禅川寺 僧堂前にて

禅川寺では、男性僧侶・女性僧侶・在家の男性・在家の女性、つまり比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷という伝統的な「四衆」がともに修行しており、禅川寺を訪れるアジア圏の人々にはとても驚かれます。

この驚きのもととなるのは、多くの仏教圏の国では、四衆が厳密に分けられ、異なる修行の方法を行ってきたことによるものではないでしょうか。しかし、禅川寺において、例えば供養などの法要で導師を務める場合には然るべき僧侶によって執り行われるものの、基本的には分け隔てなく、全員が同じ修行生活を行っています。

このような修行生活は現代のヨーロッパの寺院において特別なことではなく、ヨーロッパにおける社会ならびに文化の背景によるものであり、結果として寺院を過去数十年にわたって存続させてきた、一つの方法でもあります。

禅がヨーロッパに伝えられたということは、未知の地における布教の始まりであり、当然、寺院や僧侶、檀家のような制度も存在しませんでした。多くの人が瞑想については関心を持っていたようでありましたが、現代の日本の禅、またその他の事柄についての知識はありません。当時日本から来た先人たちは、男女問わず多くの弟子を指導し、修行道場として「リトリートセンター」とよばれる摂心を実施するための施設を借りるなど、新しい環境において、布教教化を続けてきました。

このような環境の中にあっては、得度した僧侶も在家の修行者も役割はそれほど変わりません。結果として、僧侶は寺院に滞在している在家者とは異なる新たな役割を見出さなくてはいけません。

法堂前で 法戦式集合写真

禅川寺では、長期にわたり居住し、修行生活を送る者は全員が出家得度し、寺院を護持しながら、僧侶としての修行生活を行い、短期的に参加する人々を受け入れるための作務を行います。ヨーロッパの他の多くの場所と同様に、ジェンダーの平等は当然のことであり、修行生活を行い、得度し、やがて教師となることに性別の差はありません。実際に、現在ヨーロッパには多くの女性の教師資格を有する僧侶が存在し、男性志向の禅の修行という、いわば偏った見方を変えることに大きな影響を与えています。

女性と男性が厳密に隔てられた環境で修行生活を行うのではなく、ともに修行しているということは、非常に興味深い結果をもたらします。『碧巌録』中には、「すべての声が仏の声である」と明確に述べられています。しかし、多くの人は、女性の声は男性に充分に届いていないと感じています。

この男女が共に修行をするということは、女性が発信するということに好影響を与えただけではなく、男性が描いてきた女性像にも影響をもたらしています。また、その逆に女性の中にある男性のありかたにも気づけるきっかけになりえます。男性と女性が一緒に修行することは、この点でお互いを助け合うことになります。

即ち禅の修行を、安寧または私たちに本来備わっている「全体性」へ戻る方法として実践する場合、内なるすべての声を認めることが大切です。このことにより、男性、女性、トランスジェンダー、ノンバイナリーなどジェンダーにとらわれることなく、他者とコミュケーションをとることができるようになるでしょう。つまり、私たちが抱える、いわゆる「男性的な視点」と「女性的な視点」によって生じる、深い溝を埋めることがきます。

しかしながらヨーロッパにおける仏教はまだ始まったばかりと言え、将来的にこのようなスタイルの修行生活は、変わっていく可能性もあります。現時点においては健全でありますが、次の世代になるとその時代に適した新たに順応した方法が考え出されるかもしれません。いずれにしても一長一短があることでしょう。

私個人としては、男性と女性の両方が一緒に長い間修行した後、ある一定期間は離して修行生活を送る方が、より実りあるものとなるのではないかと思うこともあります。一つの修行道場を運営する立場としては、ジェンダー平等とは、必ずしも全員が同じプログラムに参加する必要があるということではありません。日々をともに修行する仏教徒として、お互いがお互いを思いやり、ともに励むための最良の方法を模索し続けることが何より肝要であると考えております。

ヨーロッパ国際布教師 コペンズ天慶

 

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