【人権フォーラム】人権啓発相談員協議会報告 ~原発に頼らない安心できる社会の実現にむけて~


昨年12月1日から2日までの1泊2日の日程で、人権啓発相談員協議会が、福島県内で行われた。

人権啓発相談員(以下、相談員)は、さまざまな人権問題について主体的に取り組む宗門僧侶の中より、7名が委嘱されている(2月1日現在)。

初日は、東日本大震災以後の「福島」の今日の課題を知るため、いわき市から南相馬市を訪問した。

13時にJRいわき駅前に集合。相談員および人権擁護推進本部は、現地を案内いただく南相馬市同慶寺住職の田中徳雲師と共にマイクロバスに乗車し、東京電力福島第一原子力発電所(以下、福島原発)を目視できる国道6号線を北上した。

まず車内で田中師より、福島原発事故当時の、避難せざるを得なかった苦労や、南相馬市内の寺院住職としての寺院運営の苦悩等、震災から今日までのお話をうかがった。

「福島原発事故の3日後、3月14日の夜、家族を伴い最初に避難した先は、福井県永平寺町でした。その後約2年間、福井県内で家族を伴って避難生活を続けました。

この間私は、数日間福島県内で自分にできることを探しながら活動し、数日間福井県で避難生活をする家族の元に帰るという生活を続けました。数えると2年間で100往復を越えていました。そして子どもの小学校入学というタイミングで、妻の実家があるいわき市へと戻りました」

南相馬市小高区の避難指示要請が解除されたのは、昨年7月12日。帰りたくても帰れなかった地元の方々も、一部ではあるが、南相馬市での生活を始めている。しかしながら、故郷での生活に不安を拭いきれない住民も大勢いる、と田中師は話す。

「子どもがいる世帯のうち、小高区へと戻って来た家族は、ほんの数世帯だけです。子どもを育てている世帯の多くは、子どもへの不必要な被曝を避けて、故郷には戻りたくても戻れないのではないでしょうか」

そして、いまだに田中師自身もいわき市への避難を余儀なくされている。

「除染は進んでいますが、あくまでできる範囲の除染であり、まだら除染とも言われています。そして肝心の効果の方は大きな疑問が残ります。実際はざるで水を掬うような作業です。南相馬市の自坊へ妻と子どもたち家族を連れ戻せば、子どもたちの被曝に目をつぶりながらの生活になります。長期的に人が住めるかどうか身をもって実験するような状況のため、今まではなるべく避けてきました。

しかしお寺で一緒に暮らすことで、お寺の生活が多忙なときは家族みんなで協力して乗り越えていく等、子どもたちが経験できることを思えば、後継者育成の観点からも、お寺での子どもたちと一緒の生活をまたはじめたい、という思いもあります。

しかし、実際周りの檀信徒の中には、親子で甲状腺癌になった方もいますし、体調不良は以前よりはるかに増加しています。もし万が一にも子どもたちに健康被害がでてしまったなら、耐えられそうにありません。本当にどうしたらよいものかと葛藤しています」と複雑な胸中を語られた。

福島出身というだけで…

昨今、福島から避難しているという理由でいじめを受けた事例が複数の県で報告されている。

「ばいきんあつかいされて、ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。福島の人はいじめられるとおもった。」「いままでなんかいも死のうとおもった。」「でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた。」

以上は福島より神奈川県横浜市に家族で自主避難している男子中学生の小学生時代からの手記(抜粋)であるが、福島原発から逃れるために全国各地へと避難している子どもたちへの差別が、現実に今起きてしまっている。

「賠償」の不平等による分断

田中師(左端)から、請戸小学校2階で説明を受ける

現在いわき市民には、東京電力からの賠償金が支払われていない。しかし田中師のように、南相馬市からいわき市へ避難している方々へは賠償金が支出されているという。その問題について田中師は、「ある一線を引いて、こちらは賠償しますよ、こちらには賠償はありませんよ、という行政判断が、地元の人々をさらに分断に追い込んでいます。ほぼすべての生活や地域の伝統やつながりを失いつつある人々に対しての『でもあなたたちは賠償金をもらえていいよね』というような妬みは、市民の心を荒廃させる原因になっています」と語られた。

津波の激しさを今も伝える学校

今回、帰宅困難区域である富岡町、大熊町、双葉町にまたがる約14キロを、車で北上できたのは、2014年9月に、国道6号線の車での通行規制が国より解除されたことによる。しかし、いまだにこの区間では放射線量が非常に高い場所があるため、徒歩での通行や、自転車やオートバイでの通行は禁止されている。今回、南相馬市へと国道を北上する車中において、福島原発に最も近い場所と指摘されたあたりで計測したところ、線量計は5・768μsv/hをさしていた。この特別な通行規制区間を通り、バスは津波の爪あとの残る浪江町立請戸小学校を目指した。

請戸小学校へと向かう途上、請戸漁港の慰霊場で、追悼法要を厳修した。このあたりは東日本大震災発災時、海岸沿いから避難が遅れた多くの方々が、津波にのまれてしまい亡くなった場所であるとの説明を受けた。

法要後、請戸小学校へ到着。この小学校の児童および教職員は「津波は必ず来る」と判断し、すぐに避難したため幸い全員無事であったが、この建物の中に一歩足を踏み入れると、震災から5年経った今も、津波にのまれたときの惨状がそのままで残されている。

「3・11」発災時のまま、時の止まった教室内に身を置くことにより、小学生が卒業式を直前に控え、元気いっぱいで式にむけて練習を行っている風景などが目に浮かんだ。

同時に田中師から「このあたりまで津波がきました」と、教室2階の本来の色とは明らかに異なる壁を指差されたとき、小学校を含めたこの請戸漁港一帯をたいへんな高さの津波が襲ったことを改めて実感した。

原発に頼らない社会の実現を求めて

田中師は、自身が生まれたときから、福島原発が身近にあったために、「3・11」以前より、原発の仕組みに興味をもって勉強してきたという。学ぶ中で、原発事故で最も怖いのが、冷却できなくなることであり、もし冷却できなくなれば24時間以内に爆発してしまうことを知った。

震災以前から、原発事故は決して起きないという安全神話への懸念や、大都市ではなく地方に原発建設を行う政策の問題点、人命より経済的論理が優先されることは、不殺生戒、すなわち「すべてのいのちを傷つけないこと」を提唱する仏教の教えに反することを、檀信徒に語っていたそうである。

震災前の時点では、原発を否定する住職の意見に反発もあったのだが、「3・11」以後は、「やはり、住職の言うとおりだった」と言われるようになったと語られた。

相談員の1人は、この福島原発の大事故を、「人類の転換点、世界の転換点、文明の転換点」と話し、同様に田中師自身も、「今までの感じ方、考え方を180度、見つめ直さざるを得ない」と述べられた。

2012年2月23日、曹洞宗通常宗議会において「原子力発電に頼らない安心できる社会の実現に向けて、省エネルギーのための取り組み推進を求める」ための決議がなされ、告諭(管長のおことば)には、「原子力に頼らない社会の実現を願う」とのお示しをいただいている。

今、日本は長きに亘る福島原発事故修復という大変な作業を抱えている。私たちは、これから生まれてくるあらたな「いのち」や今生きる子どもたちのためにも、わたしたち一人ひとりが、それぞれの立場で「原発事故が起きたこと」について責任を果たしていくために、改めて考え、行動を続けていくことが必要なのではないだろうか。

請戸漁港に自然発生的に設置された慰霊場で読経

ここで、ふたたび田中師の言葉を掲載したい。

「津波が来ることは分かっていた中、対策が取られなかったので、こういうことになってしまった。その結果、もう何もかも水の泡で、自分たちはいったい今まで何をやっていたのだろうと反省し、本当に正しく見るということが、いったいどういうことなのかを、地域住民、そして我々宗門僧侶含めて改めて考えさせられています。ですから、怒りを越えて、子どもたちのためにも、マイナスのことが本当に山積している中、ここからどういうふうに、このマイナスをプラスに転じていけるか、分からないなりにも、本気で考えて行きたいと思います」

2日目は、全国人権擁護推進主事研修会(開催場所:福島県内)の内容等についての協議が行われ、全日程を終了した。

 

 (人権擁護推進本部記)

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