迷える中年ライターが『修証義』を書き写してみた ~曹洞宗のお経を一般人が読むと?(総序・第四節)~


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honbun初めて触れる『修証義しゅしょうぎ』の本文を読み、鉛筆を手に書き写し、また現代語訳を読む中で感じた事を率直に語っていきます。第4回は、総序第4節について。

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ライター 渡辺ロイさん

第4節「因果の道理歴然として私なし

■ライターはこう思いました

この節は、因果応報について書かれています。
端的な部分としては、「造悪の者は堕ち修善の者は陞(のぼ)る」という記述が目を引きます。
解釈としては「悪い行いのものには必ず苦しみがともない、善き行いにはきっと幸せが訪れるでしょう」です。
聞きなれたロジックです。
「堕ちる」「陞る」という言い回しは、仏教的な地獄や極楽を彷彿とさせるものですが、解釈はそこを重要視していません。この『修証義』の主要な読者の想定は子供ではないので、地獄という存在うんぬんで脅かさずとも、話は通じるであろう、ということでしょう。
この「因果応報」という考え方って、仏教に帰依していない私のような門外漢(そして多くの人たち)が、なんとなく仏教という宗教から遠ざかっている要因ではないかな、と思います。
だって、そういう「絶対的な法則がある」と言われても、ピンときませんからね。

では、迷える中年ライターは、この節をどう読んだのか。
私はこうやって曹洞宗のHPでコラムを書かせてもらっていますが、曹洞宗の檀信徒ではありません。仏教に関しても、興味があり敬意を払ってはいますが、「信じる」というところまでは至っていません。いわば、ごくごく普通の日本人です。
そんな私が思うのは、因果応報は「無いと思う」が、因果応報は「納得できる」ということです。

ちょっと話はズレますが。
量子力学、という学問のジャンルがあります。これは、量子といわれるとても小さい物理単位がどう振る舞うか、その法則についての学問です。量子とは、粒と波の両方の性質を持ったものです。文部科学省のHPによれば「電子、中性子、陽子、ニュートリノやクォーク、ミュオンなどといった素粒子も量子」なのだそう。
……わかりましたか?
自慢ではありませんが、私は骨の髄から文系なので、さっぱりピンときません。
でも、物質の単位が大きくなれば、物はそのときどきに状態を変えますから、それをどんどんと小さい単位にまで近寄ってみれば、それ自体がどういう振る舞いをするかは(もちろん目に見えませんが、観測と実験と数式化によって)分かるわけです。
世界中の努力し続ける天才たちによって日々解明されていく、この量子力学という学問について、私はこういうスタンスを取っています。「自分では解明も説明もできないが、そこに存在していると信じるに足りる」と。
この感じは、ちょっと「因果応報」をどう受け取るかに似ているなあ、と思うのです。

悪いことをすると(いつかはわからないけど)苦しくなるよ、いいことをしたら(いつかはわからないけど)満足できるよ、というこの単純な法則は、納得できます。
だって、自分自身、いいことと悪いことどちらがしたいかと言われれば、やっぱりいいことのほうです。自分の周りの人にもいいことは奨励したいし、悪いことはしてほしくないですから。
そう振る舞いたくなる気持ちを、因果応報という「方便」を使って説明するとこうなるよ、というだけの話なのではないか。私はこの節をそう読んだんです。
考えるべきは、因果応報という法則が本当に存在するかどうか、ではないんです。

自分は弁が立つ、理知的だ、論理的だと思い込んでいる人に限って、「そこまで言うなら、証明してみろ」というようなスタンスでモノを語りますよね。
愚の骨頂とはこのことです。
就業時間中の会社の会議室で、終電までの居酒屋で、口頭で証明できるものなんて限られた範囲でしかありません。
連綿と続いて来ている人類の営みの中で、個人の行う善きことと悪しきことが、どういう振る舞いを見せるのか。個人の小さな振る舞いが、大きな流れの中で同じ法則に則っているのか。
そんなもん、簡単に「こうだからこうだ!」って証明できるわけはないんです。
だから、「因果応報」は、「厳密にそうだとは言えないだろうけど、そういう考え方は嫌いじゃない」くらいのもので置いておけばいいような気がするのです。
少なくとも、こういう「説教くさい」ところを理由に、仏教から遠のくのはもったいない、と思うのです。

前節の「無常憑(たの)み難し」なんて、アイロニーに溢れハードボイルド。いわば哲学的です。
そういう哲学的な側面と、わかりやすい(でも信じにくい)法則、その両面を持っているのが仏教なのかなあ、と考えるのです。     


■禅僧がライターへこう応えました

ロイさん、こんにちは。
『修証義』第一章・第四節へのコラムを拝見いたしました。
因果応報の道理は、個人的な感情に関わらず厳然として存在しますが、かえって疑わしく思われるのかもしれません。
そこで、この節全体を俯瞰して見ることで、理解を深めてみて下さい。

前半では、因果を知らない人や善悪を弁えない人がいるとしつつ、そういう人と一緒になってはいけないと諭しています。つまり、因果を否定するのは問題だということです。

後半では、因果の道理を強調する理由が明示され、因果がなければ、仏が世界に現れることもないし、達磨尊者がインドから中国に禅を伝えることもないとしています。つまり、因果の道理があるからこそ、我々は修行を行うことで救いを得ることが可能になるということです。

なお、業や因果という考えには注意が必要です。「悪しき業論」という誤った考えがあり、業や因果を宿命のように捉えて自分の救いを否定したり、他者が困窮する状況を当人に押し付け、差別に繋がることがあります。それらは必ずや否定されねばなりません。
また、業論については、次節に「三時業」が出て来ますので、更に深く学んでみて下さい。

『修証義』についての詳しい説明はこちら


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