概要・歴史

曹洞宗とは

概要

今から800年ほど前の鎌倉時代に、「道元禅師どうげんぜんじ」が正伝の仏法を中国から日本に伝え、「瑩山禅師けいざんぜんじ」が全国に広められ、「曹洞宗」の礎を築かれました。このお二方を両祖と申し上げ、ご本尊「お釈迦さま(釈迦牟尼仏)」とともに、「一仏両祖いちぶつりょうそ」として仰ぎます。

 

一仏両祖

一仏両祖

 

お釈迦さま

お釈迦さまは、詳しくは釈迦牟尼しゃかむに(釈迦族出身の聖者)、世尊せそん(世に勝れ尊敬される人)等と呼ばれ、釈尊と略称されます。

今から約2500前頃、ネパールのルンビニーに、釈迦族の王子としてお生まれになり、姓をゴータマ、名をシッダールタと申されました。王子として裕福な暮らしに恵まれたものの、深く人生の問題に苦悩され、29歳で出家されました。6年もの厳しい修行の後、ブッダガヤーの地で35歳で成道され、仏陀ぶっだ(覚者)とお成りになりました。縁起説や諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切行苦などに代表される教えを説かれました。以後、クシナガラの地で入滅される迄、弟子の育成と仏法を伝道される旅をお続けになりました。

曹洞宗のご本尊は、このお釈迦さまであります。お釈迦さまが成道され、その教えが説かれ、お弟子さま達により代々連綿と正しく伝えられてきたことによって、現在の私達も仏法に巡り逢うことが出来ているのです。

私達は、このご本尊であるお釈迦さまを礼拝すると共に、仏法僧の三宝を礼拝し、その教えを拠り所に正しく精進して生きていくことによって、お釈迦さまの慈悲と智慧、そして歓喜を、私達の身と心の上に体現していく事が出来るのです。

 

道元禅師どうげんぜんじ

道元禅師は1200年、京都にお生まれになり、14歳のときに比叡山ひえいざんにて得度とくどされました。24歳で仏道を求め宋に渡ると如浄にょじょう禅師のもとで修行に励まれ、「正伝の仏法」を相続されました。

28歳で帰国した後、正しい坐禅の作法と教えをすすめようと『普勧坐禅儀ふかんざぜんぎ』を著され、34歳のときに宇治に興聖寺こうしょうじを建立し、最初の僧堂を開いて修行者の養成と在俗の人びとへの教化を始めました。また、仏法の境地と実践を伝えるべく『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』の執筆を続けられ、45歳のときに越前に大仏寺(後に永平寺と改名)を建立しました。

その後も道元禅師は修行の生活を送りながら弟子の育成につとめられ、1253年、54歳でそのご生涯を閉じられました。

 

瑩山禅師けいざんぜんじ

瑩山禅師は1264年(1268年の説もある)、越前にお生まれになり、8歳で永平寺に入り三世徹通てっつう義介ぎかい禅師のもとで修行を始めました。

13歳で二世孤雲こうん懐弉えじょう禅師について正式に僧となると、瑩山紹瑾じょうきんと名を改め、19歳になると諸国行脚あんぎゃの志をたて、求道ぐどう生活に精進されました。

そして35歳のとき、義介禅師の後を継いで加賀国(石川県)の大乗寺住職となり、2年後に『伝光録でんこうろく』をお示しになりました。その門下には優れた人材が集まるようになり、曹洞宗が発展する基礎が築かれました。また、50歳で能登に永光寺ようこうじを開き、そこで『坐禅用心記ざぜんようじんき』を撰述されたといわれています。

その後、58歳のとき諸嶽寺もろおかでらを寄進されると禅院に改め總持寺と名づけました。1324年、61歳のとき總持寺の住職を峨山がさん禅師に譲られ、翌年62歳でそのご生涯を閉じられました。

 

歴史

道元禅師の精神は、その後をついだ永平寺二世の孤雲こうん懐弉えじょう禅師、永平寺三世で加賀(石川県)の大乗寺だいじょうじを開かれた徹通てっつう義介ぎかい禅師を経て、その弟子瑩山禅師に受け継がれました。そして瑩山禅師のもとには、後に能登(石川県)の永光寺ようこうじを継いだ明峰めいほう素哲そてつ禅師、總持寺を継いだ峨山がざん韶碩じょうせき禅師が出られ、その門下にも多くの優れた人材が輩出して、日本各地に曹洞禅が広まっていったのです。特に、中国禅宗の流れをくむ臨済宗りんざいしゅうが、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け、もっぱら地方へと教線を伸ばしていきました。

すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する5ヶ寺を定めて順位をつけた五山十刹ごさんじっせつの制をしき、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに発展させましたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきをさけ、地方の民衆の中にとけこんで、民衆の素朴な悩みにこたえ、地道な布教活動を続けていきました。しかし、長い歴史の間には宗門にも色々な乱れや変化が起こりました。

江戸時代になると、徳川幕府による「寺檀じだん制度」の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学しゅうがくの研究を志す月舟宗胡げっしゅうそうこ卍山道白まんざんどうはく面山瑞方めんざんずいほう等の優れた人材が出て、嗣法しほうの乱れを正し、道元禅師の示された面授嗣法めんじゅしほうの精神に帰るべきである、と主張した宗統復古しゅうとうふっこの運動や、『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』をはじめとする宗典しゅうてんの研究、校訂、出版などが盛んに行われました。

明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離して仏教を廃止しようとする廃仏毀釈はいぶつきしゃくを断行し、仏教界に大きな打撃を与えました。しかし仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒居士おおうちせいらんこじが出て『修証義しゅしょうぎ』の原型を編纂し、その後總持寺の畔上楳仙あぜがみばいせん禅師、永平寺の滝谷琢宗たきやたくしゅう禅師の校訂を経て宗門しゅうもん布教の標準として公布され、在家化導ざいけけどうの上に大きな役割を果たしました。

こうしてわが宗門は、今日全国に約1万5千の寺院と、800万の檀信徒を擁する大宗団に発展し、未来にむけて更に前進しようとしています。

画像提供:大本山永平寺、大本山總持寺

 

「曹洞宗」紹介動画