【International】「ZEN class のグローバル禅へのアプローチと可能性を探りつつ」

2021.03.02
ZEN classの坐禅

2018年の1月のことでした。当時ヨーロッパ国際布教総監であった佐々木悠嶂師と庶務担当の輝元泰文師が一時帰国され、3人でお会いしました。その際、当時、外国人向けの英語坐禅会「ZEN class」の講師を務めていた藤田一照国際センター所長が辞任するという話になり、「法純さん、一度ZEN classの講師をやってみないか」と軽い気持ちで頼まれました。私は同じような軽い気持ちで「いいですよ」と答えました。それから今年で4年目になります。振り返ると、あっという間でした。

その3年間は大変貴重なレッスンでした。約20年間の英語教師の経験がある私は、人前で話すことに何の問題もありませんが、ZEN classはライブ配信で行われると聞いて流石に驚きました。フェイスブックを通して、世界中に放送されると言われたら、心の中にためらいが生まれました。最初の坐禅会会場で、2メートルほど離れているカメラを見た瞬間、手汗でびっしょりだったことを今でも覚えています。

「I`m watching you (和訳:見ているぞ)」という音がカメラから流れてきたような気がしました。自分が使っている英語(母語ではない)に自信をなくし、一つ一つの言葉に気をつけて話そうとしました。最初こそ緊張していましたが、その後は慣れてきて、毎回楽しいという印象しかありません。

しかし、楽しさは一面であり、もう一面が残りました。それは責任を持つということです。ここはやはり、講師としての戦法、いや、禅法の必要性が見えてきました。

最初は、当然、誰が参加するのか、何人なのか、どういう背景の人なのかなど、何も知らなかったので、参加者に向けて話をして、その上でZEN classを行うことにしました。しかし、問題はいくつもありました。まず、参加者が毎回ほとんど違いますし、また、特に仏道あるいは禅に興味があるのではなく、むしろリラックスしたい、日本の禅の雰囲気を味わいたい(日本で滞在していた思い出の土産として自分の国に持って帰りたい)などの参加者が多いとすぐに判りました。それはそれでいいと思いました。私の考えとしては布教するというより、誘う、あるいはインスパイアすることです。

次のハードルは、生配信された動画がフェイスブックに掲載されるので、毎回同じことを言うわけにはいきません。なので、やり方としては、仏教の難しく、抽象的な言葉を使わずに同じことを違う面から取り上げることにしました。禅というモノを紹介するのではなく、ZENということで進んで行きました。

ZEN classに参加する人は、当然外国人もいれば日本人もいます。外国人には観光客や滞在者が多いですが、日本人は、まず英語で禅を学びたいという方、あるいはお寺で日本語の講話を話す和尚さんが何を言っているのかさっぱり分からないが、英語の方が心に入りやすいという方もよく参加しています。

経行

私の前任者であった藤田一照師の著書の中に「自分は昔、日本人としては漢文と日本語から仏道に入ろうとしましたが、非常に難しかった。しかし、欧米に行ったら、全ては英語で書かれていて、分かりやすかった」ということが書かれていたことを思い出します。

私には、どちらかというと、逆でした。英語で書かれた仏教がどうもピンと来ませんでした。言葉が多すぎるというか、文章が長く、仏教のエッセンスというよりも著者の考えを優先しているような印象を受けました。日本語では一つの漢字でも、深い意味があることに気付いた瞬間、新鮮な気持ちでした。ZEN classに参加する日本人もそうだろうとよく分かります。

六祖慧能禅師が新州の郷里に帰るとき、一人の弟子に「いつお戻りになりますでしょうか」と尋ねられて「葉落ちて根に帰る」と答えました。禅はインドのdhyāna(ディヤーナ)から出発し、中国の禪を通って日本の禅にたどり着きました。インドでは仏教が終わって、中国の明の時代に禅も衰退に向かい、それ以来再び盛り返すことはありませんでした。禅は中国においてすでに使命を終えたと言えましょう。

今日の日本人も、禅を自ら卒業した、と言われていますが、しかし、これからこそがZENの開幕となるでしょう。ZENは、新たな展開を示すしかありません。道元禅師も帰国し、独自の仏法を展開しましたが、それは宋朝禅とまったく違うアプローチでした。しかし同時に、インドの禅であれ、中国の禅であれ、日本の禅であれ、今のZENであっても、それぞれの形は違いますが、慧能禅師の「葉落ちて根に帰る」という言葉は、非常に楽観的なメッセージを私たちに送ります。根は地中にあって外に見えないけれど、繁茂のエネルギーはここから出ていくということです。つまり、それぞれの時代が終わって、螺旋的に進歩するのではなく、あくまでも、円環の原理に基づいて進むのです。

諷経

そういった円環的なアプローチをとる禅はいつも、「本当の自己は何か」と問い続けます。禅は本当の自己との対話であると言えましょう。自分の上に何か付けたり、飾るのではなく、すべての形を捨て、裸になるのが禅のアプローチでしょう。これこそが仏道の出発点であり、終点でもあります。

私はよくZEN classでは、「学校も仏道も、目指しているのは人の成長で、大人になることです。だが、一つ大きく違います。それは、学校では他人と比べますが、仏道では『昨日のまでの自分』と比べることです。」とお話しします。道元禅師の言葉で言うと、「仏道をならふといふは、自己をならふなり」と。相手に頼んで、問わせてもらう方が楽ですし、痛くないのですが、そこまで来ると、禅はもう死んでしまいます。それだけ探求しながら進めば、いつも自分自身に戻ります。日々新面あるべし。そして、グローバルマインドがあって、その上でZENマインドがあるというわけでなく、グローバルマインドこそがZENマインドなのだと、よく分かるのではないでしょうか。 毎回のZEN classのとき、新面を失わないようにしようというのが私の願いです。

皆さん、ZEN classへようこそ! 

合掌
東京都 桐ケ谷寺 徒弟 ヨーロッパ国際布教師 シュプナル法純

 

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