【人権フォーラム】ハンセン病への差別・偏見をなくすために~①隔離政策と仏教者が加担した過ち~


はじめに

治療薬プロミンの注射(1947年)

2019年(令和元年)6月28日、ハンセン病元患者の家族への差別に対する国の責任を認めた熊本地裁の判決が確定し、ハンセン病元患者やその家族に対する補償金の支給等に関する法律と、元患者の名誉回復を図るため、ハンセン病問題の解決の促進に関する法律が施行され、本年11月で1年を迎えます。

そこで、改めてハンセン病とは何か、その歴史、国の隔離政策や仏教者が加担してきた過ちなどを考えてみます。

 

ハンセン病とは

かつては「らい(癩)病」と呼ばれていましたが、1873年(明治6年)に「らい菌」を発見したノルウェーの医師・アルマウェル・ハンセン氏の名前をとって、「ハンセン病」と呼ばれています。ハンセン病は「らい菌」に感染する事で起こる病気です。早期に適切な治療を行わないと、手足などの抹消神経に障害が起き、汗が出なくなったり、痛い、熱い、冷たいといった感覚がなくなることがあります。感染すると手足などのけがや火傷に気付くことができず、その結果皮膚に様々な後遺症が残ったりします。また、体の一部が変形するといった後遺症が残ることもありました。

しかし、「らい菌」は感染力が弱く、非常にうつりにくい病気です。発病には個人の免疫力や衛生状態、栄養事情などが関係しますが、たとえ感染しても、発病することは極めてまれです。現在の国内の衛生状態や医療状況、生活環境を考えると、「らい菌」に感染しても、ハンセン病になることはほとんどありません。

(参考)日本人新規患者数:2017年1人、2018年0人、2019年0人:国立感染症研究所HPより引用

もしもハンセン病を発症したとしても、早期に一定期間の外来での内服治療により、完治できます。

 

ハンセン病の歴史

ハンセン病は、古くは『日本書紀』『今昔物語集』等に記述があります。当時適切な治療法がなく、顔や手足が後遺症等で容姿が変わったりすることや原因・感染経路が不明なこともあり、「業病」「天刑病」などと呼ばれており、世俗化した仏教教説が差別的偏見を助長していました。(後述)

近世になりハンセン病が遺伝すると誤解されたのは、健康な状態の大人には接触しても極めて感染しにくく、濃厚接触が多い家族が感染したためです。そのような迷信や偏見がもととなって、患者は社会から隔離禁足された生活を余儀なくされるか、「浮浪らい」と呼ばれ、家族と離れて各地を「乞食」巡礼する人や、寺社仏閣の傍らでの生活を強いられたりしました。

この病気の治療法が分からなかった時代には、「不治の病」「遺伝病」として恐れられ、なおかつ「らい病」「らい」という病名に対し、「恐ろしい」「忌まわしい」という偏見がつきまといました。

 

ハンセン病における隔離政策とは

近代・明治期になると先進国でハンセン病が治まりつつあることから、「日本にハンセン病患者がいることは国辱である」と考えられ始めました。

政府は隔離政策を段階的に強化し、1907年(明治40年)法律第11号「癩予防ニ関スル件」に始まり、全国に5ヵ所の公立療養所を設け、寺社仏閣などに浮浪する者のうちハンセン病患者のみ収容をはじめ、さらに「コレラなみの恐ろしい伝染病」であると国民に宣伝して世論を巻き込んでいきました。

当初は、「浮浪らい」と呼ばれる患者が施設へ収容されました。やがて自宅で療養する患者も強制収容されるようになります。ハンセン病と診断されると、市町村や療養所の職員、医師らが警察官を伴ってたびたび患者のもとを訪れました。そのうち近所に知られるようになり、家族も偏見や差別の対象とされることがあったため、自ら療養所に行くより仕方ない状況に追い込まれていったのです。

昭和初期の患者収容の様子

1916年(大正5年)には、「癩予防ニ関スル件」が改正され、療養所所長に「懲戒検束権」という監禁・減食などの処罰権限を与え、1931(昭和6年)には、 すべての患者の隔離を目指した「癩予防法」が成立し、全患者の検診・消毒・連行が規定され、各地に療養所が建設されたのです。

このような状況のもと、一人残らず施設に収容すべしという「無癩県運動」が全国で行われました。市民は無批判に加担・協力し、患者を見つけ次第、警察や保健所に密告していったのです。収容する際には家の周りに荒縄を張り巡らし、家屋に土足で踏み込んで、患者がいた場所、触った物、通った道、子どもがいれば学校なども、「真っ白になるくらいに」消毒されたため、その光景を目にした人々、伝え聞いた者に「恐ろしい伝染病」というイメージを植え付け、それが偏見や差別を助長していきました。

また、収容された療養所では、重症者の看護、眼や手足の不自由な人の介護、そして食事運搬や土工・木工、さらには亡くなった僚友の火葬までも、入所者に強制的にやらせたのです。また、療養所内での結婚の条件として、堕胎や子供が産めなくなる断種手術などが強制されました。療養所内では、優生思想のもと命を育むことさえ許されなかったのです。

こうした措置に不満をもらせば、次々と「懲戒検束権」をもって監禁所に入れられました。なかでも、群馬県草津にある栗生楽泉園には全国のハンセン病患者を対象とした「特別病室」という名の重監房があり、零下20度にもなる極寒の環境下で食事もろくに与えられず、たくさんの人が亡くなったのです。

つまり、ハンセン病患者は療養所に収容されると、終生そこから出ることが出来なかったのです。

さらに、1953(昭和28)年に強制隔離や外出制限等を踏襲した「らい予防法」が制定され、この法律が廃止される1996(平成8)年までハンセン病患者や元患者、その家族などの多くの人生を奪いました。

 

仏教とハンセン病差別

これまで、過去に僧侶が一般に説いてきた法話の中には、ハンセン病を現世で最も重く治し難い病、「業病」と呼び、前世の悪業の報いによって病にかかったと述べたものがありました。また、恣意的に「正当化」する論理説明をしてきた経典などもあります。その表現は様々ありますが、それらの要点をまとめれば、患者の方々に「過去世に悪業をしたあなたが悪いのだから、現状を甘んじて受け入れなさい」といい、その他の人々に「癩病にかかりたくなければ悪いことをしてはいけない。信心せよ」と話していたのです。

曹洞宗では、こういった言説を「悪しき業論」と位置づけ、再び繰り返すことのないよう学習を続けて来ました。しかし、業論そのものは仏教の前提であり、その理解は難解でもあります。詳しくは『曹洞宗報』2020年1、3、5月号 人権フォーラム「『業』」の教えと人権思想」にあります。

 次回の人権フォーラムでは、ハンセン病を恐ろしい業病とし、恐怖を植え付けてきた仏教の誤った解釈・理解と宗門の取り組みを見ていきます。

人権擁護推進本部 記

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