「役割を担う」ということ

日常に禅の教えを取り入れる

「役割を担う」ということ

作務さむ

作務

作務は「つとめをす」の意味で、修行道場における清掃や炊事、庭や建物の手入れや農作業など、全ての労働を指す言葉です。 

そして禅では、この「作務」をとても重要な「修行」として位置づけています。 

多くの方は「修行」というと、坐禅や読経などを想像されるでしょう。 

もちろん、こうしたものも分かりやすく重要な修行の一部ではありますが、むしろ普段の何気ない生活(洗面・食事・入浴・用便など)そのものが修行であり、作務もまた同様に「仏としての自己を調える修行」であると考えるのです。 

この教えを理解するための興味深いエピソードがあります。 

今から800年ほど前の出来事です。のちに日本に曹洞宗を開くこととなる道元禅師は、宋の寧波にいました。本場の禅を学ぶために、はるばる日本からやってきたのです。 

そこで禅師は、港に食材を買いに来た老僧と出会います。修行道場の食事を司る「典座てんぞ」を勤める老僧でした。 

禅師はお茶を振る舞い、お話に夢中になっていました。 

しかし夕方になると、老僧は「修行道場の食事の準備があるから」と帰ろうとします。

禅師は「食事の準備など、他にも係はいるでしょう。そもそも、あなたほどの立派なお方が、なぜ食事当番などされているのです?そんな仕事は若い衆に任せて、坐禅をしたり、仏典を読んだり、もっと有意義な修行に時間を使われるべきなのではないですか」と、率直に尋ねます。

すると老僧は大笑いし、「あなたは修行というものが全くわかってないようですな」 と言い残し、帰っていったのでした。 

さて、この会話、いったいどういう事なのでしょうか。老僧の言う修行とは一体、何なのでしょうか?

実は禅師も後に「私はあの時、老僧が言った言葉を全く理解できなかった」と振り返っています。 

この問いを解くカギとなる後のエピソードがあります。 

各地の修行道場を訪ね歩いた禅師が「天童山てんどうざん」という道場で修行していた時のことです。 

ふと目を向けると、この寺の老典座(港の老僧とは別人です)が、本堂の前で海藻を干しているのが目に入りました。夏の焼けつくような暑さの中で、腰が曲がり、真っ白な眉を汗だくにした姿は、とてもつらそうに見えます。 

思わず禅師は「あなたのような老僧がどうしてこんな大変な仕事を!」「ましてや、こんな暑い時間に!」 

すると老僧は「れにあらず」(ほかの人がやったのでは、私の修行にはなりません)、「さらいずれのときをかたん」(いまやらないで、いつやるというのですか)と答えたのです。 

禅師は「この言葉を聞いて、私は次の言葉が出なかった」と後に記しています。 

典座

若き道元禅師にとっては、修行とは、坐禅や読経、師匠との問答などのことで、食事を作ることなどは、単に面倒な雑務に過ぎなかったのでしょう。

しかし、二人の老僧は、自分に与えられた仕事に一心に打ち込むことこそが大切な修行であると受けとめていました。 

ここで、禅師の修行観は大きく変化します。与えられた役割を丁寧に誠実に務めることが、自分を磨く修行になるのだと気づいたのでした。 

 後に道元禅師はこう記しています。 

食事など、誰かの修行を助ける役割を担う事は、自分のために修行するよりもはるかに尊い修行となるのだ。しかし、その事実に気づかずに、ただ漫然と、嫌々仕事をするならば、それは無駄につらい思いをするだけで、結局何も得ることが出来ない。それはあたかも、宝の山に入って、手ぶらで帰ってくるようなものなのだ。 

 「作務」という言葉は、今を生きる私たちに「役割を担う意味」について大切な問いを与えてくれます。 

与えられた役割を、「好きな仕事ではないから」「やりがいが感じられないから」と嫌々こなすのか、それとも、自己を成長させる千載一遇の機会と捉え、正面から向き合うのか。自分の心構え一つで、人生の貴重な時間と労力が「大きな無駄遣い」となるか、「かけがえのない財産」となるかが決まるのです。