【特別座談会】曹洞宗の将来像に寄せて ~教団の今後に望まれること~


平成23年に「宗門の将来像を構想する専門部会」が設置され、平成24年2月より教団将来像の核となる理念の構築を目指した「現代にふさわしい教団の理念、教団のあり方に関する分科会(第一分科会)」が宗門内外の有識者を招集して設置されました。総勢13名の有識者委員で構成する分科会から、今回は中心的な発言をいただいている3名の著名な有識者にお集まりいただき、曹洞宗の教団としての将来像を語る座談会を開催いたしました。その様子をご報告いたします。

【日 時】 平成25年12月20日(金)

【出席者】

島薗 進  第一分科会・委員
下田 正弘 第一分科会・委員
池田 魯參 第一分科会・副座長
葦原 正憲 専門部会部会長(宗議会議員・山形県長源寺住職)
山路 純正 第一分科会座長・専門部会副部会長(宗議会議員・京都府慶昌院住職)
司会進行  専門部会事務局

【司会】
第一分科会では、13名の委員から、曹洞宗に望まれる理念、現代における曹洞宗の存在理由などの所見をいただいています。その中で、「正法」・「三宝」・「生死」などを、キーワードとして挙げていただいています。

本日は、その必要性とさらには、その理念から想像される曹洞宗の将来の展望をお話しいただきたいと考えます。まずは、その前提として、現代の宗教界に感じる危機感のようなものがあるかと思います。その点について、島薗先生、下田先生の順に、お考えをお聞かせいただければと存じます。よろしくお願いいたします。

○宗教界が抱える危機感(課題)に関して

【島薗】
宗教界が感じている危機感ということですが、まず社会の側が宗教に大いに求めるところがある。期待感といいますか、あるいは宗教が見えにくくなっていることに対する欠落感といいますか、そういうものが広がっているのではないかと、私は受け止めています。
これは東日本大震災で強く感じられたものなのですが、大変悲しい出来事が起こり、それを一人ひとりの被災者、あるいは遺族、地域社会の方がたがどのように受け止めるのかという時に、やはり悲しみを受け止める入れ物として、宗教は大変重要だと感じられました。ですから、死、あるいは慰霊にかかわるような儀礼というものが欠かせないものだということが、強く自覚されたと思います。
ところが、東日本大震災の前にひときわ話題になっていたものは無縁社会ということで、いかにも社会のきずなが弱く細くなり、少なくなっている。非常に大事な人がなくなってしまうと一人きりになってしまい、立ち直るのが大変困難だというようなことが多く見られました。(高齢者にとっては)孤独死ということがあるし、若者にとっては、つながりが見つからない引きこもり、生きる意味の喪失、それから家族の中で虐待ということが起こるということがありました。そういうところに本来は宗教が支えになって欲しいという気持ちが多くの国民にはあるのではないだろうかと思います。
私は、実は死生学というものに十年以上取り組んできましたが、大学でも死生学ということを問題にするというのは、死から現代人は離れてしまって、死を受け止めるやり方が分からない。かつては、それは宗教や宗教と密接に結び付いた習俗を通して、いわば喪の仕事が行われたわけです。それを今どのようにしていいか分からない。あるいは自分の死というものにどう備えていいか分からない、そういうことが起こってきます。
また、原発の災害などが起こりましたが、経済的な発展のためには巨大な投資が行われているのだけれど、それが本当に一人ひとりの人びとの生きている意味にかかわっているのか。例えば、今災害からの復興ということが唱えられているが、大きな建物を作ったり、ゼネコンがフル回転して色んな投資が行われる。新しい産業を東北に興そうということがなされているわけです。では、地域住民一人ひとりの命が大切にされているかというと、どうもそうはいえない。冷たい対応が目立つ。結局「命より金ではないか」という批評がなされることがありますが、そういう社会のあり方、つまり心の無い社会ということが、広く体験されている。ぜひそこに宗教の側に大きな力になって欲しいという、そういう気持ちがあると思います。
一方、宗教の側がどう対応しているかというと、社会全体という点から見ると少し目立たない、あるいは苦しみや悲しみのあるところに十分に宗教の手が届いているといいにくい、そういうこともあると思います。伝統社会の中ではしっかりと果たされていた役割が、新しい大都市などでは、なかなか果たしにくい。
葬祭仏教というのはある意味では重要なことをやってきたわけですが、現代社会の様ざまな苦悩にどう向き合うかということになると、必ずしも安閑としてはいられないということがいえる。例えば、大都市では「直葬」ということが行われるようになり、曹洞宗の調査を見ても、葬式は増えているが法事は減っている。つまり簡略化という傾向があり、お通夜や法事の時間なども短くなって、おのずから気持ちもこもらないということになっているように思います。そういうことを感じる中で、宗教者・仏教者は様ざまな試みに取り組まれ、そこに伝統にのっとって仏法を世に現わしていくという、そういう可能性も見えているのだと思いますが、そのような世間の期待、そしてそれに対応しようとする宗教界・仏教界の動き、しかしそれがなかなかうまくいかない、こういうところが危機感に続いているのかと思います。

【下田】
島薗先生より宗教の広い観点からお話がありましたので、私は仏教に限定して申し上げたいと思います。
今、仏教における危機感をどこに感じるかといいますと、出家者が社会のなかでアイデンティティーを失いかけてしまっているのではないか、というところであります。この不安定な基礎の上では、仏教が何であるのかはっきりしないし、まして仏教者として何をやればいいか、自信を持って見えてこないのだと思います。
この原因はどこにあるのか。それは、仏教が社会にあまりにも同化しすぎ、しかもその事態に気が付いていないところから起こってきていると思います。これはおそらく一般の論者たちと異なった見方でありましょう。一般には、お寺が社会から乖離してしまったところに問題がある、もっと社会に寄り添わなければならない、社会と一緒に元気にやっていこう、という掛け声がかけられています。けれども私はこれは、表層的な見方であるように思います。社会という存在はそんなに甘いものではなく、全てを一元的な共同体の、平等なメンバーにしていこうとする強靭な力を行使し続けています。そうした社会――国家がその社会の究極的な形態ですが――が、明治以降、出家者という特別な生き方をする存在を社会の中に許さなくなってきた。戦後はもはやそれが既成事実化してしまい、そのこと自体が問われることさえ無くなっていると思います。一元的社会に仏教全体がすっかり巻き込まれてしまっている。そしてその世俗社会のただ中で、しかも僧侶としての独自の役割を求められて、それに応えていこうとしている。明治以後、近代になって出家者を取り巻く問題が二重に錯綜しているのです。一方で出家者という存在を、分かりやすくいえば認めないということを宣言され、世俗社会の中に同化されたうえで、同時に出家者として何をやるのかと問われている、そういう問題の構造になっています。たしかに明治政府が太政官布告として出した「肉食妻帯勝手たるべし」の令は、法の力による強制ではありません。しかし、260年の徳川幕府の政権を壊滅させた、その勢いに乗って進められた神仏分離、廃仏毀釈運動の直後になされたこの布告は、自主的で自由な選択を仏教界に与えるほどに甘いものではないでしょう。
そもそも仏教は、諸宗教と比べた時に、特に一神教と比べた時に、時どきの社会制度と共存しながら教えを伝えてきた点に特徴があります。これはアジアの仏教においてどこにも例外はありません。出家制度が成り立っていたのは、古代のインドであれ、現代の東南アジアであれ、東アジアであれ、いずれも社会がその制度、存在を認めていたからです。ところが日本は近代の法制度の下で、出家という特別な存在を嫌って、全て平等な制度の下に入れることを要求してきました。そして日本の仏教はその制度に従って仏教としてのあり方を表現し直していこうとなったのが、明治以降です。結果として、全く市民と平等に、結婚して家庭を持って、社会の一員として教えを継承していくという道を選んだわけです。これは当初は明治の新たな社会作りに対する仏教のかかわり方として評価されていたものです。しかし、一方で、「結婚しているというあり方は僧侶ではない、出家者ではない」と、アジアの諸国などの仏教者と比較をして課題を突きつけられ、非難されてしまう。しかも社会の中での活動や貢献を求められる。こんな状態では、社会において出家者のアイデンティティーは成り立ち得ないでしょう。
こうした出家者のアイデンティティーの危機というのは、あまり識者の間からは聞いたことのない課題で、隠れた問いになってしまっていると思います。まだこの問題を識者がきちんと明らかにしていないと思います。これは仏教界のみの責任ではなく、日本の社会との共同の責任であります。この根本的な問題を置き去りにしたままで、現代の社会の中で、いかなる役割を仏教界は果たすのかという問いを突き付けられ、それに答えていこうと努力しても、根本的な課題が残されたままになっていますから、空しさが解消できないのです。 私は、日本の社会はアジアの中で、一番法制度や民主化が進んでいると思いますので、その下での仏教界の抱える問題は、時代の先頭に立って抱えているところだと思います。ですので、この危機感は、同時に未来を開く可能性であると思っています。ここから話を進めたいと考えています。

【司会】
ご専門の分野を含めてのご所見、ありがとうございます。続けて、今のお話をもとに、曹洞宗あるいは日本の仏教教団の未来には、どのようなことが望まれるでしょうか。例えば、東日本大震災以後の曹洞宗を含めた仏教教団への期待などを含めてお考えをお聞かせください。

○教団の将来像に望まれること

【島薗】
出家主義を強調していきますと、在家の人たちとの接点がどこにあるかという問題が出てきて、その出家と在家が緊張関係を持ちながら、お互いに本来の生き方を求めていくということが見えにくくなることがあります。そこから大乗仏教というものも出てきて、むしろ在家の方に向いていくという動きが起こり、日本の場合は末法思想というものが特に強く、在家志向がさらに強められて、浄土真宗のように僧侶が妻帯するという形があり、さらに東アジアでは、家族を大事にするという儒教的な立場もあって、日本の仏教は出家者が妻帯するという道を選んできた。これは政府が半ばそういう方向を強制したような面もありますが、それだけの歴史的な背景が日本にあったと思います。おそらく世界の他の仏教地域がそういう方向へ急速に向かっていくという展望は見えないので、世界の仏教界の中では日本は独自の道を持っているということになると思います。しかし、そのような出家主義を取るか、在家に近付いていくかというのは、仏教に常にあった二つの方向性で、その両方に可能性があると私は思います。現代社会は大変に社会構造が複雑になっていきますので、維摩居士のように在家社会の経験を豊かに持つことが、仏法を真に活かす道だというような考え方が理解しやすいことがあるということだと思います。しかしそれが、下田先生が憂えているように、世俗社会の中にどっぷりつかって、そこから仏法の超越性を際立たせる可能性が見えなくなってしまうということになりかねない、そういう恐れがあるということだと思います。
東日本の大震災を通して、宗教界・仏教界の支援に大いに期待が集まったということの中には、このような災厄の中で、半ば立ち上がれない被災者、あるいはそういう悲しみを分かち合っている人に対して、仏法が持っている力に大いに期待が集まったところがあったと思います。それがどのように発揮されてきたかというと、例えば寺院が避難所として機能したり、僧侶が行うボランティア活動というものにも大いに期待が集まりました。それは、宗派の教義をそのまま説くという形のものが求められているのではなくて、被災者がそれぞれの場所で、それぞれに経験していることに即して、どのように宗教性を背後にたたえた支援ができるかというようなことが求められていたと思うのです。そういう試みが阪神淡路大震災以後、仏教界の中にも次第に育てられていて、特に東北は仏法が未だに地域住民と大変密接なつながりを持っている地域でもあったために、うまくそれが機能するということが起こったと思います。
特にこれだけの人が亡くなって、やり場のない悲しみに暮れておられる方を見る時に、どうしようもない時には、やはり祈るというか、世間を超えたものを意識して祈る、これは仏教的には読経し念ずるとか、願を回向するということにもなるかもしれませんが、そういうことが切実に求められてきた。やはり、それは仏法の修練を積んだ人でないとできないことであります。またボランティアは普通の人でもできるのではないかと批判をされる人がありますが、しかし仏法を土台にした、智慧と慈悲とに支えられて相手に寄り添うような支援の仕方というのが、実は大いに頼りになるということが見えてきたと思います。
これは仙台で長らく終末期医療を中心に携わっておられた岡部健先生が、やはり最後は僧侶に頼らなくてはならない部分があるのだということを盛んに強調しておられました。ご本人も昨年ガンで亡くなられましたが、そういう自分自身が死を強く意識する中で、仏法の力ということを大いに必要だと感じておられたと思います。
私は苦しみだとか、悪とか、死とか、人間の力では対処しきれないものに向き合った時に、人は宗教、日本人にとっては仏教が一番親しみ深いわけですが、そういうものとして自分の生き方を見直し、立ち直って、新しい生き方を求めていくということが起こると思います。
では、災害の時にそういうことがある程度に実現したから、それで安閑としていられるかというと、そうではなくて、大都市ではそういう場面が成立しにくくなっている。そういう中で、例えば、磯村健太郎さんという方が書かれている『ルポ仏教、貧困・自殺に挑む』(岩波書店)という本にありますが、大都市の弱い立場におられる方に接する道を探しておられる若い僧侶が描かれており、一つの光になるのではないかと思います。つまりこちら側で待っていて、法を求めている人に正しい法を教えるということは、当然必要なわけです。しかし社会の苦しみ・悩みが誰も手の届かないものになっている、そういうものにどうやって力になれるかということも、大いに仏教教団が課題とすべきことではないかと思います。それは今、貧困とか自死とか、より多くの人が孤独に苦しんでいて、生き方を見失う危険に常にさらされている、そういう状況にある。あるいは弱い立場の人、例えば、虐待を受ける子どもたち、そのような人たちのことを考えると、「社会に広く仏法を具現する」「正法を具現する」ということがいかに求められているかということが分かる、そのように考えております。

【下田】
先ほど申し上げた、社会のなかの出家者のアイデンティティーという危機感を前提としての話ですが、やはり出家と在家という問題が、これから日本仏教にとっての中心テーマであろうと思います。
基本的には、社会が世俗的に一元化してきたという事実は重要な問題で、これは正面から受け止める必要があります。分かりやすくいえば、現代にあって、究極的には世俗国家という形態の中に存在する、在家の原理による社会しかないわけであり、そことは別に何かサンクチュアリ・聖域のようなものを作ってみても、独り善がりでしかなかったり、メッセージが届かないものになったりするという問題があるわけです。ですから、あらゆる問いはすべて社会という場に現われてくることを自覚し、そこに真摯に向かい合っていくということを通してしか、仏教の働き、その存在は明らかになってこないことを認識しておくことは重要です。島薗先生がおっしゃったとおりだと思います。
しかし、同時に、その社会に向き合っていくことが可能になるのは、その社会を超然と超え出る一点というものがあるからこそであります。それがなければ、相手を助けているつもりになっていて、同じ激流に流されてしまっていることになりかねない。誰もが「よかれ」と思ってやるわけですが、こればかりは善意だけではどうにもならないところで、「よかれと思ったのに、こんな結果になってしまった」というのが、人間の知恵の暗いところです。こうした、あらゆる結果を超えて、できごとの意味を照らしてくれるのが仏法です。そうすると、よい結果のみにすがりつこうとする社会に染まらない一点というものを、出家者はこの社会のただ中で持ち続けていること。それが意識にはっきりと自覚されていることが必要だと思います。
この態度は、差別の問題だとか、人権の問題だとかで、苦しんでいる人たちに真摯に向き合うということと、決して矛盾しないものです。その時、いかに「よかれ」と思ってやっても、後になって誤っていたというのは避けられないことです。また相手のいいなりになってあげることが、よいことではないことも、いうまでもありません。人間の善意を正当化せず、その限界を認め、知恵の限界というのを自覚したうえで、しかも相手に真摯に向き合っていくことが可能になるためには、生死の一大事に立ち、社会に同化されない一点というものが、はっきりとしていなければならないと思います。この一点こそが、出家者の存在を成り立たせているものだと思います。これは決して社会の中で分かりやすく共有されるようなものではありまません。むしろ表面は、社会の流れに逆らうものになります。みんなで仲良く元気にやっていこうという仏教運動は、ここに至ると通用しなくなります。
仏教でいう「生死」。どれほど共に努力をして営みを続けていっても、つくられたものは最後すべて壊れていってしまうという一点だけは、揺るぎがない。どんな学識を持ってしても、知恵を持ってしても、それをつなぎ止めることができないこと、人知の及ばぬ地点が存在するということだけは、はっきりとしておく必要があります。個々、一人ひとりの大問題が存在していることを知る。ここから始まっているのが釈尊の歩みでありますし、それを伝えるのが出家者の役割だと思います。そのうえで、初めて共に歩く道が出現する。
ここをどのように言葉にしていけばいいのかは、慎重を要するところであります。というのも、いかなる言葉にして表現しても、言葉にした途端に、社会の一元的な言語の中に入って解釈をされていくからです。これは不可避な事柄ですので、それが起きてくることを常に自覚をして、対処し続けていくことしか道はないでしょう。言葉にすることによって、決してその言葉が問題を全て解決してくれるわけではないのですが、けれども、ある段階で言葉として結実させることは、見えなかった問題を明らかにしていくという意味で、極めて重要です。
歴史は、もちろん反省が必要ですが、一方で必然だったという受け取り方も重要です。日本の仏教のあり方について、明治維新の中央集権体制において、社会に一元化されない出家制度の大々的な維持が可能であったとは思えませんし、なにより、こうでなければよかったのにといっても仕方のないことです。ここに至った道筋を一つの必然として受け取り、そのうえで、この一元的な社会の中で、いかにして本来の出家の理念、アイデンティティーを確立していくことができるかを考えるべき時に、もう来ていると思います。
問題を具体化しますと、一番注目すべきは、日本の現在の出家制度の実態でして、ほとんどの場合に、家庭とお寺が一つになっている、親子と師弟関係が重なっているというところだと思います。ここをどのように受け取り、どのように解決していくか、これが重要な鍵になると思います。例えば社会と一体となって、社会の人びとが抱えている苦悩を共有していくというのは、もう家庭を持ったら分かるわけです。妻子に対する恩愛や、家を守っていくことにまつわる悩み、これらは家庭生活をしていれば痛いほど分かります。社会の人びとに共感することは、実はすでに経験済みです。普通の在家者とは異なって与えられているもの、それはその中で、お寺を継いでいく、仏道を継承していくという点です。つまり普通の親子にとどまらない、師弟という関係が同時に与えられている。この課題こそが、おそらく日本仏教の出家者にしかないところだと思います。
出家と在家というのは、広い意味でもともと一体です。というのも、僧侶が結婚せず、子孫を持たない社会は、常に在家者からしか出家者が出てこないわけですから、出家者が成り立つためには、在家者の全面的理解を必要とします。そういう意味で一体なのです。親から生まれていない子は、どんな高僧であってもいないわけです。
こうした出家者の存在が可能となるためには、一般の社会とは異なった領域の存在を認める、社会の姿勢が必須の前提です。古代のインドにおいて、そしてアジアの諸地域において、日本においても江戸時代まで、それが存在したのは、社会がその領域の存在を認めていたからです。明治以降の日本社会は、一般社会とは異なる領域の存在を認めず、僧侶はそれぞれの家庭で育成していくべきだ、社会は手を引くという姿勢に変わりました。いずれの仏教世界も直面したことのない課題に日本の仏教だけは立ち向かっているのです。だからこそ、この事実を受け止め直し、そこに立ち直して、改めて「在家の中からの出家」というテーマに向き合っていくべき時だと思います。親子を超えて師弟であることが、いかにすれば可能となるか、在家と同様の生活形態を持ちながら、改めて出家者として、社会の原理を超えて社会と向き合う姿勢を確立し得るか、そうした教育の場をいかにして構築し得るか、それを教団がどう支援できるのか、そこに目を向けていくべきだと思います。
事実、仏教が滅ぼされそうになったとき、出家者を守ったのは、いつの時代も、どの地域も、在家者でした。例えば、カンボジアの困難な時代では、在家者がお坊さんを国外逃亡させ、国が落ち着いたら戻ってくるというようにして、それをくぐり抜けていくときに支えになっている。この時在家者を動かしているものは、「出家者の存在は絶対的なものだ、それを守らねばならない」という確信と決意です。こうした在家者の力が生み出されるのは、社会と同化しない一点を、仏教が、出家者が持ち続けているからです。出家者のアイデンティティーというものをもう一度、確認しなおさなければならないと思います。

【司会】
ありがとうございました。島薗先生、下田先生から現代の宗教界に感じる危機感、曹洞宗または仏教教団の未来にどういうことが望まれるかの2点のご所見をいただきましたが、曹洞宗の僧侶、寺族の方がどのような点を考えていく必要があるでしょうか、池田魯参先生からお考えをいただきたいと思います。

【池田】
ただ今、島薗、下田両先生から貴重なご意見を頂きましたことに御礼を申し上げます。両先生のご見解を伺った後に、私に何か宗門人としての見解を述べよということですが、先ず、島薗先生からは東日本大震災における宗派を超えた僧侶のボランティア活動では目を見張るようなものがあったとご指摘がありました。それから終末医療に携わっている先生が最後は僧侶の出番ですよ、と思わず洩らされたということで、僧侶が今日でも現代社会において存在意義を持っているということは、先生のお話のとおりだと思いました。さらに、その僧侶の出番だといわれた先生のお言葉の根拠が何だろうか、何が僧侶の存在意義を先生がお認めになっているのか考えますと、まさに島薗先生が一貫して会議の席でご主張なさっている正法の興隆ということがベースにあるのでしょう。正しい釈尊の教えというものが根底にあり、釈尊の正しい教えにつながっている僧侶であるから、佐々木宏幹先生(駒澤大学名誉教授)がおっしゃっているように、僧侶が力(※仏力『仏力―生活仏教のダイナミズム』(春秋社)より)を持ち得るんだというようなことになるのだと思います。
その中で災害時には確かに教団や、僧侶の目に見える活動があったが、平時における教団のあり方がもう一つ大きな問題として残ります。私どもの宗門の問題でいえば、僧堂における修行、日常的な教化活動というものにかかわってくるのだと思います。日常底における、生活の禅というか、生活の中に生きている禅のあり方、“一息一息の禅、一呼吸一呼吸の禅”の意義というものを考えていかなければいけないのではないかと感じました。
そして、下田先生のお話は出家と在家という問題が一貫して重要なテーマではないかというご指摘でした。特に日本のお寺の、私どもの宗門も大半そうですが、親子と師弟関係が重なっている。しかしそれはマイナスの意味だけでなく、そこに親子関係を師弟関係で越えていくプロセスがはっきりと示されなければならないということです。先生は他の表現で「在家の中の出家」という言葉で非常に簡明に指摘されていました。私自身の経験ですが、寺に檀家さんが大勢集まった時、「お寺は特別なところだ、自分たちとは違うところだ。」という話をされ、若い頃にこの言葉を聞きドキッとしたことがあります。寺に住んでいる人間は外から見るとそういうふうに見られているのか、外から見るとお寺の家族というものは普通の市民生活をしている家族とは異なったものに見える、寺の中にいて本尊様にお仕えしている家族として見られている。それは何がしかの宗教情操に包まれた生活、宗教情操とかかわりを持ちたくても持てない一般の方がたとはだいぶ違った生活スタイルがあるらしいことを感じました。
また、出家者のアイデンティティーを回復する方策を、教団として真剣に考えなければいけないのではないかというご指摘でした。出家者のアイデンティティーについては、例えば、原始仏教の大家であった水野弘元先生がNHKのラジオ番組で『修証義』の講義を一年間放送されたことがありました。私が駒澤大学の学生時代のことで半世紀あまりも昔のことですが、そのお話の中で「出家の第一の条件は、仏教を行ずる専門家でなければならない。二番目は仏教を伝道する使命感を持った人間でなければならない。三番目は後継者を養成する力を持った人間でなければならない。」と三点をご指摘になりました。
なるほど、仏教を行ずる専門家でなければ出家者とはいえない、人びとに仏教の素晴らしさを理解してもらおうとしないものは出家者ではない。そして、私の師匠も苦労して私を育ててくれましたが、後継者を養成する、自分の寺の跡をきちんと継いでもらう跡取りを教育しようとする意識を持たない住職は出家者ではないという結論になります。
私には非常に分かりやすく出家の意義が理解できました。現代社会における、下田先生がいわれた出家者のアイデンティティーの回復の道は、これくらい間口を広げた定義にすることが必要なのではないかと思いました。出家の立ち位置は、どこまでもお釈迦様の教えは他の人生観や世界観と比べてみても突出して素晴らしいものだという、信念のようなものがないと具合悪いだろうと思います。
たまたま瑩山禅師の『洞谷記』を読んでいた時、これは素晴らしい考え方だと思いました。「洞谷山尽未来際置文」に、“仏は「篤心の檀那を得るとき仏法は廃れることがない」とおっしゃった”と示し、瑩山禅師は次のように言葉をつないでおられます。“檀那を敬うこと、仏のごとくすべし、戒、定、慧を修めることは皆、檀那の力によって成就するのである、然れば瑩山、今生の仏法修行は、この檀越の信によって成就したのである”と明記しています。これは私たちが心しなければならない点です。特に住職をしている私などはこういう姿勢をきちっといただいて努めていかなければならないと思うことです。
すなわち、先程の出家者のアイデンティティーを回復すると同時に、在家として位置づけられる仏法のよき理解者を一人でも多く増やしていこうとする、そういう努力が出家に求められるでしょう。在家の方がたにはお釈迦様の教えは何より素晴らしいんだと、お釈迦様の教えに従って生活していけば間違いのない人生が全うできるんだ、という理解を深めていただくことが必要なのではないかと思ったことです。宗旨にもかかわってくることですが、道元禅師の「出家」の巻「出家功徳」の巻では、もっぱら髪を剃り袈裟をつけることが出家のかたちであると強調されます。道元禅師はこのお考えで終始一貫しておられるが、瑩山禅師はそうではなく、身の出家と心の出家と二つ並列して示され、心の出家もあるといわれます。心の出家は、妻を持ち子供を持ち、社会生活を営んでいても心は立派な出家であると位置づけられます。この見解はこれから伝道教団として教化宗団として展開していこうとしている宗門の、宗旨の面から示唆に富んだ考え方ではないかと思います。道元禅師のご文章だけではいかない現実の問題を瑩山禅師が上手にフォローされるわけです。この方向で現代の曹洞宗教団の将来像のベースができ上がるのではないかと感じます。島薗先生、下田先生の主要な問題提起に対し、宗門人の一人として私の感ずるところを申し述べさせていただきました。

【司会】
ありがとうございました。ここからは出席者の話し合いにさせていただきます。

【葦原】
島薗先生、下田先生からご意見をいただきましたが、まさに宗門の将来像を考えた時に、社会が宗教をどう見ているのか、どう期待しているのかを的確にご意見いただき、感謝を申し上げたいと思います。「宗門の将来像を構想する専門部会」の一番大事なところであって、現状はどうなっているのか、その原因は何か、そのまま行くとどうなるのか、それを打開するにはどういう目標を掲げていけばいいのかを考えていくのが、私たち専門部会の内容なのです。島薗先生、下田先生には、私たち僧侶がどういう心構えを持って、将来宗門の宗侶としてやっていかなければならないのかという大事なところに触れていただいたと思います。そのことをより多くの宗内の方がたが共通認識を持ってもらうことが曹洞宗の発展につながるのかと思っています。
これは全てに私たち僧侶が反省に基づいた前向きの姿勢を持ち、それをどういう心構えで、どういう意識を持ってやっていくか、今後の私たちに与えられた課題ではないかと思います。その意味で的確なご提言とお聞きいたしました。

【山路】
私はいつも申し上げているように、先生方と一緒に席を同じくさせていただくだけで非常に刺激的でうれしくてしょうがないのです。先日、若い人たちの会合で、将来構想を語るというのはどんなことをやっているのか話をして欲しいということで、若干の話をいたしました。島薗先生の近著『日本仏教の社会倫理―「正法」理念から考える』の書評にもあったが、今の妻帯する仏教は必然があり変わってきた、これは進化した形ではないか。インド、中国と進化してきたのだから安心していいんだと、その立場で考えていると報告させてもらったら、本音で話しているんだね、久しぶりに本音の話を聞いたと評価をいただきました。先ほど葦原部会長が話しましたように、ここで何とか新しいものが出てくるのではないかと、大いなる期待を持っています。先生方にはもうしばらくお付き合いをいただき、新しい方向を示していただければと思います。

【島薗】
池田先生のお話でそうかと分かったことの一つです。それは、道元禅師と瑩山禅師の関係はさっき大乗仏教以前の、世間から超絶した出家の独自のあり方をしっかり守るというあり方と、檀那、つまり在家の側に立って在家の懐に入り、なお心の出家を保つというあり方ということで、仏教の中で大きく展開している論理が、日本の曹洞宗の歴史の中で具体化しているんだと思いました。池田先生は“一息の禅”とおっしゃいましたか。私が思い出したのは鈴木正三の「一鍬一鍬に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と耕せば」(『万民徳用』)という言葉です。日々の仕事一つ一つの中に仏の真理が籠っているということですね。鈴木正三も曹洞宗の方ですが、広く日本の仏教の論理のある種の特徴をよく捉えたお話と思いました。生活の中の禅をどうやって、専門家といわれましたが、どういった形で専門家として形にし、下田先生の言い方では超然とした一点に通じる形を持ち得るかということと、それをまた在家の方にどういうふうに伝えていけるか、その辺の具体的なイメージですね。これが第一分科会で探っているところではないでしょうか。伺ったところでは最近は朝活禅というものが女性に人気があるそうですが、やはりそういうところには現代社会の渇望といったものがあると思います。仏教の専門家というと学問をやり、経典を詳しく知っているように思いがちですが、今ある人びとの願い、渇望、苦しみなどに向き合うことができるということも大事な専門家としての役割ではないかと思います。
私は現代科学と宗教の関係に大きな関心があります。現代科学がどんどん進んでいってこのままで大丈夫だろうかということが懸念されますが、このような問題にもやはりお釈迦様の伝えられた法に基づくと、これはどこかで歯止めをかけねばならないとか、こういう問題も我われが現代の宗教教団に期待するところでもあります。我われというのは、在家の人びと、日本社会の多くの人たちが期待しているところだと思います。

【葦原】
島薗先生より東日本大震災の関係では、宗教家の力が求められているとのお話がありましたが、実際に私はNPO法人の関係で被災地に行きました。福島県飯館村に何回か行き、村長さんにお会いし、またそこに住まわれている方や、仮設住宅に避難されている方がたと話し合いをいたしました。飯館村の村長さんは、行政の長としての十分な仕事ができないが、そうした中で悩み苦しみながら得たのは、「金の世界じゃない、命の世界、心の世界だ」という思いであり、住民の方がたに頑張っていこうと話したそうです。その話を聞いた時に、これは宗教者の役割に近いものであり、そうとしか言えない現状なんですよ。それを何年になるかわからないが乗り越えていかなければならない現状なんですよね。

【島薗】
宗教色を出すと具合悪いところがありますが、宗教色を全く出さない、いつまでも出さないでいいのかと問題もある。避難所に僧侶の方が相談に行くと最初から法衣を着ていくと嫌がる人もいますが、話を聞いていくとやっぱり読経してくださいと、その時は宗教色をしっかり出す必要があるのですね。
尊いものを尊ぶものとして示すときには、宗教としての姿が見えてくるということですね。

【山路】
私は、一番大事なことを皆が言っていない気がしてならないのです。下田先生のお話にあった超然としたところがなければいけないというところ、それが本当の部分であって、その立場でものを言わなければいけないのに、妥協で議論するところがある。原発の問題も仏教の立場からの指摘は必要だと思うが、檀家の人が働いているからとか、地域にかかわっているからと、個人のレベルではそれでいいだろうが、教団となった時にはハッキリと言わないといけないのではないかと最近強く思います。

【葦原】
臓器移植や脳死問題もそうなのだけれど、個人のレベルの判断でというようになってしまい、教団としてきちんと方向性を打ち出すようにしなければ、宗教者として社会的な要請に応えられないのではと思います。

【島薗】
宗教教団には多様な方がいるので、それぞれの方を重んじなければならない。ただし、例えば原発は日本社会全体、人類全体の未来にかかわることなので教団として統一見解があってもいいのかと思います。

【山路】
声明文(※「原子力発電に頼らない安心できる社会の実現に向けて、省エネルギーのための取り組み推進を求める決議文」第114回通常宗議会にて)は出しましたが、基本的にお釈迦様の教えでは、このような行いはふさわしくないというところまで行きたいが、行きつけていないと思っています。

【葦原】
自信を持って言えるような教団になればいいと思うのですが、このことも今後の課題になると思います。   宗門人一人ひとりが、問題に対してきちんと結論を出すのは大変難しいことで、一人ひとりの見解に任せるといわれたときに、どう考えればいいのか分からないのではないでしょうか。

【下田】
お寺の役割についてなのですが、たとえば原発に賛成、反対、いずれの声も超えて、ともに入れている必要があります。というのも、現に、原発で働いて家を支えている人がいるのです。体を賭してぎりぎりまで働き、それによって家を支えてきている家族がある。その人たちの心にも寄り添わなければなりません。一方、日本のエネルギーの将来を立案していくような役割にある人もいる。その智慧にもならなければならない。お寺は、この両方を見ていく場だと思います。どちらかに立ってしまってはならない。だから出世間なのです。時々の社会の決定の陰に隠れてしまう人たち、そこにずっと心と目を配っておく、隠れた慈悲とでもいうようなものが働く世界がお寺だと思うのです。社会は目立つことしかしませんが、お寺は目立つ必要はないと思います。そこに誇りがあり、使命感があり、喜びがあれば、必ず若い人たちが入ってきて、こんな世界があるのかと、だったら本当に生きがいがあるところだと、きっと思ってくれます。具体的に「超然とする」とは、そういう現われ方だと思います。

【島薗】
下田先生もおっしゃったことですが、まさに普通の政治経済的な配慮の目の届かないところにこそ宗教の目が届くのだと思うのですが、それもやがては社会の中に現れるべきもので、そういうことが積み重なっていくとやはり社会が宗教に、とりわけ仏教に目を向けることになり、人びとの大きな生きる力になっていくと思います。

【司会】
今後もご協力のほどをお願いいたします。本日は、貴重なご意見ありがとうございました。

 

【プロフィール】
島薗 進(氏) 上智大学神学部特任教授・グリーフケア研究所所長、東京大学名誉教授(宗教学者)宗教を基盤に幅広い社会的・文化的事象に興味を持たれ、多数の著書・論文等の業績があり、フィールドワークも積極的に行っておられる。近著『日本仏教の社会倫理―「正法」理念から考える』(岩波書店)では、近代的な宗教観のもとで見落とされがちだった日本仏教の倫理性・社会性の側面が、現代社会の中で再び顕わになりつつある状況を論じておられる。

下田 正弘(氏) 東京大学人文社会系研究科教授(インド哲学・仏教学者)古代インド仏教における仏教聖典形成史を専門とされる。特に初期仏教が大乗仏教に発展する過程に関心の中心を置かれて研究を進めておられる。大蔵経テキストデータベース委員会では、代表委員を務められ、仏教学の基礎となる文献研究に多大なる功績がある。近著は『シリーズ大乗仏教(全十巻)』(高崎直道監修、下田正弘他編 春秋社)。

池田 魯參(師) 駒澤大学総長・駒澤大学名誉教授(仏教学者)曹洞宗総合研究センター所長を経て、現職。長野県栁原寺住職。