【International】ヨーロッパ禅の現状と展望

2016.06.16
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ドイツ・寂光寺で講義する筆者

ヨーロッパ国際布教総監部に総監として赴任して以来、すでに3ヵ月が過ぎようとしています。私にとってヨーロッパ総監部への赴任は2回目で、8年前の1回目のときには宗務庁国際課嘱託員として当総監部に出向し、曹洞宗海外僧侶に関しての規程変更などの作業に明け暮れました。

今回再びヨーロッパに戻ってきて、そのときの成果が実を結び、ヨーロッパの曹洞禅が多くの国際布教師に担われてこの地に根付きつつあるのを目の当たりにすることができ、感激もひとしおです。

現在のヨーロッパの社会情勢は予断を許しません。

ご存じのようにパリでは昨年2回イスラム過激派によるテロがあり、その余波は今も続き、フランスでは非常事態宣言が未だに解除されない中、再びベルギーでテロが起きているような状況です。

ドイツ・寂光寺の裁縫室を視察

当総監部があるフランスは、フランス革命以降世俗主義を貫いており、公の場での布教活動には制限があり、宗教活動に対しては比較的冷淡です。それに加え政治的には、ヨーロッパ全体が押し寄せる難民、移民の対処に苦慮し、難民問題は現政権を揺るがすほどの大問題に発展しています。

こうした状況が仏教の布教にとって追風となるのか逆風となるのか、まだ判然としません。ともあれヨーロッパの情勢がこの先どのように展開していくか、しばらくは静かに見守りたいと思います。

さて、ヨーロッパの布教展開は曹洞宗の海外布教の歴史の中でもユニークです。ハワイ・北米・南米では、日系移民の菩提寺となる寺院が建てられ発展するという、日系寺院の歴史が原点にありますが、ヨーロッパではもともと日本人の海外移住者が少ないため、当初からヨーロッパ人が個人の信仰としての禅を、坐禅を中心に据えて確立してきました。そのヨーロッパ国際布教も来年には50年を迎え、宗侶数は400人を超え、特別寺院は一二ヵ寺にのぼります。

寂光寺での暁天坐禅

とはいっても日本のような檀徒は存在せず、葬儀・年回法要なども無いことから、僧侶とはいえ生活の糧を得るために外で仕事をもち、週末に坐禅を指導しながら布教を続けている方が多いのが現状です。ただただ個々人の道心に基づいた布教形態です。

ですから根底に揺るぎのない発心があるのは何よりなのですが、“禅とは何か”というところではもうひとつ確信が持てていないように思われます。ヨーロッパ共通の僧侶教育システムも無く、禅のテキストの各国語翻訳もほとんど手に入らない中、手探り状態での禅の理解ですし、参法の機会も限られますから止むを得ません。また坐禅と知識重視のため、学んだ禅をいかに日常生活に反映していくかという禅の実践という観点がおろそかになり、教えが宙に浮きがちです。

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フランス・龍門寺の結制で助化師を務める

曹洞宗が開設した宗立専門僧堂で長い間海外僧侶の教育に携わる機会がありましたが、その時も多くの海外僧侶が本場で本物の禅を学びたいと口にしていました。そのため本物の禅とは何か、言語、国、文化の制約を取り外した禅のエッセンスとは何かを、自分自身に問う機会が持てたことは幸いでした。

確かに通常の事業計画のようにヨーロッパ禅の将来と展望を述べるのは難しくありません。しかし、それは単に絵に描いた餅になりかねません。方法論を練り事業を計画に基づいて推進し結果を数字で提示することもできません。なぜなら仏法をその地に根付かせるのは個々人のたゆまぬ布教努力のみだからです。忘れがちではありますが、法は唯一、人に担われてのみ次世代に伝わっていくという厳粛な事実です。法を育てるには人を育てなければなりません。

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オランダ・禅川寺での提唱

そのようなことからヨーロッパで私ができることは、私が日本で師匠から教えられた法、祖師方から受けた教えを私なりに消化し、私の言葉で伝えていくという地道な努力以外にはありません。教えは一つではありません。10人の祖師がいれば10とおりの解釈があり、それらすべてが正しいとする仏教の寛容性についても仏法を説きながら同時に伝えていき、一個半箇の丁寧な教育を目指すという王道以外には曹洞禅の布教はありえないと確信しています。

法を担う人材を育成するのには時間がかかります。それも5年、10年ではなく、50年、100年経ってやっと結果が現れるというものだと思います。この現実を心にとめ、将来の曹洞禅の発展のためのささやかな布石になれたらと希望しております。

(ヨーロッパ国際布教総監 佐々木悠嶂 記)

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