梅花流詠讃歌【諸行無常のひびき】⑬

2024.01.12

私は短歌を作ります。大げさに思うかも知れませんが、短歌は私の人生そのものです。時間や人、あるいは自分のまわりを取り巻くものを愛惜あいせきする心に基づいて、命短く移ろうものの行方に心を寄せる。一回限りの自分の人生を時の流れのままに押しやるのではなく、常に新しいものの訪れとして受け止め、そして迎えるという喜びがあります。

花には花の、風には風の、海には海の声があります。短歌を作っていると、ふとした瞬間にそうしたものの声が聞こえてくることがあり、今を生きている喜びと幸せを実感します。

ここ10年ほどの間に、私は身近で大切な人たちを失ってきました。両親、叔父や叔母、或いは従兄弟いとこといった血縁の人や、親しい友人などです。それは自らの年齢のもたらすことであり、人は元々「死への存在」として避けることの出来ない運命を背負っていますから、いつ何時なんどき、命を奪い取られたとしても決して怪しむには足りません。しかし、私たちの日々の関わりは深く、そして篤く結ばれています。あの人この人を偲んで、私の嘆きはいやさらに深いものがあります。

昨日きのうありしは今日きょうゆめうつつにゆるみ姿すがた
こころのなかのかげにしてわせるこそまことなる

追善供養御和讃ついぜんくようごわさん」の二番の歌詞です。すでにこの世を去った人を思い浮かべ、その面影に手を合わせる自分の姿が歌われています。身近な人の死を通して学ぶことはたくさんあります。死は亡くなった人の遺言と言っていいのかも知れません。死の意味を正しく受け止め、自分の生き方に反映させることが出来るのであれば、亡き人に対する何よりの供養とも言えましょう。

人生は均等な速度をもった時間の流れではなく、徐々に加速度を得て落下する物体のようなものです。何歳になっても人生はやり直せますが、自分にどれだけの時間が残されているのかは分かりません。先ずは「今」を一生懸命に生きることが大切です。

秋田県禅林寺 住職 山中律雄