【人権フォーラム】『宗報』にみる戦争と平和 8 ―日中全面戦争と『曹洞宗社会課時報』―


盧溝橋事件から「北支事変」「支那事変」へ

1931(昭和6)年9月18日夜に、中華民国奉天ほうてん(現在は瀋陽しんよう柳条湖りゅうじょうこ付近の南満洲鉄道爆破を口実に関東軍は大規模な侵攻を開始しました。これが後に日本では「満洲まんしゅう事変」と呼んでいる軍事侵攻になります。

この事変は1932(昭和7)年3月の「満洲国」建国を経て6年後には日中全面戦争に発展します。

本稿では、この日中全面戦争の発端となった盧溝橋ろこうきょう事件発生から「北支ほくし事変」「支那しな事変」の頃の曹洞宗の動向を『宗報』等の機関誌によって見ていきます。

盧溝橋事件の朝日新聞報道

1937(昭和12)年7月7日夜、北平ほくへい(北京)南西の盧溝橋付近で夜間演習中の日本駐屯軍に対して銃撃がありました。この発砲による日本側の損害はありませんでしたが、翌8日朝以降中国軍を攻撃し、戦線は華北かほく地方から中国南部(上海しゃんはい杭州こうしゅう南京なんきん)へと拡大しつづけます。

現地の関東軍の思惑や日本中央政府の楽観的な観測とは裏腹に「宣戦布告」もなく、日中全面衝突の泥沼へ突き進んでいきます。日本政府は当初の事態を中国華北の局地戦と判断して、「北支事変」と呼んでいました。次第に全土での戦闘状態の様相を濃くしていく中で、中国との全面戦争を意味する「支那事変」に改称します。さらに「暴支膺懲ぼうしようちょう(横暴な中国を懲らしめる)」というスローガンによって自らを正当化し敵愾心てきがいしんあおりたて、当時の大手マスコミもこれを熱狂的に支持しました。

 

「北支事変」一致協力諭達

 

『宗報』962号1937年7月号「論達」

次に紹介するのは、盧溝橋事件から一週間後の『宗報』第962号(1937年7月15日発行)記事です。

諭達

今般北支事変ニ関シ政府ハ本月十一日緊急閣議ヲ開キテ帝国政府ノ根本方針ヲ決定シ別記ノ通声明ヲ発セラレタリ

依テ本宗僧侶タル者ハ宜シク其ノ檀徒信徒ヲ教導シ正シク時局ヲ認識セシムルニ努メ以テ国民タルノ本分ヲ守ラシムルト共ニ協力一致一層国民精神ノ振作しんさくト仏教報国ノ実ヲ挙揚セラルヘシ
 昭和12年7月15日
   総  務  今井鐡城
   教学部長  奥村洞麟
   庶務部長  谷口乕山
   財政部長  平澤高岳

この諭達は、7月12日付の文部次官通牒(北支事変に関する政府声明)を受けて、宗侶に向けて檀信徒教導を要請するものです。諭達文中「国民タルノ本分ヲ守ラシムルト共ニ協力一致一層国民精神ノ振作」とある文言は、文部次官通牒にある表現をそのまま踏襲しています。

明治・大正期の開戦時における曹洞宗から寺院に対する通告文や満洲事変時のそれとも比較して、質量ともに比較的小さな扱いです。おそらく宗門当局も、日本政府もこれが後に第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)に直結する戦争になるという認識はなかったのでしょう。

 

軍人院号・戒名授与の指示

 

次に掲載するのは、盧溝橋での日中衝突から2ヵ月後に告示された『宗報』第966号(1937年9月15日発行)記事です。戦死者供養(法階増補・戒名授与)の指示になります。

 

告示第28号(『宗報』第966号昭和12年9月15日)

今次ノ支那事変ニ於ケル帝国軍人軍属中本宗寺院住職前住職又ハ徒弟ニシテ戦死者戦傷後死亡者若ハ其ノ他ノ原因ニ依リテ死亡シ軍部ニ於テ戦死ト同様ノ待遇ヲ受クル者ニハ管長ヨリ特別ノ慈慮ヲ以テ法階贈補又ハ其ノ他ノ殊遇ヲ贈表セラルヘキニ依リ本人ノ師僧法類又ハ教区長ニ於テ左記指定事項ヲ取調へ管轄宗務所ヲ経テ具申セラルへシ

  一 本人ノ僧籍

『宗報』966号「告示」

  一 本人ノ官等級 姓名

  一 本人所属部隊若ハ乗組艦名

一 戦死戦傷ノ後死亡若ハ其ノ他ノ原因ニ依リテ死亡シタル種別 地名竝年月日

一 僧侶履歴中得度立身転衣瑞世教師分限建法幢中最終ニ得タル法階明記

一 本人死亡ノ情況ニ付特記スヘキモノアリト認メタル場合ハ其ノ事実詳記

本宗僧侶中右ノ待遇ヲ受クル者ノ本葬ニ限リ地方宗務所長ハ必ス管長代理トシテ会葬シ管長ノ弔詞ヲ代読スヘシ此ノ会葬ニ要スル経費ハ其ノ宗務所ノ負担トス但特ニ本院ヨリ管長代理ヲ派遣スル場合ハ右ノ限リニアラス

 昭和12年9月15日

  総  務  今井鐡城
  教学部長  奥村洞麟
  庶務部長  谷口乕山
  財政部長  平澤高岳

 

告示第29号(『宗報』第966号昭和12年9月15日)

今次ノ支那事変ニ於ケル本宗檀徒信徒ノ戦死又ハ之ニ準スル死亡者ノ会葬竝弔詞ノ件ニ開シテハ自今左ノ通心得ラルへシ

一 多数戦死者ノ合同葬儀又ハ殊勲者ノ葬儀ニ際シ特ニ本宗代表者ノ会葬必要アル場合地方宗務所長ハ本宗ヲ代表シ会葬ノ上管長ノ弔詞ヲ代読スヘシ其ノ会葬経費ハ地方宗務所ノ負担トス

但各鎮守府竝要港部ハ前項ヨリ除外ス

二 一般戦死者又ハ之ニ準スル軍人軍属ノ葬儀アル場合其ノ地方軍人布教師ハ勿論其ノ近隣寺院住職ハ成ルヘク会葬ノ上弔意ヲ表スへシ但両大本山貫首代理又ハ管長代理ノ名儀ヲ以テ会葬シ又ハ弔詞ヲ呈スルコトヲ得ス

三 戒名ハ其ノ菩提寺ヨリ授与スヘキモノナレトモ戦死又ハ之ニ準スル軍人軍属ニシテ生前ヨリ戒名授与ヲ希望シアル者ニ限リ其ノ菩提寺ヲ通シ申請有之場合ニハ審議ノ上管長ノ慈慮ヲ乞フコトアルへシ但院号及居士号ハ将校竝同相当官ニ限リ其ノ他ノ者ハ菩提寺ノ権限トス

四 戦死者又ハ之ニ準スル軍人軍属ノ遺骨送還セラルルヲ聞知シタル場合ニハ成ルへク適当ナル場所ニ出迎へ弔意ヲ表スヘシ

宗務所長ハ前各号ニ関シ数区長ヲ通シテ各寺院ニ無漏悉知セシムへシ

 昭和12年9月15日

  総  務  今井鐡城
  教学部長  奥村洞麟
  庶務部長  谷口乕山
  財政部長  平澤高岳

 

日中戦争における戦死者等供養に関して、特に僧侶の法階追贈や檀信徒の戒名等授与についての告示です。

この告示は、明治期日露戦争(1904~05年)以降の宗門の告示文書を基本的に踏襲しています。

1937(昭和12)年からの日中全面戦争において特別に踏み込んだ内容ではありません。後者「告示第29号」は、檀信徒戦死者等への管長直々の戒名等授与については、「院号及居士号ハ将校竝同相当官ニ限リ」とあり、軍人院号・戒名授与について、軍隊階級によって扱いの違いがあったことが分かります。ただし、このような規定は、日中戦争時から始まったことではありません。1905(明治38)年5月15日の「告示第20号」に「院号又ハ居士号ヲ授与セラルルハ将校及同相当官以上ニ限ルモノトス」とあることに倣っているのでしょう。

ここで、私たちはもうひとつの「戒名問題」に遭遇します。

国家戦争・国策による自国の死亡者をどのように遇するかということは、いつの時代でも、宗教問題以前に、重要な政治課題となります。

戦死者等の死者を国策の尊い「殉難じゅんなん者」として「顕彰」するのか。逆に、戦争という暴虐による「被害者」として、その死を悲しみ悼むのかによって、その社会的意味づけそのものが異なってきます。

軍人(軍属も含む)の戦死病没等への供養のあり方としては、近代明治以降、国家的な意味づけがなされ、教団からの賞典として特別な戒名位階や院号等が授与されてきました。

『曹洞宗社会課時報』広告

ある特定の身分や階層あるいは地域や家柄にたいして、その存在を侮蔑するような位階や戒名については、「差別戒名」として私たちは反省と謝罪をしてきました。

一方、戦時とはいえ、時代的な要請から本宗僧侶が授与してきた軍人院号・戒名授与のあり方については、あまり真剣に考えられてこなかったように感じます。

戦争を否定しそれを繰り返してはならないという思いの追悼なのか。それとも戦争や犠牲をほめたたえる顕彰なのかが問われています。

 

第2の『宗報』 月刊『曹洞宗社会課時報』

 

1938(昭和13)年2月に『宗報』附録雑誌として月刊『曹洞宗社会課時報』が創刊されました。右は『宗報』第975号(1938年2月1日発行)に掲載された広告です。

「本宗社会事業及社会教化活動は日を遂(ママ)()ふて発展し、今日に於ては各事業とも相当多数に上るに到った。本院社会課ではここに見る処あって各種事業の連絡統制の機関として新に曹洞宗社会課時報を発刊することになった」と発刊趣旨を告知しています。

『曹洞宗社会課時報』創刊号表題

当時の『宗報』は、各号で変動しますが、通常総頁数20~30頁程度(宗議会議事録掲載号は除く)で、記事構成は「法規令達」「職員任免」「叙等給俸」「住職任免」「懲戒」「遺書保管」「結制修行」「大本山録事」「本院記事」「広告」などとなっています。『宗報』は宗制宗規公布や寺院住職を含む役職員任免等に係る公式機関誌ですので、宗内外の時事情報掲載については、その紙幅や構成には制限があります。

曹洞宗とその寺院の時事とくに社会的活動や戦時・時局情報については、既存の『宗報』とは別に広報誌を発刊することになったのです。そのような事情から曹洞宗務院教学部社会課から『曹洞宗社会課時報』が創刊されました。この雑誌は『宗報』の附録として毎月1回発行されていますので、いわば第2の『宗報』とも言えます。

曹洞宗のみならず宗教教団が、1931(昭和6)年満洲事変勃発以降の戦時体制や1937(昭和12)年からの国策「国民精神総動員」運動の中で、宗教者、信者の国家的な貢献が求められていたのですから、その貢献度を各教団が積極的に宣伝する必要もあったのです。

 

「曹洞宗事変対処局情報」「曹洞宗興亜局情報」による宣撫布教広報

 

『曹洞宗社会課時報』創刊号(1938年2月10日発行)の目次は、次のとおりです。

 

1頁 発刊を祝して 曹洞宗総務

   今井鐵城(写真)

2頁 題発刊 教学部長 奥村洞麟(管長祝辞色紙)

   ルポルタージュ 音楽報国の会

3頁 皇軍の慰問文をつのる 本宗の日曜学校・子供会は振って応募せよ

   本宗僧侶社会事業従業員

   調査に洩れなく応ぜよ

   日曜学校の連盟提唱 宗務所単位に統成せよ

   ルポルタージュ 善隣慈友会の設立

   承陽大師降誕社会奉讃会

   広告 祝発刊 文房具印刷

   青雲堂

4頁 時局認識 時局の推移と国民 精神総動員運動

   東京曹洞宗幼稚園連盟新年の初会合 

   広告 祝発刊 大本山永平寺 大本山總持寺

5頁 時局と銃後の防犯報国 吉岡祖禅

   空前有力なる大調査発令本宗関係者動態調査

   国民精神総動員標語

   司法保護功労表彰者 吉岡祖禅師の事蹟

   其他の表彰者

6頁 青年運動 ドイツの青年運動

7頁 原稿募集

         広告 祝発刊(宗会議員)

   編輯を終りて

8頁 広告 社会課製作紙芝居

   紙劇 お釋迦さま

   紙劇 承陽大師さま

   劇紙ママ 常済大師さま

   広告 「曹洞教会修證義 年中行事諸法要 説教実演集」曹洞宗布教講習所編

 

創刊号の戦時色はそれほど濃くはありませんが、中国本土の戦局が泥沼化するにつれて、「興亜聖業」「大陸工作」「宣撫せんぶ布教」(占領地で被占領民の人心を安定させる宗教文化工作)などの文字が多用されるようになります。

1939年5月以降は、『曹洞宗社会課時報』の附録として「曹洞宗事変対処局情報」後に改題して「曹洞宗興亜局情報」が戦時情報を広報しています。 

『曹洞宗事変対処局情報』表題

これらの記事には従来ほとんど知られていない事実も含まれ、後の『曹洞宗海外開教伝道史』(1980年発行後に回収廃棄)にも載っていない、当時の宗門の植民地布教の実情を知る意味では貴重な歴史史料と言えます。

参考までに、『曹洞宗社会課時報』第22号(1939年11月10日発行)の附録「曹洞宗興亜局情報」第5の目次を次に掲げます。

 

1頁 一意興亜聖業翼賛へ曹洞宗興亜局常任委員 蔵山光瑞

   全国布教管理 興亜翼賛講習協議会開催予告

   事変対処局が興亜局となる

2頁 東亜の新情勢に即し 興亜聖業翼賛の大綱成る 積極的大陸工作へ

   恒久的大陸工作の樹立

   百萬圓の興亜財団設立へ

   待機してゐる北、中支布教総監

   興亜局より

3頁 青島宗教連盟の結成と 本年度事業概要

   整備される開封の金閣寺(写真)

   弔辞下附申請に就いて

   新しく出来た英霊の弔辞

4頁 施薬で宣撫布教する 徐州の丸田活龍師(写真)

   現地だより

   郷土部隊慰問使の派遣に就いて

 

総力戦の中の宗教

近代国家による戦争は、宣戦布告がなされた国際法上の戦争かどうかに関わらず、もはや軍隊と国家機構の一部分の出来事ではなくなっています。

このように国家が国力のすべて、具体的には軍事力、政治のみならずあらゆる経済力、文化とりわけ宗教や思想も含め、戦時体制によって戦闘を遂行する戦争形態を国家総力戦と呼んでいます。

軍事とは直接関わらない産業や民衆や宗教教団が、この総力戦から距離を置き、独立性を保つことはもはや不可能であり、あらゆる事柄が国家戦争の遂行に捧げられていきます。

1937(昭和12)年以降の日中全面戦争からは、まさにこの国家総力戦であり、宗教者や教団が「戦争反対」という意思表明もそれにもとづく行動もすでに選択肢には含まれないという社会状況にあります。

しかし、このような状況になる前に、立ち止まり考え直す機会は、宗教教団にもなかったわけではありません。

いろいろな口実を持ち出しては、自由な言論を封じ込めたり、国粋主義的な国策に同調するさまざまな施策が次々と出されている時期にこそ、宗教者は立ち止まって、ものごとを熟考してみる必要があるのではないでしょうか。今のその選択や傍観、無視などが本当に望ましい結果をもたらすかどうかを―

 

齋藤秀一師について もうひとつの日中関係

齋藤秀一師

 

曹洞宗の『宗報』等の機関誌から見えてくる日中関係は、日中全面戦争という総力戦の範疇で活動する僧侶や教団の姿です。

その一方で、偏狭なナショナリズムの枠組みを超えて地道に活動した宗門僧侶の存在も記憶しておかなければなりません。

その僧の名前は齋藤秀一師(1908~1940)と言います。齋藤師は宗内ではほぼ無名の存在ですが、むしろ宗外の評価としては、在野の卓越した言語学研究者・エスペランティスト(ポーランドのザメンホフが発案

した世界共通言語エスペラント推進者)として知られている人物です。

齋藤師は1908(明治41)年12月24日誕生。生家は山形県山添村(現鶴岡市)の泉流寺です。秀苗、たみゑの長男として生を享け、地元中学校から駒澤大学へ進学し、1931(昭和6)年3月に同大東洋学科を卒業しています。(『宗報』第816号・写真) 

齋藤師ははやくから言語学特にエスペラントに精通し、大学卒業論文は「片假字の起り―歴史及びその将来」で、世界諸言語を例示しつつ、日本の片仮名文字の起源やその可能性を述べた論考でした。当時としては大胆な理論展開の萌芽を示すものでしたが、審査に当たった大学関係者にはまったく理解されなかったようです。

齋藤師は東京での就職を希望していましたが、折りしも昭和の大恐慌や不景気のどん底でそれはかなわず、結局は帰郷して地元小学校の教員となります。齋藤師は向学心旺盛で学問や教育についての意識も高かったのですが、旧態依然の保守的な教育環境には適応できなかったようです。しかし、齋藤師の実際の教え子の一人は、「あの頃、巡査と学校の先生はきまってこわい人間であった。しかし、新しくきた秀一先生は友だちのような先生だった」と回顧しています。

昭和6年卒業者名簿(東洋学科5行目)

齋藤師は1931(昭和6)年4月から山形で教員生活に入りますが、教職のかたわら、地元児童や青年たちに講演、講習活動を展開します。特にローマ字教育についての研究や実践に勢力を傾けています。これは日本語の伝統を踏まえながらも、さらに世界語に展開するためのエスペラント的発想から生まれたものです。この活動の中で、齋藤師は雑誌『ローマ字のきかんしゃ』『文字と言語』やエスペラント誌『ラティニーゴ』などを刊行します。

このような前衛的活動は地元教育界の理解を得られないだけではなく、学校長や官憲から忌避されるようになります。就職の一年後からしばしば警察に検挙(3回)され、1933(昭和8)年には、警察署に検束されるまでになります。当時は共産主義者や社会主義運動家だけではなく、自由主義者も治安維持法違反の疑いで次々と弾圧されていきました。

日中戦争が全面戦争の泥沼に身動きが取れなくなっていく中で、齋藤師は、日中両国民の対立や敵愾心を煽る世論に抗して、平和共存を求める「大国民的態度」を提唱しています。

 

今、世の中では国粋主義が幅を利かせているが、外国のことでもよい所はこれを採り、たとえ外国人とでも同じ目的をもつ場合は、これと手をつなぐという大国民的態度がいづれの世にも望ましくはないだろうか。

 

齋藤師は中国作家・魯迅るーしん(1881~1936)の「人類は将来必ずひとつの共通の言語をもつべきである」というエスペラント的な文字改良運動の見識に共鳴し、その影響を受けた葉籟士いえらいしの著述を日本語に翻訳紹介します。(『支那語ローマ字化の理論』1936年自費出版)

魯迅は最晩年の日記の中で、齋藤師による翻訳本を受け取ったことを記しています。魯迅没後に、齋藤師はすぐさま魯迅の追悼文を発表しています。齋藤師と魯迅とは直接の面識や書簡のやり取りはなかったようですが、日中全面戦争の怒涛の中で、深海流のように日中間の平和で建設的な交流があったのです。

齋藤師は1932(昭和7)年に小学校教員を解職されましたが、彼の学究としての業績が評価されたのでしょう、1938(昭和13)年5月に東北大学図書館に勤務します。しかし、同年11月には治安維持法違反の容疑で検挙・起訴され、予審を経て公判開始決定を受けます。

その後、秋田刑務所に服役しますが、肺結核の病状が悪化し自宅療養となり、病気と衰弱のため1940(昭和15)年9月5日に遷化します。享年31年9ヵ月。

平時であれば、おそらくは曹洞宗のみならず世界的な学究となったかもしれない齋藤師の最期でした。

 

注記

前項「齋藤秀一師について」執筆について、下記の方々のご協力および書籍等資料を参照しましたので、記して感謝を申し上げます。なお、本記事の文責はすべて執筆者に帰属します。

齋藤秀一の姓の表記については、「齋(・)藤」「斎(・)藤」「斉(・)藤」等が見られますが、師の記名論文や当時の卒業生名簿や辞令表記にもとづいて「齋藤」に統一しました。

(人権擁護推進本部)

参考文献

齋藤秀雄師 山形県鶴岡市泉流寺住職

佐藤治助氏 『吹雪く野づらに―エスペランティスト斎藤秀一の生涯―』(1997年7月10日 鶴岡書店)

別府良孝師 愛知県名古屋市龍潭寺住職 「15年戦争期の反戦僧侶―斎藤秀一師などの事跡―」(『東海仏教』第61輯 2016年3月号 東海印度学仏教学会)

別府良孝師 「エスペラント精神に基づいて反戦を貫いた斉藤秀一師」 

(『(「)TEMPLE』特別号 2014年8月30日 白馬社

佐藤玄祐師 山形県鶴岡市牧童院前住職「平和と民主主義を唱え続けたエスペランティスト斎藤秀一」(前掲書)

大原螢(渡部泰山)氏 「やまがた再発見 斉藤秀一」(前掲書)

朝比賀昇(小林司)氏 「ザメンホフを超えて ことばを民衆のために」 (前掲書)

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