北アメリカ国際布教100周年連載企画~北アメリカ曹洞禅のこれまでの100年とこれからの100年~ 第5回 禅と出会い

2022.05.23

私の禅との出会いとこれまでの研鑽の経験についてご興味を持っていただき、このように本文を読んでいただけますこと光栄に思います。

モスコー大信師(筆者)

私はコロラド州ボルダー市の白梅寺で国際布教を務めながら、庭園の設計やデザイナーとしても活動しており、現在、プエルトリコ、サンタフェ、ニューメキシコ、コロラド州ボルダーでプロジェクトを進めております。

1969年、サンフランシスコで鈴木俊隆師と坐禅をし、多くのことを学ぶ機会をいただきました。鈴木俊隆師が遷化された後、他の弟子の多くと共に、生前に彼と親交があったチベット仏教の僧侶、チョギャム・トゥルンパ師の下で学び始めました。

そして、1974年、トゥルンパ師を通して乙川弘文師と出会います。乙川弘文師と出会ったとき、それはあたかも混沌の世界で生き別れ、長年離れ離れになっていた兄弟が偶然に出会ったかの如く、瞬間的に互いを認め合い、受け入れていました。禅の行法や所作は奥深く、私欲がなく、優しく、洞察に満ちたものでした。それらは、すべての一挙手一投足によって周りに伝播されていきました。

法戦式(筆者:右)

そして、乙川弘文師は私に「白梅大信」という名をくださり、自身が生まれ育った、新潟県の定光寺を紹介してくださいました。当時は、実兄である乙川敬文師が住職を務められていました。その後、私は1987年、定光寺で立身するのですが、法戦式のために、方丈さま自ら英語のものを日本語に、日本語のものを英語に翻訳をしてくださいました。また、何週間にも渡って法式に明るい諸老師方に進退習儀にお付き合いただきました。法戦式当日には30名程の僧侶が随喜されたと思いますが、問答では多くの僧侶が「アメリカに真の禅を伝えることはどのようにしたら可能なのか」と尋ねました。当時は若く純粋でしたので、自信を持って答えていましたが、今もう一度同じ問答をすることとなったら、どうなることかと考えてしまいます。

1999年、乙川弘文老師はコロラド州に白梅寺を開かれます。そして、2002年に弘文師は遷化され、私が後継者となることとなりました。

白梅寺は、定光寺とは所謂姉妹寺院のような関係であり、乙川敬文師からは、創立時から様々なかたちで多大なるお力添えをいただきました。乙川敬文師が遷化された今なお、白梅寺に対しては定光寺現住職さまより多大な援助をいただき、岡山県の洞松寺が宗立専門僧堂として日本人僧侶と外国の僧侶の双方に僧堂安居のために門戸を開いていることから、安居のために来日することを勧めてくださいました。

洞松寺での安居時 鈴木聖道堂長老師と

洞松寺に上山時には、齢75歳で健康面でも万全とは言えませんでした。日々の修行は厳しく、また行持についていくことが困難なときもありました。多くの安居者は、寺院の住職になるなど何らかの資格を得るために安居している中、「なぜあなたはここに来たのか」という問いかけに対して、「死に方を学ぶためにここに来た」と私が答えると、驚かれたことを覚えています。しかしながら、堂長老師による思慮深い指導のおかげで、僧堂安居を無事に終えることができました。

白梅寺では、毎日の勤行、参禅会、摂心などが、小規模ながらも温かい雰囲気の中で行われています。このような、親しみやすさや温かみといった性質を失うことなく、できる範囲で安居期間を設けていきたいと考えています。

乙川弘文師の遺影の前で

何よりもまず、道を求める人々が、気づきや悟りに触れるための機会を提供していくことができたらと願っております。庭園、芸術、建築、所作、そして教えにおいて、真の仏法を体現していくことを志してまいります。

曹洞禅は北アメリカにおいて1世紀もの間、日本や北アメリカの多くの指導者によって果てしない努力を利他的に実践しながら護持され、興隆してきました。

道元禅師、瑩山禅師ら祖師方によって伝えられてきた教えは、今尚、私たちの生活に大きな意味と重要性をもっております。このみ教えが生き続けるための一助となれることを目標とし、努めてまいりたいと思っております。

ロケットが発射する最初の段階では、多くのエネルギーを要し、グラグラと揺らぎがちだが、第2段階では、地球からの引力もほとんど働くことなく、はるかに少ないエネルギーで軌道に乗ることができる。

これは乙川敬文師の言葉です。まさに北アメリカの曹洞禅は第2段階に突入したと言えるでしょう。

コロラド州白梅寺より、私ども僧伽一同、北アメリカ国際布教100周年のお祝いを申し上げます。

白梅寺の行持
自身がデザインした白梅寺の庭園

コロラド州ボルダー 白梅寺国際布教師 モスコー大信