サンガの様子

海、森、山に近いノルウェーの南端に生まれ育ったことは、私にとって幸せなことでした。この国の法律(自然享受権)は、自然に対し敬意をもって行動し、環境を汚したりしない限り、すべての人に自然を楽しむ権利を保障しています。私たちは近くの湖や川で釣りをし、ベリーを摘んでジャムやレモネードを作り、冬を越したものです。

ノルウェーの人々はそもそも自然を持続可能な方法で分かち合うように育ちました。私が子どもの頃は「持続可能」という言葉はありませんでしたが、それでも私たちは次の年も、そのまた次の年もその恵みを享受できるように、自然と接することを学びました。

お釈迦さまは、「貪り」、「怒り」、「愚かさ」が幸福と苦しみからの解放を妨げる大きな障害であると教え、この3つは「貪・瞋・癡の三毒」として知られるようになりました。貪りは怒りにつながり、怒りは因果を無視する愚かさにつながります。

法句経にあるお話で、カピラワットゥ(Kapilavatthu)とコーリャ(Koliya)という二つの対立する共同体の論争が印象的です。どちらもローニ川を支配する権利のために戦う準備ができていました。水は双方にとって、田畑の灌漑と生命維持のために不可欠なものだったのです。お釈迦さまは2つの共同体の指導者たちをなんとか説得し、道理を説くことで流血の事態を防いだのです。

SDGsの持続可能な開発目標15「陸の豊かさ(Life on land)」を守るということは、人間が自分たちを取り囲む環境と調和して初めて持続可能なものとなります。私たちは人間として自然だけでなく、すべての隣人とも共存しているのです。

筆者(左)と弟子たち

法句経の三五五節で、お釈迦さまはこうご指摘されています。

「富は愚者を滅ぼすが、彼岸を求める者は滅ぼさない。富への渇望によって、愚者は他人を滅ぼすように自分自身をも滅ぼすのです。」

ここでいう「他人」には富める者と賢者はもちろん「陸の豊かさ」を加えることもできるでしょう。

すでに豊かであるにもかかわらず、より多くを求めると、道を踏み外すことになります。人生は予測不可能で不公平なものです。貧困に生まれ、生きる選択肢が限られている人もいれば、有り余る豊かさに生きる人もいます。貪欲で、分かち合う意思がなければ持続可能ではありません。豊かな国が有り余る廃棄物を貧しい国に捨てるのは、より多くを渇望する富める者の愚かな行為です。お釈迦さまの時代にもまだまだ着用できる良い状態の服を捨てる金持ちがいました。お釈迦さまとその弟子たちは、ゴミ捨て場からまだ使える布を拾い、それを尊いお袈裟に生まれ変わらせたのです。

応量器飯台

日本の僧堂で新米の修行僧として初めて自分の応量器(食事のための器)を開けたとき、私はとても感動しました。応量器に込められた「適量」というメッセージは、私にとって衝撃的な体験だったのです。禅僧として出家する前、私はプロの料理人でした。ノルウェーの海軍でシェフを務め、その後故郷のレストランで料理長を務めたこともありました。そんな私にとって、儀式を通じて食事を用意し、給仕し、適量を受け取る応量器飯台はとても素晴らしい経験でした。

また、この20年間は特別支援学校の教員として働き、その中ですべての生き物は特別な支援が必要であると実感しています。持続可能な生活を送るため、私たちは欲を抑え、分かち合うことの重要性を認識する必要があるのです。

合掌 

ノルウェー 武覚寺 クサノ宗禅国際布教師