【人権フォーラム】『宗報』にみる戦争と平和 11 ―戦時中、捕虜収容施設となった 寺院があった①―


【写真1】『曹洞宗報』第116号「疎開」記事

米軍機の空襲にともなう学童および施設の疎開

アジア太平洋戦争の末期、日本本土の都市は、米軍爆撃機による無差別空襲によって、おびただしい数の死傷者が出る壊滅的な戦災に見舞われていました。
日本国政府は、都市に居住する学童や公共の施設等を、軍需産業や行政機構が集中する人口密集地域から、周辺の農山漁村へ退避・移動(疎開そかい)する施策を急遽決定しました。
曹洞宗も含む伝統仏教教団の寺院は、この都市疎開者の受け入れを政府から要請されています。
政府からの求めに応じ、大日本仏教会は「都市疎開者受入及斡旋あっせんに就て」と題する要綱文書を加盟教団・宗派へ伝達しました。
『曹洞宗報』第116号(1944〈昭和19〉年4月号)には、【写真1】のように、所属の宗門寺院・教会に対して、疎開者等を積極的に受け入れるよう依頼しています。

 

【写真2】あるイタリア人家族の写真

あるイタリア人家族の集合写真

茅葺き屋根のお堂前で撮影した外国人一家と見られる記念写真があります。【写真2】 夫婦とおぼしき男女と3人の子どもの写真です。被写体となった5人の表情からは想像できないでしょうが、わずか数週間前までは、虐待や飢餓などによって、生命の危機にさらされていました。
この集合写真は、1945(昭和20)年8月下旬から9月頃に、愛知県石野村(当時・現在は豊田市)の宗門寺院境内で撮影されたあるイタリア人一家五人の写真です。
このイタリア人家族は、アジア太平洋戦争末期に、日本政府によって、敵国外国人として抑留よくりゅうされていました。

 

捕虜収容施設となった廣済寺

ここまでお読みになった読者の皆さまはお気づきかもしれませんが、日本国は当時「日独伊三国同盟」(1940年9月締結)を結んでおりドイツ、イタリアとは友好国であったはずです。
それならば、なぜ敵国の戦争捕虜でもない民間イタリア人一家が捕虜ほりょ収容施設送りになったのでしょうか。
日独伊三国(軍事)同盟により、日本国はナチスドイツとイタリアファシスト政権とともに、連合国側に対抗す
る枢軸国となりました。
しかし、この同盟関係は、ヨーロッパ戦線において早くも破綻はたんします。
ムッソリーニ率いる同盟国イタリアは、1943(昭和18)年9月初めに連合国側に降伏(ムッソリーニ失脚7月25日・休戦協定9月3日)します。しかし、ムッソリーニは9月12日にドイツ軍により救出され、ファシスト政権が北イタリアに再び樹立されました(実質はナチスドイツによる傀儡かいらい政権)。
日本政府は間髪いれず、この再建されたファシスト(サロ)政権をイタリア正式政府として承認しました。
さらに、日本政府は、同年10月5日付で「伊国ニ対スル処置調整ノ件」を決定し、「伊国ファシスト共和政府」に所属しないすべてのイタリア人を敵国人とみなすとし、国内居留の民間イタリア人に対しても、新ファシスト政権を支持し忠誠を誓う「宣誓署名」を義務づけました。この要請にしたがわない者は民間人といえども、敵国人と見なされ、保護の対象から除外されることになりました。
この写真に写っているイタリア人家族は、イタリアファシスト政権への忠誠と同盟国日本への協力を拒否したために、友好国民間人から一転して敵国捕虜と同等の待遇を受けることになりました。
当初の捕虜収容所は名古屋市内(当時は天白村)にありましたが、米軍空襲の激化にともない収容所施設も農村に疎開することになったのです。
ここ廣済寺こうさいじ(豊田市東広瀬町)は、戦時末期にはイタリア人捕虜収容施設となっていました。
この写真に写っているイタリア人家族は、十数人のイタリア同胞とともに、1945(昭和20)年5月初めに疎開で移送されたようです。

 

フォスコ・マライーニ氏とその家族

抑留先の収容施設で世界大戦の終結を迎え、ようやく過酷な抑留生活から解放されたイタリア人家族の集合写真をもう一度ご覧ください。
子どもを抱えている男性は、フォスコ・マライーニ(Fosco Maraini)。女性はトパツィア・アッリアータでフォ
スコとは夫婦です。三人の子どもは、ともにマライーニ家の娘で、長女ダーチャ、二女ユキ(北海道での誕生にち
なみ「雪」に擬した名前)、父親に抱えられているのが三女トニです。(名前の表記はイタリア文化会館HPによ
る)この家族がイタリアと日本でたどった生活の背景には、歴史と人のおりなす壮大な物語があります。

 

マライーニ家族の軌跡 札幌・京都へ

マライーニ一家が、イタリアから遠く離れた極東の地に移住することになったのには、その当時の国際情勢の影響があったようです。
フォスコとトパツィア夫妻は、イタリアのファシズム(全体主義)の受容をめぐって、親族や郷里の共同体秩序と衝突することになりました。
そこで、歴史の大きな歯車が動き始めます。
1936(昭和11)年から翌年にかけて、日独伊防共協定が締結・調印されます。当時の日本は、東アジア情勢(満洲国問題)などで、国際社会から急速に孤立していく中で、ドイツやイタリアの枢軸国と接近を図ります。
イタリア王国と日本とは、1937(昭和12)年11月に防共協定を締結し、さまざまな官民相互の積極的な交流を促進します。
日伊間では、文化・学術面でも互恵関係にあり、「日伊文化協定」(1939年3月)が結ばれます。
アジアや日本文化に強い関心をもっていたフォスコ・マライーニは、この日伊協定にもとづいて、日本国際学友会の外国人研究者奨学金資格を取得し、一家3人で北海道・札幌へ移住します。フォスコは北海道帝国大学でアイヌ文化の研究者生活を始めることになりました。(1939~41年)
イタリアの全体主義への反発や不服従が、皮肉にも日本への留学のきっかけとなったのでした。マライーニ家族の来日は、後にこの家族にとって、筆舌に尽くしがたい歴史的試練ともなります。
その後、フォスコらは1941(昭和16)年3月に、京都に移り住み、彼は京都帝国大学のイタリア語学講師として採用されます。この時期が、フォスコとその一家にとって、もっとも恵まれた時期でした。


過酷な捕虜抑留生活名古屋から廣済寺へ

フォスコとトパツィア夫妻と3人の子どもたち(ダーチャ・ユキ・トニ)の5人の家族は、1943(昭和18)年9月のイタリア軍降伏によって、その境遇が逆転します。その事情については、前に述べたとおりです。
フォスコとトパツィアは、ファシスト政権への忠誠をあくまで拒んだために、即時日本官憲の管理のもとに置かれ、京都から名古屋市近郊の敵国外国人の収容所「天白寮てんぱく」へ抑留されます。(1943年10月~1945年5月頃まで抑留)【写真3】

【写真3】名古屋の天白寮(旧松坂屋保養所)

フォスコはじめマライーニ一家を含むイタリア人抑留者16人は、特別高等警察の厳しい監視、最低限必要な衣食住の環境もなく(子どもの分の食糧は支給されていなかったとの証言あり)、飢餓と虐待や恐怖にさいなまれることになります。虐待のあまりのひどさに耐えかねた入所者たちは、ハンガーストライキ(断食罷業)や、警官等の食糧横流しに対して、愛知県警察本部へ抗議文を提出するなどの決死のレジスタンス(抵抗活動)を起こします。
フォスコはハンスト直後、収容所の看守から受けた「イタリア人は嘘つき」という侮辱に怒り、斧で自分の小指を切断して抗議しました。これは激情に駆られた発作的な行動ではなかったようです。フォスコは日本の歴史・文化や日本人の心情を深く理解していて、自傷行為が彼らに非常に強いプレッシャーとなることを熟知していたのです。
これらの抵抗もあって、若干の待遇改善がなされたらしいのですが、厳しい状況は依然として続きます。
米軍爆撃機による大都市空襲が激化し、収容所「天白寮」のある名古屋市郊外も安全ではなくなりました。
1945(昭和20)年5月初め頃、「天白寮」に収容されていたイタリア人十数人は、愛知県石野村東広瀬(当時)の廣済寺に集団疎開させられました。
この中に、マライーニ夫妻と三人の女子が含まれています。彼らは、同年の八月末日の解放まで、ここ廣済寺に居住することになりました。【写真2】は抑留生活から解放された直後にその記念として撮られた貴重な写真です。
この廣済寺を場にした収容施設の生活は、さまざまな意味で、未来の日本とイタリアとの国際交流においてとても大切な意味をもつことになります。
いったい廣済寺で、マライーニ家族に何があったのでしょうか。
(以下続稿)
* * *
※この欄の報告文とその画像・写真は、愛知県豊田市東広瀬町の廣済寺住職の酒井泰俊師からの情報提供によります。
酒井師からは、新聞記事、調査報告資料はじめ寺院に保管されてきた写真を含む貴重な歴史史料の提供をいただきました。
さらに、フォスコ・マライーニとその家族に関わるイタリアのドキュメンタリー映画上映についても案内を受け、本部執筆者が直接その映画作品を視聴しています。
それらの広汎な情報や記録をもとに、この記事は作成されています。
参考にした資料一覧は、一括して次回の記事末尾で紹介する予定です。
なお、その文責はすべて曹洞宗人権擁護推進本部に帰属します。

※お問い合わせ
 曹洞宗人権擁護推進本部
 ℡03-3454-3546

(人権擁護推進本部記)

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