの部署で尽くすべきことを指令しているのです。この間髪入れない対処は、日露戦争時よりもむしろ早いと言えます。

さらに、注目すべきことは、先述した戦時下での宗教者の具体的な心得と義務を伝えた文部省宗務局通達「発宗七九号」が発令された8月28日よりも前の25日に、宗門は「諭達」を出して、曹洞宗寺院の戦時における具体的な心得と注意事項を伝達しています。8月25日の「諭達」と28日の宗教局「発宗七九号」の3日間の間隔はわずかですが、これは曹洞宗が、決して戦争協力に消極的でないばかりか、むしろ国家の意向を先取りしていたことを証明するものです。

 次に、第一次世界大戦参戦時の宗務当局からの指示を見てみましょう。 8月25日「諭達」における戦時の注意事項は次の9項目です。

  • 戦詔書に対する両本山貫首の「教諭」(大正三年八月二五日付)を檀信徒に周知徹底させる
  • 檀信徒の出征者に対しては、士気を鼓舞するような説示を行う
  • 出征軍人の家族に対しては、慰問、救護を心掛ける 
  • 出征者で死傷者ある時は、その家族を慰問し、葬祭は特に懇切丁寧に勤める 
  • 戦勝祈念または戦死者追弔の法会を修行 
  • 宗門僧侶自身が出征する場合は、軍規厳守して他の模範となるよう心掛け、必要に応じて戦死者の弔葬に従事する 
  • 軍隊に対する特別寄付は率先してこれに当たる
  • 挙国一致のため国民精神の統一、引き締めに協力
  • 交戦国(ドイツ)民に対する人道に悖る言動を慎んで布教すべきこと。

以上の注意事項は、日露戦争時の文書(普達甲第一一号・明治三七年二月一五日付)と比較すると、極めて組織的、具体的指示と言えます。

 

戦死者供養と栄典授与

戦死病没者供養については、「告示第二五号」「同第二六号」(大正三年八月二五日付)の中で、その基準が示されています。軍人軍属の僧侶が戦死病没した場合は、両本山貫首から法階贈補の栄典が与えられ、また同様に檀信徒の戦死病没者にも、両本山貫首から血脈贈授されたうえ、両本山において永世回向がなされるという趣旨のものです。この法階贈補・血脈贈授や永代供養というかたちでの戦死者供養は、日露戦争時の方針をそのまま踏襲しています。

戦死者をどのように宗教や寺院・教会がどのように処遇するのかということは、きわめてデリケートな政教上の問題です。戦死者を平時と同様の扱いをすれば、戦争の「国家的正義」を宗教としては否定するということになりますし、逆に国家的意義を特別に強調すれば、宗教の世俗・政治への優位と主体性を自ら放棄することにもなりかねません。

そのような観点から、この時代の曹洞宗の戦死病没者への処遇から浮き彫りになることは、国家優位、戦争推進の方向性は否定できません。後世の「聖戦」「英霊」「顕彰」を中核とする靖国神社の信仰体系へ連なります。

 

戦時特別寄付募金

戦時特別寄付(恤兵)も、日露戦争の前例を踏襲したものです。「告示第二七号」(大正三年九月一五日付)には、「陸海軍隊恤兵金寄附委託心得」があり、これに従って戦時特別義援金が募集されたのです。第1回締切合計314円20銭。第2回締切合計884円10銭。第3回締切合計444円16銭。第4回締切分不明。第5回締切合計1,239円20銭となり、第4回分を除いた寄附金は、2,436円50銭となり、大正4(1915)年度の経常歳出の2%にとどまり、さほど高額ではありません。(当時の駒澤大学の事務費予算程度)。金額の多寡よりも、それに付随する戦争協力に対する精神的な意義が重要であったと考えられます。

 

国民精神指導について

第一次世界大戦時の曹洞宗の動向において、日清・日露戦争にはなかった特徴は国民精神の指導の強化です。

大戦終結の前年大正6(1917)年の8月1日に出された一連の「(時局及戦後ニ関スル管長)告諭」「諭達」「宗達乙第二号」の通達文書にこの指導方針が告示されています。これらは『宗報』第四九五号の時局説教講演特集号に掲載されたもので、公文書のほかに仏教連合会主催の時局演説文が6件掲載されています。目次に「本号ニ限リ平素宗報ヲ購読スル者ノ外ニ末派寺院一般ニ各一部、各寺院檀徒総代又ハ信徒総代ニ各一部ヲ配布セリ」とあり、宗務院の国民精神指導に対する尋常ではない意欲がうかがえます。

なぜこの時期に「国民精神指導の強化」が叫ばれるようになったのでしようか。理由は二つあると記されています。一つは、日本国は、中国山東半島ドイツ領青島侵攻以来、本格的な軍事作戦がなく、国内は軍需好景気にあり、精神的な弛緩がみられたことと、もう一つは、同年2月のロシア革命(二月革命)の衝撃です。特に後者は当時の首相寺内正毅の発言「露国政体の変革の如き决して外国の事として等閑視すべからず思想伝播の力は機微の間に恐るべきものあるは諸師亦熟知する所ならん此時に際し能く国民の思想を統一し国家国体の隆盛を計るは宗教家の力に俟つもの最大なりと信じて御願致度なり」に明らかです。(『宗報』四九五号所載)

「宗達乙第二号」には、「管長告諭」を踏まえて、国民精神指導の具体的方策七項目を示します。その主な内容は、

①寺院や檀信徒の家庭のみならず、軍隊・警察・学校等の各種公的団体において、国民精神の統一に資する説教・法話・講演を行う

②不良少年の感化・貧窮者の救済・出獄者の保護などの社会事業

③地方の公益事業への協力

④翼賛団体の仏教護国団への積極的協力と地方組織の設立推奨

などてす。

 

社会事業調査とその背景

一見、戦時の国民精神指導とは直接関係のないような社会事業や公益事業への協力を、宗派が全国寺院へ指示しているのは、どのような理由からでしょうか。前に引用した政治家の発言に示唆されるように、社会的に抑圧・差別され、経済的に困窮している国民の不満が、共産主義革命運動への導火線となることを警戒していたのではないかと思われます。宗務院当局は、社会公益事業を、それに従事する個人の善意とは無関係に、国民精神の統一という政治的目的のために利用していくのです。

戦時体制とはたんなる戦争している時期のものではなく、戦前・戦後においても、国家戦争遂行の潜在的目標のため、あらゆる物的・人的資産を国家に提供するシステムです。その意味では、第一次世界大戦では日本は戦線から比較的離れていたのですが、戦時体制の確立という点からはむしろ日清・日露戦争期よりも強固になっていたとも受けとめられます。

1916(大正5)年は、戦時関係の公文書は発令されていません。しかし、「宗達甲第五号」(五月一日付)には、曹洞宗寺院の社会公益事業の現況把握のため、全国寺院へ団体の届出を指示しています。社会的・経済的弱者の現況を全国レベルで調査し、革命等の原動力を抑止し懐柔するためです。ロシア革命の9ヵ月前に、すでにこのような指示が出ていることは、時代の先取りとも言えます。

 

近代曹洞宗にみる部落改善事業

曹洞宗と部落改善事業との関係について、注目すべき記録があります。前項の「宗達甲第五号」で宗内寺院に向けて指示が出された宗内における社会公益事業調査依頼に対する寺院からの回答をもとにまとめられた1923(大正12)年発行『曹洞宗社会事業要覧』(曹洞宗務院発行・写真)には、全国水平社結成以前の部落改善事業が報告されています。

埼玉県3ヵ寺、山形県1ヵ寺と広島県一事業が、この本宗記録に残っていますが、その活動実態はあまり分かっていません。なぜ埼玉県における事業が突出して多いのかも不明です。あくまで現場寺院からの自主申告ですので、かならずしも宗門全体の傾向を反映していないかもしれません。

全国水平社が1922(大正11)年に創設される以前ですので、当時は「特殊部落」改善と呼ばれていた融和運動であることは確かですが、いずれにせよ宗門寺院とその僧侶が被差別部落の社会問題についてまったく]無関心であったのではなく、ごく少数でありながらも何らかの関心と取り組みをしていたことを証明するものです。

ただし、水平社以降のいわゆる部落解放運動と宗侶・寺院・宗派との何らかの関わりを裏づける記録は今のところ確認されていません。

部落解放運動と曹洞宗との組織的な邂逅は、1979(昭和54)年にまで持ち越されることになります。

 

大逆事件の後遺症か?

大逆事件(幸徳事件)の連座者として内山愚童師を出した曹洞宗は、宗内はもとより対外的にも国家体制に忠実な宗派・教団の姿勢を事あるごとに表明する必要がありました。一種の社会主義(共産主義)コンプレックスに陥っていたのではないかと思われます。

政府からの社会事業調査を求められれば、コンプレックスの反動として率先して社会主義封じ込めの優等生ぶりを発揮しているものと考えることもできます。

内山愚童師の問題は、大逆事件に連座した刑死者を出したという面だけではなく、教団のその後の動向を逆に規定する側面もありました。

その意味では、愚童師の実際の行実とその社会的評価は、教団の歴史において今後も検証していく必要があります。

その後も、社会主義とは直接の関係のない、革新的なリベラル思想に傾倒した宗侶も存在しますが、ほとんど宗派・教団から正当に評価されないばかりか、むしろ異端視・無視されるようになったのも、先にあげた曹洞宗内の社会主義コンプレックスが関係していたのではないでしょうか。

ひとつの歴史的事件は、その発生当時だけの特異な現象だけではなく、その後の集団や社会の思想と行動に影響していく事柄としても見ていかなくてはなりません。

宗門と戦争との関わりは、まさに過去と現在との重層的な対話の問題なのです。

※このシリーズ連載では、『宗学研究』『曹洞宗研究員研究紀要』等に所載の各種の論考、史資料を参考に、各執筆者の同意により、その研究成果を利用しています

        (人権擁護推進本部)

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