迷える中年ライターが『修証義』を書き写してみた ~曹洞宗のお経を一般人が読むと?(総序・第5節)~

2017.02.20

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honbun初めて触れる『修証義しゅしょうぎ』の本文を読み、鉛筆を手に書き写し、また現代語訳を読む中で感じた事を率直に語っていきます。第5回は、総序第5節について。

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ライター 渡辺ロイさん

第5節「善悪の報に三時あり

■ライターはこう思いました

前節に引き続き、因果について語っています。さらに、輪廻思想についても。
いつ、どういう形で誤った考えや行動が、その悪い結果を生むのか。すぐかもしれないし、遠い未来かもしれないし、来世かもしれない。
そのあたりはわからないから、悪い道に足を踏み入れることのないように。そう言っています。

前節で、そういう気持ちの方向はわかる、善なる行動を勧めるロジックについては、賛成のスタンスだ、と書きました。
でも、それを伝えるために「輪廻思想」まで持ち出されると、うーん、と唸ってしまう人は多いのでは、と思います。仏教のこのあたりを指して、どうもアレルギーを起こす人は多いようです。
実際、こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、私自身も輪廻については「それはどうかなあ?」と、疑義を持たざるを得ません。
だってね、生まれ変わりと言われても、システムが漠然としすぎですもの。

では、どうしてこんなシステムの話が出て来たのか。
ここから例によって少し脱線しますけど、ついて来てくださいね。

そもそも、仏教の成立は紀元前6世紀頃の北インドといわれています。もちろん諸説ありますが。
当時、個人のどんなトライも跳ね返す、絶望的に強固なシステムが存在していました。身分が違えば、お互いに混じり合うことがない、「何度生まれ変わっても同じ階級だ」、そういう宗教がベースとなって、社会制度を作り上げていました。

そこに登場したのが、天才的な思想家であるシッダールダ、つまりお釈迦様です。
シッダールダは、身分的には上の方にいながらも、より自由な幸福の形を求めました。身分に関係のない、普遍的な幸福の見つけ方を提唱したのです。

つまり、仏教はその成立当初、まったくの新しい価値観を提示するところから始まっています。
新しい価値観を提案するわけですから、過去の価値を否定しないといけません。
そう、その否定する矛先が「何度生まれ変わっても同じ階級だ」という部分です。でも、いきなりの否定は得策ではありません。いきなり全部ブチ壊したら、そこには混乱しか生まれませんから。
だから、「生まれ変わる」という思想はそのまま借りておいて、「でも、階層や階級は、自由に行き来できるんだよ」というところから始めたのではないかな、と思っています。
あくまでも、話のとっかかりです。
この節では、輪廻を肯定することが目的ではなく、今この時間を無駄に過ごさなければ、いつかは報いが得られるんだよ、というそれぞれの人にとっての応援的な意味合いの方が強かったのではないか、と思うんです。

なにせお釈迦様は天才的な思想家ですから、その先のことまで考えていたはず。
でも、いきなり遠いゴールを提示しても、なかなか伝わらない。
だったらまずは身近なところから始めればいい。
そういうことじゃないかな、と思うんです。

仏教はその後、インド本国では衰退し、しかしどんどんとその進路を東にとりつつ、広がっていきます。そしてとうとう世界宗教となり、日本にもやって来ます。
それは当然ですよね。
だって、普遍的な幸福を求めて生まれた思想ですから、様々な民族にフィットしていくのは当たり前です。

輪廻のことを話題に乗せると、「そういう考え方は、ちょっといただけない」、そう言い始める人がいます。
でも、そこは「一番最初に借りた宗教のスタイルがそうだったから」という以上に、あまり意味はないのではないかな、と門外漢のライターは思うのです。
そりよりも「今は報われていないけど、いつかは報われる」、そういう考え方のベースとして、輪廻があるのではないかな、と。
最初、強く否定すべきシステムがあり、その「非普遍的な社会をつくるシステム」を壊すために、こういう言い方をしたのだと思います。

高校生程度の歴史の知識があれば、まあ、この程度のことは推測できるかと思うんです。
なにせ、私は歴史学者でも宗教学者でもないし、ましてや残念ながら曹洞宗の信徒でもありません。でも、何かしらのシステムが提示されたということは、そこに元々の意図があり、でも重要なことはその先にある。そのくらいのことは、わかります。

ここで足を取られることなく、読み進めていこう、と思う節です。
   


■禅僧がライターへこう応えました

仏教が大切にすること、それは行い(身体的な行為・言葉・意識)を慎み、調えていくことに他なりません。
そして、自らの善悪を自覚し反省するための方法(懺悔)が、この後の第2章で具体的に説かれていきます。

仏教が生まれたインドでは、身分制度が明確に人間同士を分けていました。その頂点に立つのが「バラモン」と呼ばれる階層で、生まれによって決まるものでした。
ですが釈尊は「人は氏姓や生まれによってバラモンになるのではない。行いによってバラモンになるのだ」と、一見伝統的な観念を継承したかのように見せながら、「尊い人」という意義内容を大きく改める教えを残しているのです。
血筋や身分によって人の価値が決まるわけではなく、行いによって人間の価値が決まるのだという考えは、生まれながらの人間の平等性、行為の価値を重視した特別なものだったのだと思います。
ですから因果の論理を用いて「あの人は前世が・・・」などと他人の境遇を差別することは、まったく道理から外れたことで、私たちは因果の道理が何を目的に説かれたのかを注意深く受け止め学ぶ必要があります。

善い行いの結果がすぐに善い形で出るわけではなく、また悪い行いの結果がすぐに悪い結果として出るわけでもないことは、人生にはままあり、弱い人間である私たちは不安と迷いを抱えてしまいがちです。
肝心なことは、善い行いがいつか必ず結果として実るのだと信じて行う事、悪い行いは必ず悪い結果をもたらすのだと信じて慎むこと、そしてコツコツと、また黙々と日々の仏行を積み重ねることなのです。

 

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