梅花流詠讃歌【諸行無常のひびき】⑨

2023.09.04

告げられて顔より汗の噴きいづとおもふそれより動悸どうきしてをり

助からぬ病と知りしひと夜経てわれよりも妻の十年ととせ老いたり

学校にもやれぬ貧窮の母子家庭いたきかな想像の死後におよぶは

先月紹介した上田うえだ三四二みよじの歌です。「五月二十一日以後」という連作の中にあり、おのれの病気を知り動どう顛てんする心情の伝わってくる歌です。一首目は、自分の病名を知った時の驚きと恐怖を歌ったもので、顔から汗が吹き出したと思った瞬間、激しい動悸に襲われたという作品です。二首目、「十年老いたり」には、夫の病気を知った妻の痛々しさがあり、次の歌では自分がいなくなった後の家族に思いが及んでいます。死という現実を目の前にして、普段の心境とは異なる様子が伝わってきます。そんな歌に紛れて次の一首があります。

死はそこにあらひがたくたつゆゑに生きてゐる一日ひとひ一日はいづみ 

自分の死を受け止めた人の、時間に対する特別な思いが歌われています。「死はそこに抗ひがたくたつゆゑに」は大袈裟な言い回しですが、医師である上田にすれば、私たちが感じる以上に死が身近にあったことは容易に想像出来ます。死を目の前にして、いくら抗おうとしてもどうすることも出来ない絶望感の向こう側の命の尊さに目が向けられています。生かされている一日一日は、清らかに湧き出る泉のようなものであるという感じ方は、以前紹介した道元禅師の「世の中は何にたとへん水鳥の嘴振る露にやどる月影」の歌に通じるものがあります。

上田の「一日一日はいづみ」には、死を自覚した者の時間への愛惜があります。道元禅師の歌は、他者への呼びかけであり、上田の歌は自分への呼びかけですが、どちらにも、一日一日を大切に暮らしてゆこう、大切に暮らしてゆきたい、という思いが溢れています。

 秋田県禅林寺 住職 山中律雄