【人権フォーラム】「業」の教えと人権思想 第一回-曹洞宗における差別問題と「業」の教え-


社会的な現場での差別

「あの人たちはいなくなってほしい」とか「この種の集団は社会の害毒だ。徹底して排除しなければならない」、または「あんな人たちはそもそも存在する価値がない」などなど、排他的な標語や、攻撃的な言動が、世界中いたるところであふれています。

「あの人たち」「この種の集団」または「あんな人」で指示される対象は、ある民族や国民であったり、特定の性であったり、障害や特定の疾病を背負っている人々であったりします。

このような社会的な現場での差別は、その起源や状況はそれぞれ異なります。単なる区別や差異ということではない、忌避や排除等をともなうこの「差別」の本質とは何でしょうか?

このことについて、曹洞宗宗務庁発行の講本『現職研修』・『寺族研修』№39には次のようにあります。

差別の本質とは、差別される人やその集団の現実を顧慮せずに、またはそれに反しても、画一的な価値観にもとづいて、同等な人として生きていることの拒絶や現実無視において成りたちます。」
……〈中略〉……
社会的な現場ではたらいている差別は、人と人とを分け隔て、生きるに値する存在と値しない人や集団を分断する見えない壁です。(『現職研修』63・68頁)

誰がどう正当化しようと、差別してもよい合理的な理由や根拠などあろうはずがありません。

ある集団(必ずしも多数派ではない)が、ある属性や特徴をもった人々を恣意的にそして一律に、分け隔てし、ともに生きることを最初から拒否することが差別です。

この分け隔ては、昂じてしまうと、本来は存在しない障壁=生きる価値のある人たちとそうではない人とを恣意的に選別・分断し、最終的には絶滅や集団抹殺という行為にいたります。

講本の文言があまりにも端的であったためでしょうか、他の宗教教団の一部の人から疑義や反論が寄せられたこともありました。

さまざまな意見や疑問があることは認めますが、私たちが現場で向き合う差別とは、単に不平等で不利益な扱いを受けるということだけではなく、最終的には人類が犯してきたとてつもない凶行にまでつながっているという認識が必要ではないでしょうか。

要するにここでいう差別とは、見過ごし放置してしまうと、気がついたときには引き返すことも修復することも不可能な煩悩の炎となって、すべてを破壊してしまうということなのです。

差別を肯定的に説明する業の教え

仏教の長い歴史の中では、人と人とを恣意的に分断する差別行為とそれを正当化する思想がありました。残念ながら、現在でも完全には克服されているとは言い難い現実があります。

部落差別をはじめさまざまな差別をあたかも仏教の教えであるかのように説明してきた思想には、

①「業」の教え=業論

②仏性・本覚・如来蔵思想

などがあり、批判の対象になりました。

とくに②仏性・本覚・如来蔵思想については、1980年代後半から宗門の大学を拠点にして、多くの大学関係者や研究者が主張してきたことです。すべての現象を絶対肯定する思想が、差別自体も正当化してきたという論拠から、「如来蔵思想にもとづいた本覚思想は本質的に差別思想だ」と断定することもありました。

しかしながら、このような主張や学説はたしかに残っているものの、最近はあまりこれを継承し発展させる研究者は多くはありません。この主張をもって、学界や宗門の定説とするには、いささか根拠不足の観があります。

一方の①「業」の教え=業論については、曹洞宗の内外を問わず、昔から指摘されてきた問題です。全国水平社(1922《大正11》年創立)以降の部落解放運動から、「旃陀羅せんだら」(インドの被差別民)問題と並んで、さまざまな「業」の教えとその布教が、とくに部落差別を肯定的に説明してきたと糾弾を受けています。

現実の抑圧や排除を伴うさまざまな差別(疾病・障害・出自・性などにもとづく忌避・排除)を、過去世の悪業の報いとして教えることが、ゆくゆくは当事者にその過酷な現実をあきらめさせ、不当に忍従させる効果をもってきたというものです。

曹洞宗発行の業論関係資料一覧

曹洞宗がさまざまな差別事象や人権問題の取り組みにかかわる中で、差別的な文脈で説かれてきた「業」の教え=業論について、解説し報告してきた文書・書籍があります。

参考までに、未公開文書も含め、発行時期順でその一覧を列挙します。

①『「悪しき業論」克服のために』曹洞宗ブックレット宗教と差別7 曹洞宗人権擁護推進本部編 1987年初版(1986年報告書)138頁

② 『「修証義」布教のためのガイドブック』曹洞宗宗務庁(教化部)発行 1990年初版 211頁 ※68~90頁「業の思想」

③『修証義にきく』太田久紀著 曹洞宗宗務庁(出版部)発行 1990年初版 145頁  ※30~36頁「人知を超えた命の重み」

④『「業」について ―道元禅師の人間観と部落解放―』曹洞宗ブックレット宗教と差別9 曹洞宗人権擁護推進本部編 1993年初版(1988年報告書)138頁 

⑤ 『曹洞宗人権擁護推進本部紀要』第二號「『曹洞宗全書』点検作業に関する中間報告」 曹洞宗人権擁護推進本部編 2001年初版 252頁  ※126~139頁 

⑥『曹洞宗人権学習基礎テキスト』これだけは知っておきたいQ&A 曹洞宗人権擁護推進本部編 2002年初版 319頁 ※ 224~230頁「49『悪しき業論』について教えてください」

⑦『続 修証義十二か月』水野弥穂子著 曹洞宗宗務庁(出版部)発行 2002年初版 158頁 ※29~69頁「因果道理~三時業」

⑧『伝光録』宗典編纂委員会編 曹洞宗宗務庁(出版部)発行 2005年初版 379頁  ※316~328頁「補注「業」 「因果」「輪廻」について」

⑨ 「『大本山總持寺伝道掲示板問題』第2回報告書追加報告文書」(未公開)曹洞宗 2007年提出 8頁 ※4~5頁「業思想に見る人間観と社会観」

⑩ 「『大本山總持寺伝道掲示板問題』最終確認文書 業の象徴を共に担う」(未公開)曹洞宗 2008年提出 8頁 ※4~5頁「四、仏教の業思想―不共業と共業―」

「業」の教え=業論についての先入観

「業」の教えが、部落差別や障害者差別等とも密接にかかわっていた歴史への反省から、「業」の教えは難しいとか、説いていいものなのかといった戸惑いがあることは事実です。

かつては、現場の宗門布教の法話などの主題としては、「業」の教えをなるべく扱わないようにというような雰囲気がありました。これは、ご本山や曹洞宗宗務庁からの指導や方針ということではなく、当時の「業」にまつわる説教や布教教化のほとんどが差別的な文脈をなぞるかのような説き方でし たので、ある種の自重や自主規制のような動きが形成されてしまったものと思われます。

「業」の教え=業論は説きづらいというためらいや、それに起因するいくつかの先入観や意見があります。

第一の意見は、「仏教の業論は過去世の報いとして現在世の状況を説明する差別思想だ。よって人権思想によって立つ仏教者には禁止されるべきである」というものです。

仏教の思想と実践は、釈尊の時代から「業」の教えを前提とします。業の教えがさまざまな差別とかかわってきたからといって、これをすべて差別として全否定することは、仏教そのものの拒否ということにもなります。

第二の意見は、「仏教の業論自体が差別思想ということではないが、宗門ないし、学界が統一見解を出すまで、その使用は自重すべきだ」という慎重論です。たしかに一理はあるでしょうが、いつ、だれの責任で大方の納得する「業」の教え=業論が出るのでしょうか? それまで「業」の教えに触れてはいけないというのは不合理です。

第三は「仏教の業論というのは在家信者に対しての勧善懲悪論で、程度の低い教えだ」という先入観です。縁起・無我・無常の教えは出家分上の教えで、それに較べれば、「業」の教えなどは程度が低いということです。これも実際の経典の事例からは証明ができません。

第四は「過去世からの業を説く通俗的で後ろ向きの業論はやめて現在世限りの主体的・実存的な業論を説けば問題ない」という意見です。このような見解は、とりあえずの問題を回避することにはなりますが、はたしてそんな「業」の教えが実在したのでしょうか? さらに、両祖が示された三時業は、現世・来世・来世以降に通じる「業」の教え=業論なのですから、そもそも現在世だけの実存的な業の受けとめというのも理解できません。

このような問題点を考慮して、原点に立ちかえって「業」の教え=業論を再考してみたいと思います。

(以下続稿)人権擁護推進本部記


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