【人権フォーラム】『宗報』にみる戦争と平和 12 ―戦時中、捕虜収容施設となった 寺院があった②―

2019.08.02
【写真1】廣済寺本堂スケッチ

前号の要旨
本誌7月号掲載「人権フォーラム」記事「『宗報』にみる戦争と平和 第11回」にひきつづき、今月号ではあるイタリア人家族の抑留生活のその後の顛末を報告します。
フォスコ・マライーニ氏は、妻と長女とともに、1938(昭和13)年末に来日しました。翌年には外国人研究者奨学金資格を取得し、札幌の北海道帝国大学、ついで京都帝国大学で東洋文化の研究者生活を営みます。
来日当初は、日本とイタリアとは友好国でしたが、1943(昭和18)年9月にイタリアが連合国に降伏してからは、その境遇が一変します。
イタリアは日本の友好国から一転して連合国側の敵対国になったことにより、日本国への忠誠を宣誓しないマライーニ一家は敵国人捕虜と同様の扱いを強いられることになりました。
京都から名古屋近郊に移送され、他の十数名のイタリア人とともに、強制的な抑留生活に入ります。
食糧の支給も不十分でしばしば飢餓状態になったといわれていますし、それだけではなく精神的な圧迫や虐待も日常化していたようです。
名古屋市街地の空襲激化で、抑留施設も疎開を余儀なくされ、宗門寺院へフォスコ氏らは移送されます。

 

天白寮での抑留生活 その証言
マライーニ一家5人は、1943(昭和18)年10月から1945(昭和20)年5月頃まで、天白てんぱく村(現在名古屋市天白区)の捕虜収容所「天白寮」で抑留・監禁されます。
そのきびしい生活の実態について、3人の子どもの母であり、フォスコの妻であるトパツィア・アッリアータは次のように日記に記しています。
「ここよりひどい状態にある人たちを考え、自分を慰めなくてはならないのだろうけれど、餓えに苦しめられ、頭痛がして、心慰めることなど何も考えられない」「灰色のマント(収容所看守のことか)が(収容されたイタリア人)全員を精神的にも肉体的にも窒息させているようだ」(望月紀子訳)
天白寮での抑留生活は、最低限の健康維持にも事欠くような飢餓状態で、収容者はみな精神的にも肉体的にも極限状態にあったようです。
さらに、7歳から9歳をこの天白寮で過ごした長女ダーチャは、後に次のように回想しています。
収容所の鉄条網をくぐり抜け、農家で蚕の世話を手伝い、ジャガイモや卵一個、牛乳をコップ一杯もらった……〈中略〉……間違った論理で私たちを祖国(イタリア)の裏切り者と卑しめ、罰しようとする軍人に見つかれば殴られるのに、彼ら(日本人農家)は親切に、私たちを助けようとしてくれた(寄稿「愛する日本よ 連帯精神の特質ゆえに」朝日新聞2015年6月9日夕刊)
天白収容施設では、子どもの収容者には食糧が支給されていなかったので、子どもたちは危険を冒してまで、自らの命の糧を調達しなければならなかったのです。
このような生命を削るが如き抑留生活は、米軍爆撃機による都市空襲激化や昭和東南海大地震(1944年12月・当時情報統制により未公表)による収容施設被害によって、大きな転機が訪れます。

 

廣済寺こうさいじでの生活 抑留からの解放
1945(昭和20)年5月に入って、マライーニ一家5人は、他のイタリア人抑留者とともに、現豊田市の山間の曹洞宗寺院に移送されました。
そのお寺が豊田市東広瀬町の廣済寺です。
その収容生活は、依然として敵国の捕虜としての扱いが続いていますので、官憲の監視や乏しい食糧支給はそのままだったようです。しかし、父親フォスコは後に「この廣済寺での生活をはじめてすぐにこれで生命の危機は回避できると確信した」という趣旨の回想をしています。何があったのでしょうか。
廣済寺はお寺ですから、軍や警察の施設ではありません。鉄条網が張り巡らされたり、拘禁したりするための設備はありません。収容者に対しては「敵国捕虜」としての扱いに準じていたので、お寺の関係者は原則、収容イタリア人との直接の接触は禁止されていました。
しかしながら、マライーニ家には3人の姉妹がいましたので、当時、廣済寺に居住していた同年代の女の子が、3人の姉妹と遊んだり、内緒で物品を渡したりすることは黙認されていたようです。
戦時下の、それも捕虜収容所という厳しい環境の中でも、子どもであるが故、大人のような偏見に流されず、人間としての品位を保ち、人道を実践していたということは、現代の私どもにとっても大いに勇気づけられる出来事です。

 

廣済寺のスケッチ
マライーニ一家を含む十数名のイタリア人抑留者は、ここ廣済寺で、8月15日の終戦と8月末の抑留生活からの解放を迎えます。
敵国捕虜としての待遇から、一転して戦勝国の自由市民へと立場は逆転します。お寺の住職は、フォスコらに「戦勝を祝して」赤飯を振舞ったということです。
写真家でもあったフォスコは、解放後、没収されていた写真機等を取り戻し、一家の記念写真を撮ります。これが前号に紹介したお寺の本堂を前にした5人の集合写真です。
また、フォスコらが終戦から解放を経て名古屋へ向かうまでの数週間に、フォスコはここ廣済寺の伽藍を精細に写生したスケッチを残しています。

 

マライーニ一家の戦後
夫フォスコ・マライーニ・妻トパツィア・アッリアータその3人姉妹長女ダーチャ、二女ユキ、三女トニらは、それぞれの戦後を歩むことになります。抑留生活から解放後、1946(昭和21)年5月に一家は横浜港から出国します。夫フォスコは平和を回復した日本に留まりたい気持ちもあったようです。しかし、長い抑留生活によって心身ともに深い傷を負っていた妻トパツィアは帰国を希望します。最も複雑だったのは、3人の娘たちでした。長女ダーチャは日本に渡航してきた時点で物心のついた子どもでしたが、2人の妹はともに日本で誕生しましたので、彼女らの精神的な母国は日本なのでした。
夫婦と長女の3人にとっては、既知の生まれ故郷への帰還でしたが、ユキとトニの2人にとって、イタリア帰りは、生まれ故郷から引き離されることを意味したのでした。
フォスコは自身が経験した抑留体験をなかば乗り越えて、それを跳躍台として積極的に生きていこうという態度でしたが、妻のトパツィアには抑留生活での夫との感情的な行き違いや精神的外傷が重くのしかかっていました。夫婦はお互いを深く理解しながらも、帰国後しばらくして婚姻関係を解消します。
長女ダーチャは、自身の体験を基礎に、フェミニズムと平和主義を基調とする作家・脚本家としてデビューし、ノーベル文学賞候補にも挙げられるようになります。三女のトニは、イタリアで文化人類学の研究者として活躍します。日本とイタリアにはさまれてもっとも複雑な境遇だったユキは、長じて声楽家となりますが、両親よりも早く夭折ようせつします。
命こそ助かったものの、日本で一家が背負った傷は、それぞれ重く深いものでした。

【写真2】廣済寺山門スケッチ
【写真3】フォスコの墓


イタリアと日本の架け橋として

フォスコは、約2年間にもおよぶ不本意な抑留生活を経験したにもかかわらず、日本文化や宗教への深い共感と造詣をもとに、母国イタリアと日本との文化交流に尽力します。
フォスコは、1954(昭和29)年に帰国後はじめて日本を再訪問しました。その旅程で、思い出の地である廣済寺を訪れ、寺の住職や寺族と再会し、お寺に残しておいた自筆素描絵画の裏に「昭和20年4月(ママ)より9月5日まで此処に抑留され、昭和29年11月14日再びこの広済寺に来訪することができました記念に署名いたします。思出(ママ)の自筆の絵をみて約十年前を回想しつつ」と裏書しています。
フォスコはここ廣済寺での悲喜こもごもの生活を後に回想して「中部イタリアの古い修道院を彷彿ほうふつとさせる魅力をもつ奥ゆかしい広済寺では、みな生まれかわったような体験をした……」(望月紀子『ダーチャと日本の強制収容所』一九二頁)と述べています。彼の体験したこの喜びが、戦後の日本とイタリアとの懸け橋になったのです。
フォスコは帰国してからほどなくして名門フィレンツェ大学から招聘されて、同大学の日本語・日本文学科創設にかかわり教員として定年まで勤めます。その間、イタリアの日本文化研究機関「イタリア日本文化研究会」の立ち上げにも尽力します。
彼の多年にわたる日伊文化交流の功績に対して、かつてフォスコらに抑留生活を強いた日本国政府は、1982(昭和57)年には勲三等旭日中綬章を授けました。
フォスコ・マライーニは2004(平成16)年6月8日、91歳で波乱に満ち、壮大な物語のような生涯を閉じました。


廣済寺に眠るフォスコ

フォスコは、母国イタリアで逝去し、遺体は故郷で埋葬されました。彼の生前からの強い希望は第二の故郷ともいうべき日本の「お寺(廣済寺)の裏山で眠りたい(埋葬のこと)」ということでした。宗教上の理由などから、遺骸の改葬はかないませんでしたが、フォスコ逝去の2年後、廣済寺の尽力もあり、フォスコの遺髪と爪の一部が廣済寺の墓地に納められています。墓碑はイタリアのそれを模した意匠となっています。その墓碑銘には「私の天体 月へ帰ります そして争いのないメッセージを地球に贈ります」という邦訳文が刻まれています。
イタリアと日本との戦争と抑留体験を経た、マライーニ一家に共通する平和と自由を希求する声明です。

 

人間の悲惨さと偉大さ
もうひとつの収容所体験との共鳴
マライーニ家族5人は、日本での抑留生活を経て、イタリアへ帰還しました。そして、それぞれの戦後が始まります。父フォスコと娘たちは、日本との交流を続けます。
ここ廣済寺での抑留生活の数ヵ月間、ダーチャ、ユキ、トニたちと生活し遊んだ当時のお寺の住職の孫にあたる方が健在でいらっしゃいます。
加納啓子(旧姓酒井)さんがその方です。マライーニ一家に「ケイコちゃん」と親しみをもって呼ばれていた彼女がいたおかげで、きびしい収容所生活にも一筋の光明と安心がもたらされていたことから、私たちは何を学ぶべきでしょうか。
たとえ戦時下の敵対国同士の間柄であっても、人間的なふれあいと心の交流があったことを、心に銘記すべきではないでしょうか。
子どもだから、情報や知識がないから、そんなことはできないということではないのです。逆に大人は常識や世間体という偏見で簡単には身動きがとれないということもあります。
だれでも、いつでも、どこでも実践できる人権擁護の営みということがありうるということです。
ここまで、話を進めてきて想起するのは、精神医学者ビクトゥール・E・フランクルによって発表された有名な強制収容所体験記録『夜と霧』(原題『ドイツ強制収容所における一心理学者の体験』)にある一節です。
……次のことが注意されなければならない。すなわち収容所の当局者の中には……いわば道徳的な意味で……ナチスに対してサボタージュする者もいないわけではなかったということである。たとえば私が最後にいた収容所の司令を例にとってみると、彼は親衛隊員であったが……彼は自分のポケットから少なからざる金を出し、そっと町の薬局から囚人のための薬を買い入れさせていた……だが前述の司令は私の知っている限りでは一度でも彼の囚人に対して手を上げたことはなかった。……
このことからわれわれは一つのことを悟るのである。すなわちある人間が収容所の監視兵に属しているからといって、また反対に囚人だからといって、その人間に関しては何も言われないということである。人間の善意を人はあらゆる人間において発見し得るのである。……
従って人間の善意は全部からみれば罪の重いグループにも見出されるのである。その境界は入りまじっているのであり、従って一方が天使で他方は悪魔であると説明するようなことはできないのである。
……私はある日一人の(ナチス)労働監督がそっとパンの小片を私にくれたことを思い出すのである……〈中略〉……私は彼がそのパンを彼の朝食の配給から倹約してとっておいていてくれたことを思い出す……〈中略〉……私を当時文字どおり涙が出るほど感動させたものは物質的なものとしてのこの一片のパンではなく、彼が私に与えた人間的な言葉、人間的なまなざしであった……強制収容所の生活は疑いもなく人間の奥底に一つの深淵をひらかしめたのであった……善と悪との合金としての人間的なもの、をみることができた……苦悩もわれわれの業績であるという性質をもっている。
(フランクル著作集Ⅰ『夜と霧』旧版 195~196頁 みすず書房刊)
フランクル博士のこの証言と廣済寺における心の交流とは、場所や環境は違いながらも、深く共鳴してきます。
人としての尊厳・人権を守る営みは、理屈やイデオロギーではなく、だれでもいつでもどこでも実践しうる人間の品位でもあります。
私たちは、戦時下の一時期に強制収容施設となった宗門寺院での出来事を知ることによって、現代でも生かしうる貴重な教訓をくみとっていきましょう。過去の歴史とその事実は実は終わってはいないのです。それに向き合う一人ひとりの態度によって、新たな意味が創造される可能性に思いをいたして、本稿を閉じます。

 

【参考文献・資料一覧】
▽書籍
豊田市教育委員会 『豊田市戦時関係資料集 第3巻 図録・施設編』 1989年3月刊
望月紀子 『ダーチャと日本の強制収容所』 2015年3月刊 未来社
▽雑誌・論文
丸山豊 「天白村に抑留されていたイタリア人」 2017年4月刊 『あいち歴史教育』№19所収
橋本辰生 「緑区と戦争4 天白にあったイタリア人収容所」 2017年9月刊 『緑区の歴史を学ぼう会会報』所収
高澤光雄 「北海道で活躍したイタリアの登山家 フォスコ・マライーニ」 2017年11月刊 『日本山岳文化学会論集』第15号所収
丸山豊 「天白村から三河広済寺へ」2018年刊 『あいち歴史教育』№20所収
▽新聞
鬼頭直基 「大戦末期 抑留イタリア人一家と豊田住民との交流秘話」 2016年3月3日 新三河タイムス
小坂洋右 「消えた外国人 戦時の抑留1 抗議の小指 敵視政策 民間人まで」 2016年8月 北海道新聞
生津千里 「抑留イタリア人 石野で命拾い」 2018年8月24日 中日新聞
谷悠己 「イタリア人抑留 悪夢と友好」 2018年9月 中日新聞
▽ドキュメンタリー映像
ムージャ・マライーニ・メレヒ監督 「梅の木の俳句(邦題)」 2016年イタリア作品

(人権擁護推進本部記)

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