【人権フォーラム】人権思想を理解するために ヴォルテール『寛容論』を読む


世界人権宣言から70年

1948(昭和23)年12月に、第3回国際連合総会において、「世界人権宣言」前文・30ヵ条が採択されてから、70年が経過しました。
この宣言は、基本的人権(ヒューマン・ライツhuman rights)を、国家体制、文明や宗教などのちがいを超えて人類の普遍的価値として表明した、歴史上初の宣言文書です。

 

人権思想としての古典『寛容論』

いま一度、人権思想の歴史を振り返り、その基礎を理解するために、一冊の古典を紹介しましょう。
その書物は、ヴォルテール(1694~1778)の『寛容論』1763年刊です。
ヴォルテールの『寛容論』は、フランスのみならず世界的にも有名な哲学書ですが、人権思想の解説書に登場することはまず稀です。「アメリカ独立宣言」(1776年)や「フランス人権宣言」(1789年)と、その思想的なルーツとされる英国のジョン・ロック(1632~1704)の著作が人権思想の起源として取りあげられるわりには、この『寛容論』は人権思想の歴史にはほとんど関係ないという扱いしか受けていません。
ところが、ヴォルテールがこの『寛容論』で述べていることは、人権思想と宗教との関係や、ひるがえって仏教における人権擁護の営みを理解するためにも、たいへん有益です。
ヴォルテールは、後世の「自由」や「平等」などのスローガンを声高に叫ぶようなことはせず、きわめて控えめな筆致で、宗教による狂信や差別の暴力の非を指摘し、寛容の美徳を勧めています。
哲学書と聞くと、読む前から、難解で疲れる書物かと思いがちですが、その心配は無用です。『寛容論』の文章は平易かつ明晰な叙述そのもので、ついつい先へ先へと読み進んでしまいます。名著と評されるゆえんです。

 

寛容の美徳

光文社版『寛容論』の裏表紙にある紹介文を引用します。
(キリスト教)カトリックとプロテスタントの対立がつづくなか、実子殺しの容疑で父親が逮捕・処刑(死刑)された「カラス事件」。狂信と差別意識の絡んだこの冤罪事件にたいし、ヴォルテールは被告の名誉回復のために奔走する。理性への信頼から寛容であることの意義、美徳を説いた最も
現代的な歴史的名著。
この著作が発表される2年前の1761年10月に南仏トゥールーズで起きた事件と一連の動向がフランスを震撼させます。
改革派キリスト教・プロテスタントであったジャン・カラスの家で、その長男マルク・アントワーヌの死体が発見されました。実際には、長男が自ら縊死したということですが、当時、カラスが町では少数派であったプロテスタント信者であったこともあり、事件を聞きつけた群衆が宗教的な狂信から「ジャン・カラスが息子のマル・アントワーヌを絞め殺したぞ」と叫んだのです。この流言に煽られた町の司法当局は、カラスを逮捕し、公正な審理もないままで、車責めの死刑に処したのです。カラスの家族や関係者は死刑を免れたものの、一家離散し、名誉も財産も剥奪没収されてしまいました。
最初は、父であるカラスの実子殺しを疑ってもいなかったヴォルテールは、数日後、錯綜するさまざまな情報にふれて、実は宗教の狂信による煽動が、冤罪事件をもたらしたことを確信します。
そこから、カラスとその関係者の名誉回復に向け、ヴォルテールは危険を承知で、精力的な言論活動を展開する
ことになります。
その中で、彼が主張しているのは、「寛容(トレランス=原意は忍耐)」という美徳でした。自然な理性にもとづいて宗教の狂信と暴力を徹底的に批判し、多様性との共存を、忍耐をもって求めつづけることです。

 

人権思想の基礎

ヴォルテールは、信仰する宗教のちがい、それも同じキリスト教であるにもかかわらず、殺戮しあう野蛮な時代に対して、侵してはならない「人間としての当然の正義」があるはずだと提唱するのです。「人間としての正義」というのが、実は「人間の権利」つまり後世では「人権」と呼ばれることになる思想の核心になります。
ヴォルテールは「第6章 不寛容ははたして自然の法であり、人間の権利であるのか」の冒頭部分で次のように
明言します。

自然の法は、自然がすべての人間に教示する法である。
   …〈中略〉…
人間の権利は、いかなるばあいにおいても自然の法に基づかねばならない。そして、自然の法と人間の権利、そのどちらにも共通する大原則、地上のどこにおいても普遍的な原則がある。それは、「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」ということ。
   斉藤悦則訳『寛容論』
(光文社古典新訳文庫)61頁

有名な「フランス人権宣言(正式には「人および市民の権利宣言」)」が、世に出る30年弱前の文章です。フランスでは、初めての人権宣言とみてもよい内容です。
ただし、後世のいわゆる自由主義や平等主義を中核とする人権思想とは異なり、ここでは「自由」にも「平等」にも直接は言及されていません。
ヴォルテールの言う「人間の権利」とは、ある特別な自己主張や恣意的な利益要求ではありません。「人間の権利」は、「自然の法」という、たとえば親子の情愛と子どもの保護義務、自作収穫物の占有権そして信義誠実の義務などの、成文法規以前の「自然の当たり前なありよう」に基礎を置くと述べています。
そのうえで、ヴォルテールは「人間の権利」と「自然の法」の両方に共通する普遍原則として、次の格言を掲げています。
 〝自分がしてほしくないことは  他者にもしてはいけない〟
これが、もっとも平易で簡潔な人権思想の定義です。
ヴォルテールのこの人権解釈については、同時代または彼に影響を与えた先人の業績を調べた結果、ほぼヴォルテール独自の理解であることが分かりました。
キリスト教文化の中では、「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」という箴言はあまり一般的ではありません。
『聖書』の中では、むしろ「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書/7・12等)の方がむしろ有名です。 
このことばは、時代や宗教を超越した普遍的な倫理原則という意味合いで、黄金律(ゴールデン・ルール)とも表現されています。

 

銀色律と仏教

ヴォルテールは、人権と自然法の両方を貫く原則として、「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」を取り上げています。
ヴォルテールが掲げたこの格言は、『聖書』にある積極型の黄金律にたいして、禁止型の「銀色律(シルバー・ルール)」と呼ばれています。
『寛容論』の著者としては、宗教の狂信と暴力を押しとどめ、被害者たちの名誉を回復するための対抗言論として、黄金律ではなく、「自分がしてほしくないことは他者にもしてはいけない」という銀色律を強調する必要があったと考えられます。
ヴォルテールによる黄金律から銀色律への言い換えは、人権思想の根拠を理解していくうえでも、仏教思想との関係を見直すうえでも、とても重要な視点を提供しているのです。
銀色律に類似する宗教思想や倫理観は、実はかなり普遍的なものの考え方です。黄金律ではキリスト教というかなり限定的な範囲でしかその用例は見つかりませんが、ヴォルテールが掲げた銀色律については、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教や東洋の仏教や儒教などにも広く見いだされる普遍的な行動倫理です。
この点に着目すれば、仏教思想と人権思想との比較と調整が可能になってくるかもしれません。
また、ヴォルテールの『寛容論』の価値は、現代社会における多様性の共存を拒絶する思潮や、独善的な排外主義による攻撃が強まってきた不寛容な状況にあってさらに高まっているのではないでしょうか。
ヴォルテールの指摘しているさまざまな論点は論理として妥当し、当時のキリスト教会をも批判的に扱っている点において、とても現代的で新鮮です。

▽書誌情報
ヴォルテール『寛容論』
斉藤悦則訳(光文社古典新訳文庫)
文庫版 343頁 2016年刊
(人権擁護推進本部記)