特別寄稿 「3.11 14時46分への思い」  東北福祉大学学長 萩野浩基


「あの津波は憎んでも憎みきれないが、でもこの穏やかな海を見るとどうしてか怨む気にはなれない……どうしてでしょうか。」と身内、家、船、すべてを失った初老の漁師はポツリと……私に語った。

東日本大震災とひとことで言うが、二つの重大な意味を持っている。一つは2万人近い方が災害により尊い命をなくされたこと。もう一つは原発による計りしれない放射能の被害者のことである。

津波で命を奪われた方、また九死に一命をとりとめたものの、先に何の明かりもみいだせない方が、まだ何十万人もおられる。放射能で強制避難を強いられ、病弱でたらい回しの搬送中に亡くなられた方の多いこと。またすべてに失望し、自死される方が今も続いている事実。農地を失い何万という家畜を死なせてしまった方がた。

絶望のどん底で生きる意味さえ失った人びとを前にして、私には言葉がでない。「あきらめないでください」「希望を捨てないでください」「前向きにどうか生きてください」いわんや「頑張ってください」などと無責任なことは、私には言えない。

 3月11日に大学に駆けつけてみると、避難所でもないのに、何と大学の福聚殿(体育館)に1200人以上もの学生や近隣の人びとが避難していた。大学ではかなりの備蓄品があったが、すぐに底をついた。4日目には、学生が下宿に帰り大切な食料を持ち寄り、皆で分け合って食べている姿を見て、心から学生に誇りを持った。そしてすぐ学生はボランティア活動に走った。

ここに多くの例より、川村元気君(当時3年生)の事を一例としてふれておく。彼は実習で名取市閖上の特別養護老人ホーム「うらやす」にいた。津波の中で何十人ものお年寄りを、自ら命を顧みず、隣のケアハウス(3階建て)に搬送した。ついに力つき彼も流されたが、運良く瓦礫につかまり一命をとりとめた。そしてすぐに目の前を流されていく人を懸命に助けたのである。最後に2人の人を助け、瓦礫の上にやっとのことで乗せたが、目の前でお一人は残念ながら息絶えた。彼にはそれが限界であった。

「流され亡くなられた方を思うと、今自分が生きていることが奇跡」と彼は語った。学長の色紙が欲しいと言うので、私は下手な字ではあるが書くことにした。私のつたない言葉の中から彼が選んだのは、次の言葉であった。

「一刻の生」「一刻の死」

彼はこの4月より、亡くなられた方がたの深い思いを心に刻み、岩手県で公務員として皆のために名前のごとく、元気に働いている。

私は何度、三陸の海岸に行ったか分からない。大川小学校(石巻市立)に初めて行った時、その光景を見て茫然自失となり、遠くから合掌し読経することしかできなかった。74人の児童と、9人の教員が亡くなりお一人は今も行方不明である。お一人だけ生き残られた先生は「山に行きましょうと、もっと強く言っていれば……悔やまれ胸が張り裂けそうで……。」と語っておられる。
津波におそわれた石巻市立大川小学校
歴史と自然現象としての天災とは、完全に異なる。天災を前にして、如何に人間が生きるかが歴史である。

ちなみに原発による放射能災害は、人間の創り出した歴史的人災で ある。便利で豊かな生活を求めた人間が、帯びなければならない責任である。

尊い命が失われた三陸の海辺に立って見ると、瓦礫の山と傷跡はあるものの、何も無かったかのように母なる豊饒の海は、寄せては返し波を打ち寄せている。目を山に転ずれば、不動の山は深い緑におおわれている。山川草木・悉皆成仏・一切衆生・悉有仏性・自然法爾の世界がそこにある。生きるに価する人生とは、歴史とは、未来はどうなるか……卑小な私には何も言えないが、今この時を生かされ生きていることは、確かである。

 “一刻の生一刻の死”  死をみつめての人生。

 『曹洞宗報』4月号より

   

略歴

1940年、島根県生まれ。
島根県永明寺にて7年を過ごす。早稲田大学大学院(政治学)を終了後、早稲田大学、駒澤大学等で教鞭をとる。参議院議員・衆議院議員等を務め、1994年より東北福祉大学学長。

萩野 浩基

 

「感性のとき」(ぎょうせい刊)

1988年初版発行。さまざまな価値観が失われた現代。知識にかわる感性・智慧による発想の転換が未来を切り拓く。青少年、福祉、政治・経済の問題に新しい角度からメスをいれ21世紀の日本を創造する。本書の加筆中、東日本大震災が発生。津波・原発による被害、いのちを失った人びと、被災者の思いに触れ、2012年3月11日増補改訂。