【人権フォーラム】第38回人権啓発研究集会参加報告

2024.03.12

2024年2月1日から2日にかけて京都市勧業館「みやこめっせ」で第38回人権啓発研究集会(主催:部落解放・人権研究所)が開催されました。この集会の中で「宗教と人権」について、久保井賢丈師(曹洞宗人権教育啓発相談員、曹洞宗総合研究センター講師)による講演がありました。

講演する久保井賢丈師

久保井師は2日の分科会にて「宗教者と部落差別問題~曹洞宗の取り組みを通して」と題し、曹洞宗、さらには宗教界全体が部落解放運動と関わっていく「始まり」とされる世界宗教者平和会議での差別発言事件などを中心に、今日に至る課題について話されました。

講演は「第3回世界宗教者平和会議差別発言事件」が、いつ、どこで何が起こったのか、からはじまりました。

最終日、宣言文作成のための報告書作成の検討会議で、まとめに入ったところ、インドの代表から「日本にはインドのアンタッチャブルに似ている問題として、部落問題がありますよね」という指摘があり、このことも報告書に記載すべきではないかとの提言が出されました。

インドにはカースト制度という宗教的な背景を持つ身分制度があり、この一番下位、というか、実際はその中にも入っていない人たちのことを「不可触民(アンタッチャブル)」、「ダリット」、アウトカーストなどといいます。インドは憲法上ではカースト制による差別の禁止をうたっており、建前では廃止・解消されたことになっていましたが、現存している差別問題です。部落差別問題もまた、江戸期の封建制度の中で強化され、更に明治政府によって「解放令」が出されたにも関わらず、実際には具体的な政策は何も行われず、根深い差別が残されました。

そこで、日本の宗教者に意見を求めたところ、発言当事者は「日本の部落問題というのは、今はありません。ただ、この部落問題、部落解放ということを理由にして、何か騒ごうとしている一部の人たちがいるだけで、部落差別問題は日本にはない。そうしたことは実際に現実としてないので、そんなことを書かれたら『日本の名誉』に関わる。報告書には載せないで欲しい」という主旨のことを再三にわたり発言し、報告書記載への抵抗を唱えました。

さらには、この発言の背中を押すように、会議に参加していた他の日本の宗教者からも大きな拍手を送られたと記録されています。

その執拗な反論を受けて、結果的に、最終日に行われる宣言文作成のために使われる報告書にあった「部落の人々」という文言は削除されてしまいます。

これは部落差別を被るすべての人々を社会的に排除しようとする発言です。

この事件は80年代初頭に仏教界だけでなく、国内の全宗教界にも大きな衝撃を与えることになり、曹洞宗をはじめ仏教教団、宗教教団が部落差別問題をはじめとした様々な差別問題に取り組む契機となりました。

さらに、この発言についての確認糾弾会では、この発言だけでなく、曹洞宗教団が内包していた差別事象についても指摘があり、そこから浮き彫りになった宗門の課題についても次のように触れられています。

この事件が明るみになり、以降、この問題について議論する中で、発言当事者個人の問題だけでなく、教団そのものが内包していた問題が、大きく3つ、指摘されました。

1つ目が「差別戒名」の存在、また、その差別戒名の付与の仕方や差別的な儀礼をおこなうように指示した本の存在ということがありました。これが2つ目の「差別図書」の問題です。さらには3つ目が「部落差別などを目的とした身元調査に加担している僧侶がいる」ということでありました。

また、現在の取り組みとして次のように話されました。

「差別戒名」については、戒名そのものを付け直し、かつての墓石は廃棄するのではなく合祀をし、あらためて供養をする。また「過去帳」に記載された「差別戒名」も同様に戒名そのものを付け直し、かつての「過去帳」は回収させていただき、当該寺院に「過去帳」の書き直しを進めさせていただいています。

そして、身元調査については、①人権や秘密にかかわる調査は一切拒否、②「過去帳」等の(住職以外の)閲覧は全て禁止、③古い「過去帳」については厳封保管の徹底につとめております。

最後にまとめとして、次のように話されました。

そうした取り組みが進められる中でも、それ以降も残念ながら身元調査に関わる問題や過去帳の開示、差別発言事件は何回も起っております。

今回、こうした場でお話をさせていただくにあたり、あらためて気が付かされたことは、1979年の「第3回世界宗教者平和会議差別発言事件」においても、その問題の本質はといえば、それは「宗教者の社会性」ということを考えたときに「どうかと思う」ということです。つまり、宗教者の社会性の欠如こそが、この事件を引き起こした最大の原因であり、問われたことの本質であるということです。宗教者の人権意識の希薄さこそが繰り返し、強く指摘されたところなんだと感じました。

以前、ある先生に「部落問題が解決できたら、ほとんど世の中の人権問題は解決できるんだよ」と教えていただいたことがあります。正にそのとおりだと思います。部落差別問題は未だに原因すらはっきりとしていない、文字どおりの「いわれなき」「理由なき」差別です。この部落差別問題というものには「人権問題」の入り口としても真摯に向き合っていかなければいけないのだと思います。

そんな中、肝に銘じておきたいことがあります。それは「実践の観念論」の払拭です。これは私自身の自戒も込めてでありますが、部落差別問題や人権問題についての研修会の場では、宗教者の「慈悲をもって臨めば」とか、「愛があれば差別は無くなる」「優しく接すれば良い」などという参加者の言葉を良く聞きます。それもそのとおりだと思います。しかし、といいながらも、研修会の帰り道の道中では「でも難しいよね」「現実には無理だよ」ともいいます。

宗教者の「慈悲」とか、「愛」って何でしょう。「経典には、こう載っている」「昔の祖師は、こう言っている」実践が伴わない「いかにも」綺麗な言葉を並べるだけでは、何も変わらない。そんなことにも気が付かされました。

とはいいながらも、こんな話も加えておきます。

先日、ある会議で「いつまでたっても『過去帳』や戒名の問題……曹洞宗は何も解決できないですね」とお話ししたら、ご一緒した方に「そのとおりだね。でも、それでも『人権』のことを考え、学ぶ人が少しずつ増えてきたじゃない。それが『進んできた』っていう証拠だよ」と言っていただきました。

私も曹洞宗に籍を置くものの一人として、及ばずながらも、前に歩んでまいります。それが私の「証」です。

久保井師はこのように結び講演を終えられました。

人権啓発研究集会での分科会の「宗教者と部落差別問題」がテーマとして取り上げられるのは2015年の第29回以来と長い期間が空いており、基本を再確認させていただく機会となりました。その上で、宗門の取り組みを進めてまいります。

人権擁護推進本部 記