梅花のこころ~梅花流詠讃歌~ ─ 「高祖承陽大師道元禅師第一番御詠歌」(梅花)─

2019.09.04

毎月発行の『禅の友』では「梅花のこころ~梅花流詠讃歌~」と題しまして、梅花流詠讃歌の曲をもとに、解説や執筆者の想いなどを紹介しています。今月は梅花流特派師範、茨城県 泉福寺、小嶋弘道先生による、「高祖承陽大師道元禅師第一番御詠歌」のお話です。

荒磯あらいそなみよせぬ高岩たかいわ

かきもつくべきのりならばこそ

        高祖承陽大師道元禅師第一番御詠歌こうそじょうようだいしどうげんぜんじだいいちばんごえいか」(梅花) 

 

道元禅師の生きた時代は、今からおおよそ800年前の鎌倉時代です。
1244年、道元禅師が45歳のとき、鎌倉幕府の有力な御家人である波多野義重はたのよししげ氏の願いによって越前(福井県)に大仏寺を建立し、2年後に永平寺と改称され、道元禅師を開山とする修行道場が開かれました。
以来、道元禅師は1253年に54歳で遷化せんげされるまで、世俗と離れた永平寺で多くの修行僧を指導されました。ただ、その間において一度だけ永平寺を離れて鎌倉に向かわれます。これを鎌倉行化かまくらぎょうげといいます。道元禅師が到着される数カ月前の鎌倉では、幕府側の勢力と三浦氏一族との戦闘があり、三浦氏一門の武士たちは壮絶な死を遂げています。戦雲おさまらぬ鎌倉の人々の心の内は、さぞや殺伐としたものだったでしょう。
その時、鎌倉幕府の執権職にあった北条時頼に「仏法とはいかなるものか」と尋ねられ、道元禅師が答えて示されたのがこの和歌です。
「荒々しい波でさえも届かないような高い岩にも、海苔のりがあるように、どのような人にも仏法は必ず届くのです」と。戦乱の只中で翻弄される武士の心にも、仏さまの教えは必ず伝わるという道元禅師の思いが表されています。
現代の私たちも、胸を痛める様々な出来事に巡り会います。時代は変われども、道を求むる心があれば、必ず仏法が伝わることを道元禅師が教えてくださっています。

皆さまもどうぞご一緒にお唱えいたしましょう。

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