【人権フォーラム】「業」の教えと人権思想 第2回-「業」の教えとは何か?-


「業」とは何か?

仏教では「業」という文字を「ごう」「ごっ」と読みます。「業報ごっぽう」とか「業縁ごうえん」「業障ごっしょう」「業病ごうびょう」「宿業しゅくごう」などなど、「業」を含む用語はたくさんあります。

そこで「業」の意味を手元の仏教語辞典で引いてみますと、いずれもその意味するところは複雑多岐にわたり、簡単に「業とは○○という意味」と定義できないことが分かります。

比較的多くの方が利用されている中村元編『佛教語大辞典』縮刷版(東京書籍1981年)では、「業」の基本的語義だけでも、8つを上げたうえで、[解説]の項では、

業の本来の意味は、単に行為をいうが、因果関係と結合して、前々から存続してはたらく一種の力とみなされた。つまり一つの行為は、必ず善悪・苦楽の果報をもたらすということで、ここに業による輪廻(転生)思想が生まれ、業が前世から来世にまで引きのばされて説かれるにいたる…後略…

と説明されています。また『岩波仏教辞典』(岩波書店1989年)では、

[s:karman]サンスクリット原語の基本的意味は、〈なすこと〉〈なすもの〉〈なす力〉などで、〈作用〉〈行為〉〈祭祀さいし〉などを表す語としてインド思想一般で広く用いられ、特に輪廻説と結びついてからは、輪廻転生をあらしめる一種の力として、前々から存在して働く潜在的な〈行為の余力〉を積極的に示すようになった。 …後略…

と出ています。

業(karma,karman)は、古代インドで成立した言葉ですが、インドでは数千年、仏教に限っても2500年以上にもわたり、様々な意味と文脈で使用されてきましたので、体系的に整理することは難しい概念です。

一口に「仏教の業論」と言っても、インド・アジア全域・中国・朝鮮そして日本と、時代的にも空間的にも多様な展開がありますから、どこの時代のどこの地域の「業」の教えかによって、その様相も大きく変わります。

 

「業」の教えとは何か?

「業」の教えは多種多様とはいいながらも、「業」の教え=業論であるかぎりは、共通な考え方や視点はあるはずです。ここでは仮に、

「業論とは、人間存在における業=行為とその結果や影響について、何らかの積極的意義を認める教説・思想のことである」と定義してみましょう。

初期仏教の阿含あごん教説に「比丘びく等よ、およそ過去世において応供おうぐ正等覚者しょとうかくであった世尊は、業論者(kammavāda)、業果論者(kiriya-vāda)、精進論者(viriya-vāda)であった」(パーリ経典・増支部三・一三五)とあります。業(行為)とその結果・影響および自由意志による精進=努力の重要さを述べています。

また、この阿含教説には、業論が成り立つための3つの要素や前提条件が述べられています。

1  業=行為そのもの しんの三業 または思業・思已業の二業

2  業=行為の結果・影響 転じて行為主体の状態・境遇

3  業=行為の動機・意志 業の動機・原因となる意識の問題

これら3つは、後世の業論展開の基本要素となり、どれを強調するのかによって、異なった業論が展開されていきます。

初期仏教の経典等では、生前の行為によって死後、異なった来世がもたらされるという業報輪廻とは別に、①現在の善悪の行いが、今ここに在る「私」という行為者の性格、さらには人格のあり方を形づくり、②さらに業=行為が、同時に行為主体をも限定していくことを教えています。日常の業=行為とその習慣がおのれ自身に影響をおよぼすということなのです。

何かをすることも、しないことも、その人の自由意志ですが、その行為・不作為ということが、何らかの影響をおよぼします。善き行為の習慣は、苦楽の結果にかかわらず、善の徳を重ねることになりますし、逆に悪しき行為の継続は、それにまつわる様々な結果や作用を発生させることになります。

例えば、嘘をついて他者をだますことに慣れてしまうと、嘘の習性が身についてきます。一時期は得しても、長い目で見ると、結局は誰にも相手にされなくなります。

 

「業」の教え=業論を否定する思想

「業」の教えとは、「人間存在における業=行為とその結果や影響について、何らかの積極的意義を認める教説・思想」(前掲仮説)ですが、これを否定したり、積極的には採用しない教説や思想があります。

業を否定する考えは、仏教外の宗教や哲学思想(外道げどう)にも、仏教内部の思想(内道ないどう)にも存在します。 

業=行為とその結果・影響について異なる考えの主張としては、すべての出来事はあらかじめ過去の宿業や神意によって、決定されていると見る運命論・宿命論・神意論や、行為とその結果にはなんらの関係性も認めないという、無因無果論や偶然説があります。これらとは明らかに異なる考え方が仏教の「業」の教えになります。

さて、仏教内部にも、人間の行為とその影響・結果ならびに意志の大切さを説いている「業」の教えとは異質な考え方も存在します。『正法眼蔵』ではこのような異解を「邪見」として批判します。『正法眼蔵』「三時業」巻の中の有名な一節に、

仏法の批判、もともかくのごとく祖師の所判のごとく、習学すべし。いまのよに、因果をしらず、業報をあきらめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見のともがらには群すべからず。

とあり、業報の因果・三世・善悪を否定する邪見に陥った仏教者を非難しています。このような傾向は、外道だけではなく、内道=仏教の内部にもある考え方なのです。仏教とそれ以外の宗教・思想とを区別する重要な指標は、その説相の違いだけではなく、この「業」の教えを尊重するか否かという点にあります。「邪見」とは、そもそも因果・業報・三世・善悪を認めようとしないことで、これが仏教そのものを否定することなのです。

 

「業」の教えは仏教の基礎

仏教とは、教理だけに限っても、非常に多くの意味合いを含んでいます。仏教(覚者の教え)、仏法(覚者が見出だした真理)そして仏道(覚者に成る実践)などの総称といえます。

これらの仏教の教理も、その要諦は「業」の教え=業論にあるといえます。より正確に述べれば、縁起や四諦八正道をはじめとしたいわゆる「八万四千法門」とも呼ばれている仏教の教義の多様性も、「業」の教え=業論という前提において成り立ちます。「業」の教えの根拠がなければ、仏教の教え、真理とその実践道も成り立たたないとも解釈できます。

そのような意味において、「業」の教え=業論とは仏教の教義の一部分ではなく、その全領域に関わる基本教理であると理解すべきでしょう。

 

同時の因果と異時の因果

「業」の教え=業論を学ぶ際に、同じ業のことであるにもかかわらず、混同されやすい事柄があります。 

それは同時の(業の)因果なのか、異時の(業の)因果のことなのかという問題です。

普通、業の因果応報とか業報とかいうときには、行為をなした時とそれの結果や影響を受ける時は異なっているとされます。過去の業の結果を現在に受けるとか、現在の行為が未来に影響を及ぼすとかはこれに当たります。

これを仏教の術語では、「異熟いじゅく」(異時に熟す・異類に熟す)の業といいます。後述の三時業などは、この異時の業の因果に相当します。

さて、前者の同時の(業の)因果の例としては、次の経典の一節がよく知られています。

生まれによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為〈業〉によって〈バラモン〉なのである。行為〈業〉によって〈バラモンならざる者〉なのである。〈六五〇偈〉  (中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店 1984年刊)

この経典の一節について、約30年前の曹洞宗人権擁護推進本部の見解によれば「業存在としての社会階層の否定および職業=業の果の全的な否定には至っていない」と批判し、さらには「行為によってバラモンなのであるということが成立するならば、行為によって不可触民となるということが成立」してしまうと結論づけています。(出典: 『業について―道元禅師の人間観と部落解放―』 44頁 1993年) この解釈は経典の文脈を正確に評価しているでしょうか。そもそも「社会階層の否定」とか「職業の全的な否定」などというようなことは、「平等」を想定しての主張でしょうが、経典解釈として議論の余地があると思います。

『スッタニパータ』のこれらの言葉について、当時は生まれ・出自によって決定されるとした〈バラモン〉または〈バラモンならざる者〉の区別は、日々の行為・生活の積み重ね=業のみに拠って名づけられると価値観を転換しています。生まれ・出自そしてカーストといった指標ではなく、その人の日常の行いを問うべきだという大転換です。現在の業=行為・生活が、同時にその人の人格や徳を形成していくという風に素直に理解すべきでしょう。

これが異時の業の因果に対して、同時の業の因果ということです。

以下続稿、人権擁護推進本部記


~人権フォーラム バックナンバー~