ふくしま故郷再生プロジェクト現地聞き取りレポート(5)  人権擁護推進本部

2013.02.14
寺院住所   福島県南相馬市
協 力 者   住職(代表役員) 総代(責任役員)・檀信徒20人
訪 問 日   2012(平成24)年10月15日(月)
位  置   福島第一原子力発電所から約17㎞
地区指定   避難指示解除準備区域(旧警戒区域)
放射線量    室内(本堂)  0.377マイクロシーベルト毎時 年間推定積算値  3.30ミリシーベルト
    屋外(地表土) 1.089マイクロシーベルト毎時 年間推定積算値  9.54ミリシーベルト
備  考   2012年4月16日から警戒区域指定解除で立ち入り可能に。
当寺では毎月二回境内清掃整備の共同作業「清掃結い」があり、
今回の聞き取りは作業終了後実施された
     

ふくしまの声 ―聞き取りまとめ 地震・津波・爆発・避難・再生

―みなさんと一緒に清掃させていただいて、大分お墓や灯篭などが倒れていることに気づきましたが、地震によるお寺や檀家さんの被害状況を教えてください
「相当に揺れましたので、被害のなかったお宅はないと思います。建築年数の経っているものであれば、主に古い土蔵などはぺしゃんこに倒壊しています」
「(寺報の報告によれば)寺の本堂は内外の土壁が剥落し、須弥壇の仏像が破損したり、天蓋や建具等の破損や歪みが発生したりしました。境内地の諸堂、庫裏の構造は相当傷み、地盤の移動や歪みによって少し傾いたようなところもあります。文化財指定の藩主の墓所の石塔はほぼ全壊状態です」
 
―当地は、海が近いので津波の被害も大分あったと聞いていますが?
「ここは、海からは4㎞のところにあって、3㎞のところまで津波は来ました。警戒区域で立ち入り禁止でしたが、大規模なご遺体捜索が2回入っています。しかし津波に流された地区では、自動車などが乗り上げたまま放置されているところもあります。この光景があまりにもショッキングなので撤去しようということになっています」
 
―避難されているそうですが、どのような地区指定がされていますか?
「現在は、避難指示解除準備区域です。以前は旧警戒区域(20㎞圏内)という指定でした。今年の4月16日から警戒指定が解除されて、日中は戻れるようになりました」
 
―お檀家さんで避難なさっている世帯はどのくらいですか?
「ほぼ全部が避難です。全檀家の9割を占めるこの地区は避難しています。仮設住宅の方と借り上げ住宅の方で、南相馬市、それから相馬市、それから北の新地町、そのあたりに5割から6割くらい。今、少しずつ戻ってきている人が増えて6割くらい。残りの1割は福島市、同じ1割は郡山市、また1割は南のいわき市、同じく仙台近辺にも避難しています」
 
―夜間は泊まれないそうですが、ご住職さまはどちらの方に?
「普段は、隣寺にお世話になっています。あるいは、仙台市、福島市とか、郡山市、いわき市にもお檀家さんたちが、結構な割合で避難されているので、移動しながら、知り合いの家や、お寺などに泊めてもらったりしています」
 
―お寺のご家族は?
「家族は県外に避難させています。事故当初は、私も3ヵ所目の避難先でやっと落ち着いたのですが、お寺や檀信徒のことが気にかかりますので単身帰ってきています」
 
―震災と原発爆発事故直後の状況を教えてください
「私は檀家総代のNという者です。私は(震災翌日)3月の12日の早朝に、車で行けるだけ行って見た状況についてお話しします。私の集落には現在24戸ありますが、ここのお墓はほとんど倒れておりました。ごく最近作ったお墓であっても、納骨棺(カロート)が壊れて中が見えていたお墓も何か所かありました」
「お墓を見てから、神社の裏を通って、海岸にもっとも近いところまで行ってみました。昨日、大津波が押し寄せていたわけですから、海岸の高台にある住宅の下半分の方は泥が上って、まだ乾燥しないでピカピカしておりました。海岸にずぅ~っと松並木があったわけですが、この松並木は土ごと、根っこごと海に向かって倒されていて、もう海の波が折り返した跡がハッキリ見える、そんな状況でした。海岸近くの地区などのお墓の状況を聞いてみると、お墓の土ごと、石ごとガラガラ、ガラガラと流されて、お墓の姿かたちが分からないくらいまでになったところもあるようです。とにかく惨憺たるものです。農作業でトラクターに乗っていた人が、3㎞も4㎞も陸地の奥の方に流されて亡くなっていたという方もあります。それから、工事用の大きいクレーンや重機も倒れたり、自動車なんかはそれこそ木の葉が流されたように、駅のすぐ東側の方まで流れてきて、もういたましくて見るに忍びない光景でした」
「地震の翌日、近隣の被害状況を確認して、家に帰ったところが、隣町の娘の家族が車で来ていました。『いや、電力(原子力発電所)が大変なんだ!」と、『爆発しそうなんだ!』という情報を持って私のところに来たんです。これは大変だということで、その娘家族の案内のまま逃避行が始まりました。2~3日もしたら家に帰れるだろうと、当初そんなつもりで毛布数枚持ったくらいで出掛けて、それが1年半にもなってしまったわけです。山の方に入ったり、こっちの方に戻ってきて、Kの方に行ったりSの方に行ったり、F市の方に行ったり、こんなふうで、誰がどこに避難したのかも全く分からないまま最近まできたわけです」
「私の見る限りでは、JR常磐線から町の方に向かってかなりの浸水で、駅のあたりも水浸しでした。昔、この町は田んぼが多かったんです。昭和後期に埋め立てて家が建った。とにかく古い家が多くそれが壊滅的な打撃を受けました。それこそ立派な蔵造であろうと何であろうと、もうかなりやられて最近ようやく壊す作業が進んだりしているわけです」
 「肝心の除染作業が町の中心部であってもまだ進んでいない。それから水道状況も部分的には水を送れるような状態になっておりますが、下水道はまだ完全には復旧しないままの状態になっている。まったく可哀そうな状態です」
「鉄道もダメ、6号線という国道もダメ、旧国道6号線は海岸線に道路が走っていて、山手の方にも道路が入っていて、常磐高速道路も入っているわけですが、どれも、ここからいわきに行こうとしても、(山間の)福島、二本松を経由していかなければならないような、海岸側はいまだ不通です。大変不便でみじめな、哀れな生活をしているところです」(檀家総代)
「いわき市のOと申します。震災直後、私のところは電気は繋がっていました。水道は止まりました。テレビでは『原発は大丈夫!』だと言っていましたけれども、テレビ画面を見ますと、モロに爆発する光景を目の当りにしました。一晩過ごして2日目、原発が爆発しまして、政府の発表では原発は大丈夫だと言っていたのにもかかわらず爆発してしまったんです。情報の不正確さということをまざまざと思い知らされました。震災・事故後は私も東京に避難していたんです」(檀信徒 男性)
 
―震災、事故以降、皆さん方の中で、身体の調子が悪いとか、精神的にまいっているとか、どのような症状がおありでしょうか? 個人差はあるでしょうが
「今、本部の人がおっしゃったことはすごく大事なことだと思うんです。私も、実はいろんな時に接する機会があって一番感じているのは健康被害のことです。それも目に見えない心の被害があります。もう故郷を突然、みんなと一緒だった生活がバラバラになってしまって、檀家さんの8割がたの方は農家です。土をいじることもできない、いつまでこの生活が続くのかもわからない。これではやっぱり身体を壊してしまいますよ。心のバランスも失ってしまう。震災後眠れないとか、なんだかちょっと動悸がするとかで医者にかかったっていう経験がある方はどれくらいいますか?」 (挙手多数)
「妻の親はI村出身なんですが、あの震災後、認知症が進みまして、家に連れてきて住んでいたんですけれども、『自分の家に帰りたい、Iに帰りたい』って聞かなくなってしまいました。帰郷途中、警察の検問がありまして、『ここから先は自己責任で行ってください』っていうその一言で、母親が、『もうじゃぁ行けないんだな』って思ったみたいです。家に入って自分のものだけ持ったらすぐ帰ると今度は言い出しまして」(檀信徒 男性)
 「(避難先で)何にもできなくなったって言うの。洗濯機も回せないとか、鍵の開け閉めも全部父親がしないといけないくらい、本当に何にもできなくなった。夜中でも帰りたくなると出ていっちゃう……(涙声で)……歩いて帰りたくなっちゃうような……」(檀信徒 女性)
「津波で自宅も家財もすべて流されてから、私の母親もそうなりました。でも、要介護1で今は済んでいますが、これからが心配です。震災後ディサービスなくなりましたから、やっぱり夜中おかしくなって、窓に行って、『ここは俺の家でねぇ!』、とかなんとか言って騒ぐようになって、すぐ医師に診てもらったら、要介護1になりました」(檀信徒 女性)
「うちはとにかく、去年は大変だったです。今年は落ち着いて仮設住宅にいるんですけど、私、循環器系の病院に以前からかかっていました。震災・事故後、避難、避難、避難と何回か場所を変えて動いて行った時に、どんどん病気が重くなってきて、さらにお父さんも急病で同じ日に別な病院へ緊急入院ということになりました。幸いにも中通りの方に避難していたために、医大の先生などのお世話になって無事に健康になって戻ってこれました。私と同じような境遇の人が入院患者のなかにはたくさんいました」(檀信徒 女性)
「次々と移動して、避難している最中は、周りにたくさんいるし、みんな同じ境遇だからということで、気も張ってしのいできました。仮設住宅や借上げ住宅へそれぞれが分散して落ち着いた状態になった時に、これまで抑えていた精神的な病気が発症して、さらに心臓にまで影響するという事例はたくさんあるようです」(檀信徒 女性)
「私は、仮設住宅の4畳半に2人で住んでいます。今になって大分落ち着いてきたような気がします。仮設に入ってきた当初は、耳鳴りだけではなくて、夜昼、ガンガン頭が鳴って、その辺に車止まってるのかなぁっていうぐらい、年中耳鳴りじゃなくて頭鳴りしていました。若い家族は別で、私たちは2人でいるんですけど、狭い部屋で何というか自然にストレスが溜まっていくんです」(檀信徒 女性)
「私の友達がちょっと弱くなっていて。その人も日中1人でいるわけ。そうすると、いろいろとストレス溜まるんでしょうね。この間、私が電話をかけたら、『何だか血圧が高くなるし、熱は出るね、頭はむしゃくしゃするし、今日はお母さんに休んでもらって、病院に連れてきてもらったんだ』と。2~3日過ぎてから友達の見舞いに行きました。そして、『どうだったの?』と聞いたら、今日はチョット落ち着いたんだということです。どこ悪かったのかと聞いたら、先生に『どこもなんでもないんだけれど〝仮設病〟だ』と言われたって……(一同爆笑)……笑うかもしれないけれど、本人にしてみれば吐いたり下ったり、それに熱出たり。夜は眠れないし、そして、病院に行ったら『仮設病だって、こういう人いっぱい病院に来るんだよ』と言われたって……特にどこも悪くないけれども、仮設住宅暮らしで長期のストレスからいろいろな症状が出ているみたいです」(檀信徒 女性)
 「放射線量が異常に高い山手の人たちは、避難所でみんなと笑って過ごしているけれども、放射能のことが頭から離れないようですね。もう二度と故郷へ帰れないんだからという、周りの人を受け容れないほどの強い気持ちをもっているようです。やはり精神的ストレスがありますね。放射能についてはいろんな情報が入ってきます。『ここで生産されたものは食べてはいけない』とか『これ程度だったら大丈夫です』とか、専門家のあいだでも両極端なことが当たり前になっている。この分からないっていうことがさらにストレスになって、それを積み重ねていくといつ爆発するか分からないんだね」(檀信徒 女性)
「一番の被害者は子どもたちです」
「友達同士で転校したわけではないので、親の仕事の都合などでバラバラで避難したので、転校して行くと福島の原発の近くから避難しているということで、なかなかやはり受け入れてもらえないこともある。子どもに罪はないのにね。最初は明るく振舞っていた子も、閉じこもりになるケースも多いとか」(檀信徒 女性)
 「避難先でのいろいろな事情から、子どもたちが勉強の格差が出てしまって、落ちこぼれたり退学したりする、学校についていけないという子どももいるみたいです」(檀信徒 女性)
 
―避難中にお困りのことがあればおっしゃってください
「私たちの集落では、動物による家屋被害がものすごいんです。警戒区域に入ってから、人間はとにかく域外に出て行かなくてはならなくなりました。置いていかれた豚とか牛とか、飼っていた動物たちも生きていかなくてはならないから、留守宅に勝手に入り込んで部屋を荒らすとか、ものすごい被害です。それで、せっかくセシウム測るのに作った稲も猪に一晩で全部やられるようなことがありました」(檀信徒)
「動物が留守中の家の中に入ってきて、新しい布団に寝ていたっていうこともありました」(檀信徒)
「2回目の一時帰宅の時は、納屋の中から豚が3頭出てきました。うちの方は地下水が自噴しているので、動物が住めたんです。どこの家の納屋でも3月ですからジャガイモとかかぼちゃとかお米とかみんなありましたから、すごい動物の被害がありました」(檀信徒)
 
―事故後、皆さんが避難されている中で、お寺の活動というのは実際どういうふうな形に変化しましたか?
「当初は、仮設住宅がなくて避難所ですね。みなさんは体育館にいたり、旅館借りて避難されているとか、そういう状況だったので、最初の3ヵ月、4ヵ月くらいはいろんな人に会うということをしていました。会って顔を見て話すことでちょっと落ち着くっていうことと、誰がどこに行ったかが全然分からない状況が続いていましたので、消息を把握するということをしていました。あとは実際に、そのズボンがないとかジャンパーがないとか、何か不足なものがないか、体調はどうですかという、いわば御用聞きで歩くということをしながら活動していました。このようなことをしながら、だんだんニーズが変化してきます。最初は、今日履くものが欲しいとか、今日着るものが欲しいとか、そういうレベルだったものが、だんだん落ち着いてくると、隣の人がどこに行ったのか知りたいとか、自分の家のお墓がどうなっているのか知りたいというふうになってくるのです」
「警戒区域になって、出入りが原則禁止になってからは、公益事業者ということで、立入許可証の交付を受けて、月に1回は寺の様子を確認するようにしていました。寺域が荒されたり、盗難されたりの心配があったものですから」
 
―避難生活の中で、たとえば彼岸や施食会などの年中行持や法要はどういうかたちになっていましたか?
「最初の年は(警戒区域で立入禁止のため)当寺ではできません。親しくさせてもらっている隣寺にて、合同で震災の四十九日と、お盆の供養と、春のお彼岸、壱周忌・三周忌のご供養をいたしました。今年は当寺で盆行事ができました」
 
―今日のようなお寺のお掃除はいつから?
「今年の4月16日(警戒区域解除)以降はみんなでお掃除するようになって、本堂も境内も少しずつ片付いてきたので、『お盆はみんなでやりましょう!』ということで呼びかけましたら、もう本堂に入りきれないぐらい檀家さんが来てくれました。びっしりでした。本当にありがたかったです」
 
―そうですか。やはり地域のお寺さんというのは、心のよりどころ、コミュニティーのひとつの拠点だったんですね
「震災後、さらに強くそのことを再認識するというか、みなさん、状況や環境が異なっても想いで繋がるんですよね。故郷にたいしての想いですよね」
 
―今は避難されている檀家さんすべてを把握されていらっしゃいますか?
「今でも1割の方は把握できていません。努力は続けているのですが、檀家さんの消息をたどるだけでなくて、境内の修復をするとか、東電へ賠償のことを話しにいくとか、家族も県外に残していますので、なかなかそれだけに集中するというわけにはいきません。『もう一年半たってどうですか?』というお尋ねをもらうのですが、私たちにとっては、まだまだ直後の現在進行形というのが実感です。散り散りバラバラになった檀信徒のみなさんに連絡もできない状態でしたから、ダメでもともとで寺報に返信はがき入れて旧住所宛で投函しました」
「震災後『寺報』が届いた時は嬉しかったですね。『寺報』を元の住所で送られたので、郵便局の方で転送してくださって、届いた時は本当に嬉しかったです……(会場「うれしかったよ!」)」(檀信徒 女性)
「当初は警戒区域内なので、原則立入禁止で寺の存続どころか地域の復旧すらままならない中で、檀家の皆さんが最初にされたことは、お墓を直すという行為でした。住職の私がそれを見ていて『これは本物の行為だな!魂の底から湧き上がってくる行為がこれなんだ!』と感動しました」
 
―外の杉林の下では1マイクロシーベルト毎時を超えていましたし、この部屋の中でも0.3マイクロシーベルト毎時はありますが、放射能の測定やその数値はどうでしょうか?
「当初は警戒区域ですから、個別の測定はできませんでしたし、その正確な数値も分かりません。南相馬市では海岸部は比較的線量が低いのですが、放射能の雲の通り道になった山間部には放射能の吹き溜まりのようなところもあります。この地区はその中間というところです」
 「お寺の境内の土壌は、独自に測定所に持ち込んで調べてもらいましたら約8000ベクレルありました。セシウム134が2000ベクレル、セシウム137は6000ベクレルの合計8000ベクレルです。セシウム134は半減期2年ですが、137の方は30年は減らないといわれていますので、しばらくこの値に大きな変化がないことになります。雨どいの下など場所によってとてつもなく高い数値が出るところはいくらでもあります」
「今回の原発爆発のもたらした傷というのははかりしれません。(原発は)絶対に大丈夫だといわれていたことの非常に大きな傷と心の穴を今私たちは受けています」
 
―福島県内では除染事業を開始した自治体もあるようですが、ご当地ではいかがですか?
「当地区ではやっていません。その予定も今のところありません。除染したらそれで出た放射性物質の処分場(仮置き場)が必要になりますが、その場所が決まっていないのです」
「個々の家で除染しても、自分の敷地に積んでおくしかない。それを回収してもっていく場所がない」
 
―除染のほかに、行政の対応でお気づきの点がありましたらお話しください
「とにかく遅くて形式的な対応で困っています。住民の切実なニーズに噛み合っていません。自宅の再建などでも規則尽くめで実際には利用できないことが多すぎます」
 
―お寺として賠償請求や補償はどうなさっていますか?
「東京電力には賠償請求していますが、机に向かって出納帳を付けたりしている時間の余裕が私にはありません。さまざまな経費は全部、領収証をつけて出せとか、そういうことを言われていてたいへんです。余計な移動に、余計な事務、しかも家族はバラバラで迷惑どころの話ではありません。今までの収入に対しての補償はあるみたいなのですけれども、その後かかった費用に関しては追加的に請求しなければならないのです。これがとても煩雑なのです」
 
―ご当地は農家の方が多いそうですが、農業の被害についてはどのように対応されていますか?
「農家の方は農協を通して請求しています。前年の税金納付の書類などがありますから、その過去の実績のデータにもとづいて請求はしています。ですが、もとに戻っても今まで通りに作れるか、3年も休んだら農地はダメになります。それがすごく心配です」
 
―檀信徒の皆さまからご意見ご要望などございましたら、おっしゃってください
「最後にお願いしたいことがあります。ぜひとも全国に発信してほしいと思います。実は、福島ナンバーの車が東京に行く、いわきナンバーの車が東京に行く。そうすると、『駐車場の一番端っこに止めてきてください』と言われるということがあります。そういう差別をされるところがあるということを知っていただきたいのです。そういう悲しい思いをさせないでほしいのです。今でもそういう話なんです」(檀信徒 男性)
「それと風評被害というのですか、実は震災直後から福島のIに小さな果樹園をやっている方と知り合いになりまして、原発の風評被害で果物が売れないということで非常に悩んでいるものですから。農家の方は野菜にしろ、そういう果樹園の方だと果物、そういう風評被害を無くしてほしいなということが。それから、避難している方が早く帰れるような国の除染作業だとか、それを早くしてほしいなと思っているんです」(檀信徒 男性)
 

ふくしま余韻 災禍と宗教

今、ふくしまは3度目の災禍に耐えています。最初の災禍は震災と原発爆発事故直後の物理的災害です。次は国策企業や行政の無為無策による政治の災い。そして3度目はこのふくしまの窮状につけこんで、別の利得や目的を図る社会からの災禍です。大規模な国営の除染事業や避難地区の復興も本当に困った地域のためになっていないことが多すぎます。
南相馬のこの寺院は、一昨年の3月12日午後から次々と爆発した原子炉事故の影響で、警戒区域(20㎞圏内)の指定を受けました。住民は1年以上もその立ち入りすらままならない避難生活を強いられたのです。自然の災いだけではない核の暴走によって作り出されたこの災禍は、永年にわたる人びとの信仰と生活の縁そのものを断絶しつつあるのです。
災害と事故の直後から、災害復旧の余裕すらなく、着の身着のままで無秩序な退避を余儀なくされ、お寺のつながりや地域社会も散り散りばらばらになりました。
若い住職さんが、まっさきに始めたこと―それは断絶しかけたさまざまな縁を一つひとつ再生していくことでした。避難先から「寺報」を檀信徒の元の住所へ発送すること、返信のあった避難先の一人ひとりを尋ねること、いろいろなニーズを聞き取りそれに応えること、公益事業者として警戒区域への一時帰宅に向けて交渉すること、故郷とお寺へ戻り、大きく傷ついた境内を清掃、修繕すること、そして隣寺の協力を得て、お寺の年中行事を再開することなどです―これらは地域コミュニティーの重要なよりどころになっています。
ふくしまのお寺と住職、寺族、檀信徒の皆さんが、3つの折り重なる災禍にもかかわらず、平常心で故郷と人間の再生に懸命にはたらく姿に畏敬の念をますます深くします。
偽善的な「絆」の押しつけ、地元のニーズから乖離した復旧復興の強要、詐欺まがいの除染商売やふくしまを忌避の素材にするだけの「脱原発」など、ふくしまの現実から目をそむけるさまざまな社会運動よりも、実効的な除染や生活再建が大切だ、故郷を返してほしい、そう考えている人の方をなぜ私たちは信頼しないのか? ふくしまの喫緊の問題を、小ざかしく別の目的にすりかえたがる人をなぜ尊重するのか。
宗教が、これまで歩んできた歴史は、決して平坦で安穏な道ではありませんでした。危機の中でこそ人間と故郷の再生の重要な礎になってきたことを、ふくしまの宗教も実証しています。―ふくしまの故郷の再生は他からもたらされません。ふくしまの声を聴聞することにしかない―そう確信します。