【特別座談会】第2回 曹洞宗の将来像に寄せて ~教団の今後に望まれること~


前回の座談会では、池田魯參副座長(駒澤大学総長)、島薗進委員(上智大学神学部特任教授・グリーフケア研究所所長)、下田正弘委員(東京大学教授)を中心にお話を伺いました。議論の中では、日本仏教に根付く「正法」の理念が現代においてあらためて求められていることや、出家者のアイデンティティーの確立や、出家者が「超然と超える一点」いかに保ちながら活躍をするか、といった問題の提起をいただきました。

今回はこれらの議論が、寺院や僧侶また檀信徒の方々との関係において、どのような意味を持ちうるかを具体的に探ることを試みました。

そこで、社会とのかかわりの中で、具体的に見え始めている宗教界や曹洞宗教団にとっての危機感や課題、将来の展望について理解を深めるために、前回に引き続き座談会を開催いたしました。

【日 時】平成26年1月31日(金)

【出席者】
勝 桂子  第1分科会・委員
平子 泰弘 第1分科会・委員
森田 英仁 第1分科会・委員

 

〇『宗勢総合調査』や『檀信徒意識調査』からみる教団の現状について

【司会】
まずは昭和三十年以降の寺院と檀信徒の方々との関係などについて、宗勢総合調査や檀信徒意識調査で中心的作業にあたっている、平子委員からお考えをお聞かせいただければと存じます。よろしくお願いいたします。

【平子】
まず曹洞宗の将来像を語ることについてですが、これは誰にとっても大変難しいことだと思います。これを考えていくにあたり、私は少なくともこれまでの曹洞宗のたどってきた道と、現在置かれている状況を確認することはできると思いますし、そこから何かしら将来に向かっての方向性が見えてくるのではないかと考えています。

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そこではじめに、宗勢総合調査について少し話しをさせていただきます。戦後、昭和三十年代以降貨幣経済がお寺に入ってくる中で、寺院の経営をどのようにしていくのかが課題になっていったと聞いております。また新宗教の台頭もあり、教団や各寺院がどのように教化していけばいいのかという課題を前にして、宗勢総合調査が始まりました。そこには時代の流れの中での危機感があり、それに対する曹洞宗としての対策を打つためにも、実際の状況を把握しなければならいない、という問題意識がありました。

その後、高度経済成長により社会が大きく変わる中で、檀家離れや、葬儀形態の変化と共に、これまでの寺檀関係が崩壊していくという議論があり、各報告書において将来の寺院運営の危機に警鐘が鳴らされたわけです。その危機は現実とならずに今日に到っていますが、これまでの経緯を踏まえて考えてみても、今後も大丈夫と言い切ることができないのも現実だと思います。

一方で、これからの日本を考えてみますと、政府調査では人口がこれから五十年後には三分の二まで減少すると予想されています。檀信徒に支えられての曹洞宗という存在は檀信徒の数の変化に左右されるはずです。

また、人々のお寺や宗教に対する意識というものも時と共に大きく変わっていきますから、今までと同じにやっていけるという保証はどこにもないでしょう。

こうした変化は、これまでの調査でも指摘していますし、今まとめている檀信徒を対象とした意識調査においても、見えてきています。

いずれにせよ、そうした意識は今後も大きく変わっていくでしょうから、それに対して先を見据えながら、どうしていくことが各寺院にとって、そして檀信徒の方々にとって良いのかということを考えていく必要があるのではないか。まずはそういった問題意識を持っていくことの必要性をはじめに申し上げたいと思います。

それと同時に、今後に危機感を持つ必要があるといえます。「これまで大丈夫だったから、きっと今後も大丈夫だ」と思いたいところですが、今後の人口減少や世帯構成の変化、超高齢化などの社会変化を考えたときに、寺院だけは無関係でいられるはずはないと感じる必要があります。

 

〇葬儀をめぐる寺院関係者にかかわって

【司会】
次に、勝(すぐれ)委員には分科会に参画いただき御礼申し上げます。現在、行政書士というお立場で活動をされる一方、葬祭カウンセラーやフィナンシャル・プランナーの資格もお持ちで、人生設計を考えながらその終焉まで考える、いわゆる「終活」やエンディングノートにもかかわってこられたと伺っております。また僧侶に関する著書も刊行されています。その辺の経緯を含めて、今お感じになられているところをお話しいただきたいと思います。

【勝】
20140408-2私が行政書士資格の登録をしたのは六年ほど前で、初めて相談を受けた内容がお墓のことだったのは、大きなご縁でした。たまたま大学時代に仏教思想史を専攻しており、「お坊さんとお話しするのは楽しそうだし、今なら(仏教にかかわることを)何かやれるかも」と、お寺にかかわる様々な問題を扱うようになりました。以来、お寺と利用者双方の緩衝剤のような役割で、改葬の業務などに携わってきました。そのうちに、自殺対策の往復書簡に取り組まれている方や、地域で様々な活動をされている方など、すばらしいお坊さまともご縁をいただき、『いいお坊さん ひどいお坊さん』(ベスト新書)の中身になっていきました。

 

〇青年僧侶の震災復興支援にかかわって

【司会】
続いて、寺院住職として、また全国曹洞宗青年会(以下 全曹青)など様々な活動に携わり、分科会の実務面でも協力をいただいています、森田委員からお話を伺います。

【森田】
20140408-3前回の座談会でもありましたが、下田委員がおっしゃっていた出家者のアイデンティティーの問題は、僧侶と檀家さんとの関係を考える、その前段階として問題になってくると思っています。

私は電話相談に携わっていますが、そういったものに「参加しませんか?」と青年僧を誘いますと、「とても人の相談にのることはできません」といわれてしまいます。「専門の知識を持っていない、勉強もしていませんから」と、二の足を踏む方も多いと思います。

僧侶が僧侶であるための重要なところは、誇り高さや使命感を持っていることであり、だからそれを頼りにする人がいると思うのですが、その誇り高さや使命感が希薄になっているように感じます。これはとても大切な部分で、それをどうやって若い僧侶たちが持つことができるかということなんだと思います。

危機感については、特に青年僧はすでに持っていると思いますし、その危機感の反映された部分、それは3・11の震災が大きなキッカケだと感じます。ここで「私たちがやらなくてどうするんだ」と、全体の動きを押し上げていった部分ではあると思います。

被災地に行って感じたことですが、今、丁度また(被災地支援に携わっている僧侶の)立ち位置が揺らぎ始めている現実があります。1年、1年半の間は、3月11日のリアリティがものすごくあったので、被災された方々もそのリアリティを持って語っていただけるし、それを受け止めようという気持ちも強くあったんですが、だんだん薄らいでいった。かといって、被災地の方々は、風化をされては困るという思いもすごく強くある一方で、現実の日常があきらめと共に変わっていく、青年僧で活動している人たちも、自分の役割や立ち位置に揺らぎが出てきている現実があると思います。

何かをやるにしても、「お坊さんがお坊さんであることのアイデンティティーの根拠は何か」というのは大きな問題で、それを一つでも持っている人は、誇り高くお坊さんでいられる部分があると思いますが、下田先生の話にあったように、日本はあまりに宗教も何もかもが(世俗的に)同化していく方向に移っていってしまったがために、お坊さんのアイデンティティー自体が揺らいでいる、というところがものすごく問題で、行き詰まり、先行き不安のもとになっていると思います。本来なら漠然とした不安感や焦燥感のある人が、お寺に行き、お坊さんに会うと、何となく抱えた不安を溶かし込んでくれると感じさせるものがあると思います。それが聖性(せいせい)と呼べるか分かりませんが、我々がどうやってそのようなものを持つかというところを考える必要はあると思います。

 

〇葬儀の現代的な役割とは?

【平子】
以前の会議において、島薗委員は、現実的に一般の人々が曹洞宗と接する場合、葬儀が多いという事実があり、その一方で曹洞宗の教えとしての坐禅があり、その両者をつなげていく課題がある、とおっしゃっていましたが、一般の人々と接していくなかでどのように教化していくかが、今後の一つの課題になっていくと考えます。

その葬儀は縮小化、形骸化してきています。この変化をそのままにせずに、古くから執り行われている葬儀本来の意味を見出し、現代に沿う形でアプローチしていく取り組みこそが有効なのではないでしょうか。そして、それを契機にして檀信徒の方々とのつながりを深めていくことや、新たなつながりを作ることができれば、そこから坐禅など、曹洞宗の教えを伝えていくという方向につなげていくことも可能ではないかと思います。

今、まとめている檀信徒を対象とした意識調査においても、檀信徒の多くは葬儀と供養をお寺の役割として認識しています。以前に比べれば、そうした意識は弱まってきているかもしれませんが、「お寺は葬儀、法事をきちんとやっていって欲しい」という意見が多い結果ですし、極端な言い方をすれば、こうした要望に特化した専門家としてしっかりとやって欲しいという意識のあらわれとも受け取ることができます。(曹洞宗報四月号別冊付録 曹洞宗檀信徒意識調査結果速報(平成二十五年四月一日発行)参照)

また、それに続いてお寺に希望する役割として、心の癒しや、苦しみからの救済、困った時の駆け込み寺などが挙げられており、仏教をより良く生きていくための精神的な支えとして捉えていることもわかります。こうした求めに応えるなかで、禅の教えや坐禅が大きく意味をなすのではないでしょうか。

【森田】
アメリカの人類学者のモーリス・ブロックは、喪に服することは二面性がある、二重構造であるといっています。一つは、人が死ぬということは、そのままにしておくと、どんどん破壊的な方向に動いていってしまう。どんな人も必ず死ぬんだから、それは破壊的な動きと結びつき、社会全体が縮小していく、というものです。二つめは、創造的な側面だといいます。創造的な側面は一回ダメになったものがまた違った形で生み出される。この考え方は、仏教の葬祭にも当てはまると思うのです。

こう考えたきっかけは、震災当初強く望まれた「鎮魂」とは、まさにこの破壊的な動きの食い止めの願いだったと気が付いたからです。そこから考えると、亡くなった方が仏さまとして我々を守ってくださる方となり、次の世代が新しい関係を創造していく力を生み出していく、そこに葬儀や法事が寄与できるのだと思います。

【勝】
市民向けの講座での質疑や、個人的にお墓の相談にお越しになった方の声を聴きますと、お寺に対して憤っている大半の人は、むしろ仏教を大事にしたい、お釈迦様の教えを熱心に知りたいと思っている方なんです。逆に、非常勤講師をしている専門学校の葬祭ディレクターコースでのことですが、葬儀社でインターンシップを終えてきた学生からは、「自分の宗旨もわかっていない人が、世間体を気にして“お坊さんくらいは呼んでほしかった”と言っている」といった声も多数耳にします。

一番お伝えしたいのは、このネジレの構造なんです。

釈尊の教えを知りたいと敬虔(けいけん)に思っている人たちが、寺檀関係を失って市民霊園に行ってしまう、あるいは散骨でいいと言いだしてしまう。気がついたら、「教祖の教えなんて興味ないが、ともかく葬儀法要は形だけしっかりやってもらいたい」という見た目の伝統重視の風潮ばかりが残っている、ということにもなりかねない。

宗教の大きな役割のひとつは、常識的思考からの価値観の転換、視点のチェンジだと思いますが、そうした革新的部分がなくなって、形骸化した役割を担ってくれさえすればいいと檀信徒から望まれてしまっているように思います。そうであるならば、それが“お寺の危機”ではないかと思います。その根本原因は、森田委員のおっしゃった「破壊の食い止めとしての葬儀、新たな創造としての法要」といった葬送儀礼の意義を、残念ながらいまのお寺の多くは伝えきれていないところにあると感じます。

 

〇寺院の役割~社会的背景を通して~

【司会】
今のお話の中にあったかと思いますが、寺院や僧侶の役割ということについてはいかがでしょうか。

【勝】
お寺には“見えない資産”、つまり陽の当たる縁側や、何百年と磨かれ続けた床、毎日掃き続けられた庭、樹齢何百年の霊木など、貸借対照表や事業計画にあらわれてこない財産が豊富に眠っているのに、資産と見なしていないもったいなさがあると思います。

例えば、男性で定年退職後、まだ60代で健康なのに行く場所がなく、話せる相手もいない人がどんどん増えているのが現状です。もう現役ではないので、きらびやかな街へ出ても楽しくない。年金暮らしで散財もできない。お寺や神社は、こうした人々のやすらぎの場になれるはずです。中高年ばかりでなく、競争社会で疲れ果てて小休止しているニート、引きこもり、不登校といった若者たちにとっても、寺社は救いの場です。

そのような人たちが気軽に立ち寄って、お茶を飲んで語らえる機会をお寺が提供する、行けば気軽に坐禅ができるとか、簡単な手仕事をしながら茶飲み話をするとか、世代を超えて交流できる場所であったらいいと思います。

僧侶の役割についても、たとえば江戸時代のように、仲人や名付け親になり、子どもの遊び場や寺子屋としても機能し、職業の紹介から悩み相談まで、「一生トータルで和尚さまに世話になっている」状態に、もう一度回帰させることはできると思っています。

実際、先ほどお話しした“仏教に熱心なのに、市民霊園でいい、散骨でいいと言い出してしまう人たち”は、菩提寺とは縁遠くなる一方で、カルチャーセンターの写経講座に熱心に通い、菩提寺ではないお寺の坐禅会などに参加していたりします。書店で仏像の写真集が平積みになり、仏具も売れています。お釈迦さまの教えも仏像も強く求められ、パワースポットブームに乗じてお寺にお参りする人もバブルの頃より増えていますが、「(形式だけになった)僧侶とのつきあい」は敬遠されている傾向にあるようです。

背景には、1980年代以降、自宅で亡くなる人が激減し、葬儀が業者主導になった経緯があります。例えば病院に出入りする葬祭業者が遺族に「ご宗旨は?」と尋ねる。「よく分からないが、たしか曹洞宗」と答えると、「ご紹介できます」と、菩提寺ではない僧侶を紹介してしまう。その後に七七日忌の納骨の時点で菩提寺に来てしまい、「どうして通夜葬儀に呼ばなかった!?」と住職が驚く結果に。だからこそ檀信徒の家で人が亡くなったらお寺に連絡してもらえる人間関係を構築していただけたらと思います。たとえば棚経の習慣が減った部分については、それに代わって地域の方とつながる、法話会や坐禅会などに新たな手法が必要かと思います。

【平子】
寺院や僧侶に求められているものは、自分たちの日常を変えてくれるものなので、非日常的な空間や存在としてみられている面があると思います。軽いところではリフレッシュ、気分転換できたり、もう少し程度が強くなると、自分をリセットしたり、悩みを解決してくれる場所であったり、相談できる相手として、寺院や僧侶が求められている話になりますよね。

【勝】
坐禅会と称して指導などしなくても、朝のお勤めを公開するだけで十分に効果があると思います。出勤前に寄ってもらううちに、「お参りしたほうが、すがすがしく過ごせた」と感じてもらうことも意味のあることではないでしょうか。

【平子】
一般社会と寺院というものの境目がなさ過ぎてもいけないし、また逆に敷居が高すぎてもいけないとう難しさがありますよね。寺院に来た方は、僧侶が話を聞いてくれる、アドバイスまでいかないとしても話を聞いてくれるだけでもいい、そんな役割が求められているかなと思うのですが、いかがですか。

【勝】
檀家さんばかりでなく、一般の方でお寺に行ってみたい、本を読むだけや日向ぼっこをさせてもらうだけでいいので、お寺に入れてもらえないだろうかいう方が多いんです。

【森田】
その世間とお寺のちょっとした違いが意外と重要で、以前はお坊さんはみんなと変わらないというスタンスが一時期あり、親しみをもってもらうためにクローズアップされましたが、今は少し違ってきていると思います。お寺という空間がちょっとした異空間という感じを持つ方も多いわけで、それをどのように我々の強みにできるのかを展望してもいいのかと思います。

【勝】
異空間のなかで坐禅会などで日々の行を共有し、その後のお茶会などで傾聴の機会を増やしていって、そのことが僧侶の聖性に繋がるということですね。

 

〇お寺は地域社会をつなぐ場所に

【平子】
檀信徒を対象とした意識調査でも、今後の寺院に果して欲しい役割で、葬儀、法事はもちろん多いのですが、それに続く形で「地域社会をつなぐ場所に」とか、「心が癒される場所」とか、「生者を苦しみから救うこと」という項目が挙げられています。一方で歴史的に見ても、お寺は世間とは異なる場所であり、世間の価値観を持ち込ませない場所であり、世間の肩書きも置いてきなさいとの世界観があります。それこそが僧侶が与えられる価値観であり、寺院が持つ場所としての力があると思います。

【勝】
また最近は、すでに肩書きやレッテルが剥がれてしまって苦しんでいる人がたくさんいます。そんな彼らにとって、「そもそもレッテルを剥がして来なさい」というお寺という場は、とても癒しになると思います。

【平子】
そうしたレッテルは所詮レッテルであって真実ではないわけです。本来の自分やその有り様は、仏教でいえばダルマ(真実)といいますが、その真実を正しく見つめることと、正しく観察する視点や方法を示しているのが仏教であるし、禅であるし、曹洞宗の教えだと思います。僧侶はそうした見方をしているからこそ、世間からは聖性というものを持って見てもらえると考えます。

【森田】
禅の語録を見るとそのような場面は沢山ありますね。お坊さんの世界でも「論師」とか「法師」とか呼ばれている人たちは、いっぱい抱え込んだものをすっかり降ろすことを求められたりする。お寺の世界の中でもそうですので、同じような働きをお寺としても担っていけるのかと思います。社会での肩書がなくなった人も、お寺を「あらたに再生できる場所」として使っていただけるようになっていくとは効果が大きいと思います。

【平子】
しかし、僧侶に「何でもかんでもやれ」というのは無理な話で、それぞれに自分のできること、特性はあると思います。自分は話すのが得意、坐禅会の指導ならば自信を持ってできる、人の話を聞くのは自信を持っていますとか、地域の中で特性を持つお坊さんは必ずいますので、何でも自分でやろうとしないで、教区や地域の中で、分担するのも一つの方法ではないかと考えています。そうした様々な活動をおこなううえでも、その依って立つ背景として、今検討されている「現代にふさわしい教団の理念」が後押ししてくれるものになると良いのではないかと思います。

 

〇苦に向き合う姿勢を持つ僧侶像

【司会】
分科会での議論では「行」または「生活の中の禅」といった言葉がよく挙げられます。これまでの議論からは、僧侶は、超然とした姿勢を保ち、生活の中に禅を形にして活かす専門家であり、そこから得たものを檀信徒の方々や檀信徒でない方々にも伝えていく、そのようなイメージが思い浮かびます。

一方で、仏教の根本命題である「苦」を掘り下げることが教団にとって重要であるとの提案もありました。その点について、森田委員が被災地の活動で経験された宗教者の役割を中心に、例えば「苦に向き合う」といったことにおいて何か感じている点があればお話しください。

【森田】
六月に全曹青で、福島での傾聴研修会を予定していますが、一時期に比べるとお坊さんの役割、立ち位置といったものが見えにくくなっているように思います。

お坊さんが被災地に行く役割がなくなってきたわけではなく、例えばお坊さん抜きでの支援活動ですと、「今日はお坊さん来てくれないの」と言われことがあるそうです。だからお坊さんの役割はあると思いますが、それが見えにくくなってきているので、社会福祉協議会や生活支援相談員の方からも意見を伺って、どうやったら私たちの立ち位置を見直すことができるのかと、傾聴研修会のプログラムを考えています。

【平子】
そうした事例において、人々がお坊さんに精神的な悩みをぶつけていることが明らかになれば、そういうところにお坊さんの役割があると確認できるのではないでしょうか。

【森田】
ある意味で、人って時間が経つと、思いとか、苦の現実も変わっていくのだろうと思います。でも、もしそれとかかわっていこうという思いを持ってるのなら、それを分析して考えていかないと、立ち位置がぼやけてきてしまうこともあると思っています。

 

〇コミュニケーションの中で仏法が説ける僧侶像

【勝】
先日、ある地域で「お寺へ駆け込もう!」という町起こしのワークショップを開催しました。参加した皆さんは、そこで初めて菩提寺以外のお坊さんと話したという方がほとんどだったのですが、「お坊さんと人生や町のことについて話すのって、こんなに楽しいとは思わなかった」と言っていました。

【森田】
お坊さんが話しをしてコミュニケーションをはかるということは大切ですね。私は全曹青の研修会で話しをする機会があり、そこでは、火葬場で参列者と一緒に火葬待ちをするお坊さんが少ないので、できるだけ時間を共にすることを勧めています。

コミュニケーションの現場が目の前にあり、臨床の現場が目の前にあるのに、始まる前にちょっと話しをするとか、火葬待ちで収骨までの間にそこにいる人々の中に飛び込んでいけるかが、若い僧侶には重要だと思うからです。経験的に隣にいる二、三人の方と話が盛り上がると、他の方が寄ってきて話が広がり、いろんな話になりますよね。そして何よりも私の方が得るものが大きいことがほとんどだからです。これほど、いろんな分野にかかわっている人と話ができる機会は、なかなか持てないと思います。いろんな現場の状況を我々が吸収する機会はすぐ目の前にあるわけですよね。

【平子】
古くからお寺と檀信徒の関係は、そうしたものだったのではと思います。自坊では、どんな些細な用事でも檀信徒が来訪した時には、習慣的にお茶を出していますね。そこから、ちょっとした会話をすることで、近況だけでなく相手のことも見えてくるし、そうした積み重ねがお互いの日常を通してのつながりを深めていくと考えています。これはどこの寺でも普通に行われていることではないでしょうか。

 

〇檀信徒と向き合うコミュニケーションができる僧侶

【勝】
森田委員からあった炉前のお話と同じで、生きる苦しみを聞くための傾聴のチャンスと思っていただければいいのかなと思います。坐禅会の後、時間のある方はお茶をどうぞと時間をとると、結構いろんな相談が出るそうですし、そこで親しくなると、今はOLだが、ゆくゆくは親を見送ったあと、自分はそのお寺で葬ってほしいと何十年後に檀家さんになるかもしれない。そこまで見越してやっていくことが大事だと思います。

【森田】
コミュニケーションの修練はその部分だと思います。今までの檀家制度のシステムは非常によくできたシステムで、江戸時代から今まで続いている状況は、逆にいうとあまり努力をしなくても、ある程度支えていただけた時代なのでしょう。けれど、今は人の流動がさらに激しくなり、昔は親が老いたらそのもとに子どもたちが戻ってくる可能性があったのが、夫婦のどちらかが亡くなったときに、残った方が子どもの住んでいる場所に移動して行くのが現代なので、土地や地元と結びついていたお寺の姿は大きく変わってきているのが今の時代だと思います。

特定の人だけを相手にしている形は成り立たないことは明らかですし、そうなったときにお坊さんが、どういう点で役割を担えるのか。今までお付き合いがあった人と、次の世代の人とつながっていく場は見逃してはいけなくて、そのためにも、やはりちょっとした時間でも相手と話す時間を作ること、特に次の世代の方々と話をする時間を作ることが大切だろうと思います。

【平子】
今の話で、檀信徒の方の世代が変わっていくわけで、いかに継承してもらえるかがお寺を守っていく立場からすると気になることです。継承していく大きなキッカケは今おっしゃったように、葬儀とその後の供養でしょう。日常的な接点が少ない現代においては、そうした儀礼が接点になることが大きいと思います。そこで葬儀そのものの必要性は当然ですが、檀信徒との接点としても、大事にしていかないといけない。そして、そうした機会に人とのつながりを育んでいかないと寺檀関係の継承性もつながっていかないと考えます。

【勝】
やはり、ちょっとした相談にも気軽に応じてくれるお寺であり、応じてくださる僧侶がいるというのが、今の時代に頼られるお寺のイメージだと思います。森田委員のお話で、若い僧侶の方は相談に乗るスキルがないと不安だという方が多いというお話がありました。曹洞宗総合研究センターでは、「こころの問題研究プロジェクト」に取り組んでいると伺いましたが、その成果は、個々の僧侶の方々にどのように浸透させているのでしょうか。

【平子】
この何年か掛けて現職研修会、寺族研修会にて講義をさせていただき、講義を通して実際にワークショップをしていただき、関心を持っていただています。

【勝】
例えば、「頑張れ」と言ったら傷つく人もいるんだよといった、カウンセリングや傾聴における最低ラインの知識ってあるじゃないですか。その辺はお坊さんとしての修行をされていても、なかなか分からないと思うので、人助けをしようとしたのにかえって傷つけてしまったというケースも耳にします。こころの問題研究プロジェクトという形で宗派レベルで何年も取り組まれている成果をぜひ、個々のお寺で活用していただきたいと考えます。

【森田】
それを一番留意しけなければいけないんですよね。人の相談を受ける以上、恨みを買うこともあるだろうし、人生を左右する危険性はありますが、私も十年余り電話相談をやったりしていますが、今のところ大きい問題は起きていなくて、確かにそういう場合の対処の仕方というのもマニュアルとしては考えてはあるので、そのあたりも知らしめていく必要はあると思います。

【平子】
檀信徒を対象とした意識調査において、檀信徒が曹洞宗とか菩提寺など、どこにより親しみを持っているのかということを調査したのですが、直接的に曹洞宗という教団に対してあまり強い思いがあるわけではないようです。一番身近な接点である菩提寺、その住職というのが一番大きい接点であり親しみも強いわけです。そこを通しての仏教であり曹洞宗である。こうした檀信徒の捉え方は、これからの様々な課題を考えていくうえで、外せないところではないでしょうか。

新たなことを始めていくことは難しいことですが、葬儀や供養をきちんと執行していくことが僧侶としての務めでもありますし、そこで仏教の教えや禅の考え方を、徐々につながりを形成していく中で伝えていくことが必要ではないかと思います。「葬式仏教」はある意味揶揄された言われ方ではありますが、実は葬式というのは、遺族にとってもこれを行うことによって立ち直っていくことができるものですし、それにお坊さんが大きくかかわっていける大事な役割ではないかと思います。

【森田】
葬儀というのが、壊れたものをそこで一旦引き止め、差し止めたものだとすると、法事とは、そこから創造や再生に結び付けていくものであると、我々は考えていかなければならないと思います。壊れたものをもう一度、再生創造し直す営みをお寺としては考えていきたいし、さらにいうなれば、きっかけとして生み出されたものの一つとして、坐禅もその営みの一つのかたちとして提供していくようになればいいと思います。

【勝】
今の破壊と再生のお話は、死の場面ではないところにも応用していけると思います。繰り返しになりますが、現代人は食べていくために競争に勝たなければいけないと、幼い頃から習い事づくめで、現役時代は懸命にやってきたが、定年になって何をしていいかわからなくなってしまう。定年してからこそが、生活のためではなく本当の生きがい、本当にやりたかったことを探せる時間であるべきで、そのように過ごした人は、「長老」と崇められるはずなんです。定年の先の六十代から九十代近くまで、自分は何者なのかとか、どうやって社会に貢献できるのかを発見していいける膨大な余暇があるわけですよね。その隠居に当たる時代を“すでに現役ではない”と過ごしていくしかない現実が、一般の人の漠然とした不安だと思います。

【平子】
今言われた定年後の長い人生を“余生”にしてはいけないですよね。余りの人生ではなく、人生の本当の意味を発見していく、いうなれば“本生”にしないといけないわけですよね。

【勝】
国には千兆円を超える借金があるとか、社会福祉においては人口が減って、いずれは一人で一人の高齢者を支える“肩車”の時代になるということが、一般の人には漠然とした脅威なんですね。お寺にとっては、人口減は檀家が減るという現実的・経済的な悩みかも知れないけれども、一般の人にとっては、「私たちの孫の代は老齢年金を貰えないかもしれない、彼らはどうやって食べていくのだろう、この国はどうなるんだろう?」 と、将来につながる切実かつ重たい不安感に襲われるわけです。その不安を解消する答えが、お釈迦さまの教えのなかにあるはずなんです。ですから、「この町には困っている若者もお年寄りもいるはずなのに、どうして相談に来ないんだろう?」というくらい、視野を転換していただくといいと思います。

【森田】
多分心配という言葉は“何々が心配”と使いますが、不安は“分かんないから漠然と不安”と使い方の違いもあると思います。不安感でも、その不安感を見出しているのは、我々の心で、それに対する提供できるものは仏教の中にたくさんあると思っています。でも仏教という環境に飛び込んで来たときに、それは感じられることというか、経験できるようなところもあると思います。

【平子】
今宗教の社会的役割や義務や責任といわれますが、目の前に苦しんでいる人、悩んでいる人がいれば自ずから手を差し伸べることが、そもそもの仏教のなすべきことであり、それを自然に行じていくという姿勢を確認していくことが必要ではないかと思います。

 

〇僧侶への信頼を培うには?

【森田】
お坊さんの信頼性は当然あるわけで、私は何軒かの檀信徒のお墓の継承者になっています。永代供養でも「お墓一つずつは見られないので、自坊の合葬墓に持っていきますよ」と、お伝えしています。最終的にお墓を処置するには継承者の立場がないとできないのでそうしていますが、「お寺さんにそう言ってもらえると安心です」といってもらえますし、例えば遺言書の立会人、そういった部分の関わり方もあるのかと思っています。

【勝】
相談に来られても専門知識がないから困るといわれる僧侶は、そうした経験をされていないから培われていかないのかもしれません。僧侶の方は家族を亡くしたばかりの人に毎日のように会われているので、その機会を活かしていただけたらと思います。

【森田】
たいがい専門知識がないというのですが、仏教のバックグラウンドはあるので、それを元手にして臨床経験を積む場を増やしていければ、これほどいい環境はないと思うのですが。

【平子】
経験を積んでいくというのは大切だと思います。自坊では地域性もありますが、葬儀において僧侶が最後まで立ち会う習慣がまだ残っています。当然、若い僧侶もそうせざるを得ないので、最後まで遺族親族と一緒に付き合い、様々な話をしたり、聞いたりしています。これはとてもいい経験になっていると思います。

【勝】
一方、葬儀法要をしてくださる菩提寺の僧侶だからかえって、より良く生きるためのアドバイスは受けづらいという壁も、あると感じています。自分が死んだあとも読経してくださる僧侶の方に、家族や親族間のイザコザについて、あまり知られたくないという思いも、檀信徒には根強くあるからです。例えば、人生の終焉を大きな病院で迎えるケースが多いと思いますが、普段は町の診療所にも通っていますよね。菩提寺と檀信徒の物理的な距離が離れている場合などには、病院と同じように、日ごろ坐禅会や法話会に通う、ちょっとした相談事ができる「行きつけのお寺」といったものと、お墓があって葬儀法要でお世話になるお寺というのが、別々にあってもいいのかなと思うことがあります。

 

○将来の展望について

【司会】
前回の座談会で、島薗委員は「正法」とは「社会に広く仏法を具現する」といわれました。今回の座談で、お寺がいつでも気軽に訪れてよい空間として解放されている中でしっかりと聖性を保った凛とした存在、超然とした形が実現されている、つまり、聖性を感じるが、社会一般と隔絶しておらずにオープンになっているという様子を感じることが出来ました。

また、下田委員がいわれた「時々の社会の陰に隠れる存在に寄り添う」ということについては、増加する独居高齢者や漠然と不安を持っていても言葉に出せない人などに寄り添い、場所を開放することのできるお寺や僧侶というものが想像されました。

森田委員より、葬儀や法事など儀礼に関連して、「死んだら終わりではなく、創造に変えていく」とありましたが、これらについてはいかがでしょうか。

【勝】
前の座談会で島薗委員がおっしゃった「社会の配慮の目の行き届かないところ」には、引きこもりの人や現役を退き時間を持て余して誰とも話すことのない独居中高年の方、顔の見えないネットの社会の中でかろうじて自尊感情を満たしている人たちなどがいると思います。彼らは、肩書きやレッテルを持たないところで生きている人で、そのままお寺へ来てもらったら、正法の力に触発される可能性のある人たちだということです。加えて、現役を退いた隠居時代は終焉なのではなく、壮年期にはできなかった“創造”や、次世代への希望を残せる無限の活力を培えることを、お寺という場で伝えていけたら素晴らしいことだと思います。

【森田】
私は、「声なき声に、耳を澄ます」という言葉を分科会の議論で申し上げました。これは相手にどうやったらしゃべってもらえるかという、私なりのポイントです。すぐ答えの出ることというのは、それで用が済めば終わってしまうのですが、そうでないことは電話相談では最初から相談者が自分の本音を語ってくれるとは限りません。

相手が自分を受け入れてくれる存在であり、それだけ近くに感じられる存在であれば、本音を語りやすくなります。本音がいえないということは、自分の近くにいる人でもそれだけ心が離れているということでしょう。私はお坊さんとしてすごく心掛けたいと思っているのは、どうやったら相手に近づいていけるかということで、そのためには、少しでも相手に対して自分の時間を捧げる気持ちを持てるようにしようということです。

【平子】
多分、相手の話を聞くことで、こちらから教えを与えるのではなく、おそらく相手は気付いていくのでしょう。話すことでいろいろことが整理され、「何で自分はこんなことで悩んでいたんだろう」ということにも気付いていくのでしょう。そういう意味で「正法」とは、何かを教えるものではなく、気付かせていくことなんだと思います。

【森田】
昔はそれが儀礼の中に溶け込んでいたと思います。例えば、中国で儒教の教団は昔は儀礼を重んじ、その後イデオロギー的な側面にシフトしていく感じだと思うのですが、儀礼の中に溶け込んでいたものに対して、やはり言葉でしょうと言ったのは、たしか墨子だと思いますが、同じような部分を仏教も担っていて、曹洞宗の中で儀礼は大切だが、儀礼の中に組み込まれているものは、そのままではなかなか理解できない。そこをどう補っていくかはやはり言葉の力になっていくと思います。

【平子】
そういう意味でも、言葉と儀礼はそれぞれ大切なものであり、それらが相互補完的、相互効果的に効果を生み出していくのだと思います。

【勝】
そこを把握できていないままだと残念なことに、ご葬儀の時の読経がBGMと呼ばれてしまうのではないでしょうか。

【森田】
批判するわけではないんですが、やっていることが分かるように分り易い言葉で儀礼をしましょうと、何から何まで現代の言葉に訳して、それで事足りたかというと事足りない。言葉は重いもので、口語体になればなるほど軽薄になることがあるように、仏教の経典が聖なる言葉で書かれているのは、そこに違った段階の質の言葉を使っている、それはそれなりの意味があり、日本の葬式で使われる言葉も聞いていて分からないかもしれないが、言っている内容が全て分ったからいいかというとそうではないと思います。私自身はそれで失われる部分が大きいと思います。儀礼の部分は、儀礼の部分として崇高に荘厳に行うべきところで、その前後にそれを補完するものが、我々の普段の中で抜けていることの方が実は問題なのかなとも思います。

【勝】
「生死」についていいますと、生活の糧を得るための現役時代は、「生死」の「死」を考えることがありません。生きていることが善であり、形あるものは壊れるとすら思っていないわけで、そのまま隠居生活に入ってしまう人が多いように思います。そこにいかに死生観、死んでしまうがそれは悲しいものではない、命をバトンタッチしていくことに意味があるというところに気付くかということ、そしてそこに至らない人が多いことが苦しみを生み出していると思うので、そこに僧侶の方々が何か手を差し伸べていけたらと思います。

【平子】
そうしたところに手を差し伸べられるのに必要な要素が出家性なのでしょう。僧侶も同じ現代社会の中で生きているけれど、「どこかが違う」という、下田委員がいわれる「超然とした存在」としての僧侶につながると考えます。

今日はいろんな形でのお話がありましたが、寺院や僧侶が、社会から必要とされていないわけではなく、人々が生きていくうえで様々な役割を担っていく可能性も見えてきました。今日お話いただいた点についての議論を深めていくことが、今後の将来像を考えるうえで、ポイントとなりうるのではないかと思います。

また、すでに多くの僧侶が様々な方面で活動を行なっていることも忘れてはいけないでしょう。そうした取り組みを宗教者の活動として研究を進める必要も感じます。

そして、それを担っていく僧侶の資質の問題、それに対する経験や教育などの問題も背景にあることも浮かび上がってきたように感じました。こうした課題について、今後も様々な角度からの考察をしていく必要性があろうと考えます。

【司会】
本日は長時間にわたりご意見をいただき有難うございました。

 

【プロフィール】

勝 桂子(氏) 第1分科会委員
行政書士。フィナンシャル・プランナー(認定AFP)や葬祭カウンセラー等、多彩な分野の専門家であり、「終活」をトータルでサポートする行政書士。著書『いいお坊さん ひどいお坊さん』(ベスト新書)では、現代人の悩みを中心に、生きづらさを乗り越えるための寺院・僧侶との正しい付き合い方を提案されている。

森田 英仁(氏) 第1分科会委員
千葉県満蔵寺住職。全国曹洞宗青年会や曹洞宗千葉県宗務所 電話相談てるてるぼうず等、幅広く活躍されている。

平子 泰弘(氏) 第1分科会委員
曹洞宗総合研究センター専任研究員。群馬県桂昌寺住職。『曹洞宗宗勢総合調査』、『曹洞宗檀信徒意識調査』等の調査研究にたずさわる。