瑩山禅師の教え

曹洞宗の教えに触れる

瑩山禅師の教え

①『信心銘拈提しんじんめいねんてい

さむときかい、あつところではせんつ。はんくらひ、みずはこしばはこぶ。普請ふしん作務さむ大小だいしょう便利べんりひるよるし、あらい足をあらふ。おんり恩にむくひ、かぜとおし風をあらわす。衆生しゅじょうわたく、禅道ぜんどうさんし。これ無心無事むしんぶじ道人どうにんし、是を無名無行むみょうむぎょう沙門しゃもんと為す。」

『信心銘拈提』

(意訳)
寒い時には火に向かい暖をとり、熱暑の所では扇であおぐ。着物を羽織り、食事を摂る。水や柴を運搬したり、人びとと協力して作業を行う。また、大便・小便の用を足し、昼は起き、夜は寝る。手や足を洗う。そうした日常の中にあって、感謝の念を見出し、その恩に報おうとし、仏祖の宗風を身体に通達つうだつさせ具現化し、仏祖の宗風を露見させるのである。そうした生き方を全うするとき、最早、仏祖と衆生を分別することもなくなるから、敢えて得度すべき衆生は無いし、日常に行じていることと禅道とを分別することもなくなるから、敢えて学ばなければならない禅道が他に有るわけでは無いのである。このような人のことを、心において滞るところ無く(無心)、事において滞ることの無い(無事)仏道修行者(道人)といい、相対的な分別をなして行動することの無い(無名無行)出家修行者(沙門)というのである。

(解説)
こうした心構えで日々の日常生活を丁寧に生きていくことが、実は、自らの体の上に、仏祖の宗風を具現化することになるのです。このように理解できれば、こうした生き方をする上で、仏祖と凡夫とを区別する必然性もないし、この生き方以外に、何か別の物を求める必要もないのです。

 

②『伝光録でんこうろく

みちやまごとく、のぼればますまたかし。とくうみごとし、れば益すふかし。深きにいりそこきわめ、たかきにのぼりいただききわめて、はじめしん仏子ぶっしたらん。身心しんじんいたず放捨ほうしゃすることなかれ。人人にんにんことごと道器どうきなり。日日にちにちこれ好日こうにちなり。ただ子細しさいさん不参ふさんとによりて、徹人てつにん未徹人みてつにんあり。かならずしもひとをえらぶにあらず、ときをえらぶにあらざること、いま因縁いんねんをもてるべし。」

『伝光録』 (第十祖脇尊者きょうそんじゃ章)

(意訳)
道は山のように登ればますます高く、徳は海のように入ればますます深い。深い海底をきわめ高い山頂に登るように、常に精進して仏道に励んでこそ、初めて本当の、仏の弟子ということが出来るであろう。仏道に励むべき、身体も心も、おろそかに、粗末にしてはならない。人びとは皆、悉く、仏道を修行し仏法を受けることが出来る器なのである。身体も心も、おろそかにすることなく、仏道に励むには、一日一日が、素晴らしい好機なのである。ただ、審らかに丁寧に、参学出来ているか、参学出来ていないかの違いから、仏道に徹することが出来ている人か、徹することが出来ていない人かの違いが生じているだけである。必ずしも、仏道が、能力によって人を選んでいるのでもなく、時間によって到達度に違いが生じているのではないのである。今のこの因縁によって知るべきである。

(解説)
日日是好日にちにちこれこうにち」という言葉は皆さまにも親しみがあるのではないでしょうか?但し、この「好日」を、自分にとって都合の良い、あるいは良いことがあった「良い日」、嫌なことがあった「悪い日」等の善悪の対比の中で捉えてしまっては、「日日是好日」という言葉は理解できません。

あらゆる物事のあり方が無常であると真に受け止められる時、私たちの人生も、一日一日、一瞬一瞬を無駄にすることが出来ず、大切に生きなければならないことが痛感されるでしょうし、そうした大切な一日を、また今日も一日と、迎えることが出来るということは、かけがえのないことであり、大切に生きることに臨める「好機」ということが出来ます。

また、後半の一節ですが、仏道は、その人の能力、器量や、時間によって到達の度合いに差が出るようなものではない事が諭されています。道元禅師さまのお言葉に、

愚鈍ぐどんなればとて卑下ひげすることなかれ(『正法眼蔵随聞記』)

という一節がありますが、こうした教えを受けつがれたものとも言えるでしょう。

 

③『坐禅用心記ざぜんようじんき

つね大慈だいず大悲だいひじゅうして、坐禅ざぜん無量むりょう功徳くどくを、一切いっさい衆生しゅじょう回向えこうせよ。憍慢きょうまん我慢がまん法慢ほうまんしょうずることなかれ。これ外道げどう凡夫ぼんぷほうなり。」

『坐禅用心記』

(意訳)
常に、大いなる慈悲心を保持しつづけ、坐禅の計り知れないほど広大な功徳を、あらゆる生きとし生けるものに手向けるようにしなければなりません。自己に執着し思い上がって行う坐禅は、仏法の坐禅ではなく、外道凡夫のものである。

(解説)
道元禅師さまが、中国、本師・天童如浄禅師の下で学んだときの記録である『宝慶記』にも

いわゆる仏祖ぶっその坐禅は、初発心しょほっしんより、一切いっさい諸仏しょぶつほうあつめんことをねがう。ゆえに坐禅のなかいて、衆生しゅじょうわすれず、衆生をてず、乃至ないし昆虫こんちゅうにまでも、つね慈念じねんきゅうして、ちかって済度さいどせんとねがい、あらゆる功徳くどく一切いっさいめぐらしけるなり。ゆえ仏祖ぶっそつね欲界よくかいって坐禅ざぜん弁道べんどうす(『宝慶記ほうきょうき』)

とあり、天童如浄てんどうにょじょう禅師さまから、道元禅師さま、そして瑩山禅師さまへと受け継がれた教えでもあります。こうした曹洞宗の坐禅の根幹を、瑩山禅師さまは、端的な言葉で表現なさっておられるわけです。

 

④『洞谷記とうこくき

師檀しだん和合わごうして、したしく水魚すいぎょちかづきをなし、来際らいさい一如いちにょにして骨肉こつにくおもいをいたすべし。」

『洞谷記』

(意訳)
僧侶と檀信徒が和合し、水と魚のように親しく近づきあいなさい。ずっと未来に渡って心を一つにし、血の繋がる肉親、親子のような思いで、ともに仏の道を歩んでゆくべきである。

(解説)
仏道修行というのは、一人で成就できるものではありません。人びとを救済しようと、人びと一人ひとりに真摯に向き合い、悲しみや苦しみを共にし、寄り添い、導く。そうした他者との向き合いを通じて、自己に向き合い、自己を知ることが出来ます。こうした同悲同苦の菩薩道を実践していくことにより、仏道を体現化し、また伝えていくことが出来ると言えるでしょう。瑩山禅師さまは、

瑩山けいざん今生こんじょう仏法ぶっぽう修行しゅぎょうはこの檀越だんのつ信心しんじんによって成就じょうじゅす(『洞谷記』)

という言葉も残されてもおられます。
そうした思いを持たれた瑩山禅師さまは、仏法を未来に伝え、寺院を永劫に存続させていくためには、僧侶と檀信徒が和合和睦していかなければならない、ということを随所に諭されました。