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人々皆道を得る事は衆縁による
見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明らめし。竹、豈(あに)、利鈍有り、迷悟有らんや。花、何ぞ浅深有り、賢愚有らん。花は年々に開くれども、皆得悟するに非ず。竹は時々(じじ)に響けども、聴(き)く物(もの)ことごとく証道するにあらず。ただ、久参修持の功にこたへ、弁道勤労(ごんろう)の縁を得て、悟道明心(ごどうみょうしん)するなり。是れ、竹の声の独り利なるおのずかにあらず。また花の色のことに深きにあらず。竹の響き妙なりと云へども、自(おのずか)らの縁を待って声をなす。花の色美なりと云へども、独り開くるにあらず。春の時を得て光を見る。 学道の縁もまた是(かく)のごとし。人々(にんにん)皆な道を得る事は、衆縁による。人々自(みずか)ら利なれども、道を行ずる事は、衆力を以てするが故に。今、心を一つにして、参窮尋覓(さんきゅうじんみゃく)すべし。玉は琢磨(たくま)によりて器(うつわ)となる。人は練磨(れんま)によりて仁(ひと)となる。いずれ何の玉かはじめより光有る。誰人(たれびと)か初心より利なる。必ずみがくべし。須(すべか)らく練(ね)るべし。自ら卑下(ひげ)して、学道をゆるくする事なかれ。
『随聞記』巻五、第四節のお示しである。本節は、嘉禎二年(1236)12月除夜、懐奘禅師が興聖寺の首座(衆僧中の首位に坐る職位)にはじめて請せられた折りの道元禅師のお示しである。このとき、禅師は懐奘禅師に、興聖寺における修行僧の少ないことを気にするな、首座の職がはじめてで経験がないことを気にかけるな、と注意されながら、自分に代って衆のために説法するよう求められたのであった。それ故に、このお示しは、懐奘禅師にとっては感激をもって、心に深く刻まれたお示しであったにちがいない。その意味を訳せば、つぎのようである。 考えてもみよ。かの、竹に石のあたる音を聞いて道を悟った香厳智閑(きょうげんちかん)禅師のことや、桃の花が咲いているのを見て、心を明らかに見きわめた霊雲志勤(れいうんしごん)禅師のことを。竹に、なんで利鈍があり迷悟があろうか。花に、なんで浅深があり、賢愚があろうか。花は年々に開 くが、それを見る人みんなが悟るわけではない。竹はいつも音を発しているが、それを聞く人すべてが悟るわけでもない。ただ、長い間坐禅し修行した功にむくい、道を明らかにしようと努めはげんだ縁によって道を悟り、心を明らかに見きわめたのである。これは、なにも香厳禅師において竹の音が、特別すぐれていたからではない。また、霊雲禅師において桃の花が特別に美しかったからではない。竹の響きがすぐれていても、それはそれなりの縁にあって音を発するのである。花の色が美しいといっても、それは勝手に咲くのではなく、春という季節をまって、美しく花が開いたのである。 仏道を学ぶ上での因縁も、またそれと同じである。人それぞれ道を得ることは、ともに学ぶもののみんなの縁によるのである。人はめいめいすぐれていたにしても、仏道を行ずることは、ともに学ぶもののみんなの力によるからである。みなみな心を合せて、仏道をひたすら求めきわめなければならぬ。玉は磨かれてはじめて立派な器となる。人は練り磨いてはじめて立派な人となる。どんな玉でも、はじめから光り輝いている玉はないし、どんな人でも、はじめからすぐれた人はない。必ず磨かなければならぬ。必ず練らなければならぬ。自分を卑下して、仏道修行を怠ってはならない。 ここで禅師が示されていることは、結びの言葉に「玉は琢磨によりて器となる。人は練磨によって仁となる」とあるように、仏道を学ぶものにとっていちばん大事なことは、自分を磨くことであり、しかもその自分を磨くことは、自分だけの道をとおしてでなく、人々とともに学ぶ道をとおしてでなければならぬというのである。 ここで引かれている香厳智閑禅師の話とはこうである。香厳は若いときから秀才の誇まれが高かった。そこで、師の 霊雲志勤禅師の話というのは、霊雲も香厳と同じように、 禅師が、香厳や霊雲を挙げたのは、香厳が竹の声を聞いて悟り、霊雲が桃の花を見て悟ったというのも、香厳や霊雲が偶然、竹の声を聞き、桃の花を見て悟ったのではたく、悟 りにいたるまでの長い年月、師のもとにあってみんなとともに修行してきた修行の積み重ねによるというのである。それ故に、修行というものは自分ひとりでできるものではなく、人々とともに切瑳琢磨(せっさたくま)してはじめてできるのだ、と教えられているのである。 この道元禅師の教えは、禅師が、懐奘禅師をはじめとして門下の修行僧たちを激励して示された言葉であるが、それは時代を超えて、今日の私たちにも呼びかけるものをもっていると思われる。それは、仏教とは、自分を磨いて、人に尽くす教えであるが、その自分を磨くことは、自分ひとりではできないことである。 今日では、仏教を学ぶのに書物をとおして学ぶとか、ラジオ・テレビをとおして学ぶことが多いが、それは自分を磨くのに自分ひとりをとおして学ぶことである。なるほど、書物をとおして仏教を学ぶときも、書物という相手があり、ラジオ・テレビをとおして学ぶときも、画面に映る、または、アナウンスする相手があるが、その相手は、一方交通で、自分に受け答えする相手ではない。本質的には、自分ひとりをとおして学ぶことである。このような学び方は、ともすれば途中で退いたり、くじけたりすることが多い。人間ひと りは弱いものであり、安易につき易いものであり、迷い易いものだからである。これが人人とともに学ぶときは、ときにはいやになり、ときにはずるしたいと思っても、自分勝手が許されないから、みんなの力に引張られて、励まされ、いつのまにか軌道に乗って、おしまいまでやりとげるものである。禅語に、「大衆威神力(だいしゅいじんりき)」という言葉があるが、これをいうものであろう。
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