【International】「不知、最も親切」―禅における国際交流の価値

2025.10.24

地蔵桂琛は、法眼文益に問うた、「そなたはどこから来たのか?」
法眼が答えるに「特段の目的もなく行脚をしております」と。
地蔵云く「行脚の目的は何だ?」
法眼答えて云く「知らず」。
地蔵云く「不知、最も親切なり」
こうして法眼は豁然として大悟した。

法眼という僧侶は、定まった目的地がない道を信じ、地蔵の言葉に耳を傾けるため、瞬時に自分の歩んできた所を手放すことができました。その寛容さにより、大悟を得ることができたのです。私たち修行僧のなかで、法眼のような修行の道にあこがれない人が果たしているでしょうか?

私も自分自身、どこへ向かっているのかよく分かっておりません。しかし、一歩一歩が、多くの先達によって切り開かれた道であることは理解しています。その一人が、1956年に日本からアメリカに渡り、両大本山北米別院禅宗寺で開教師(現国際布教師)を務められた前角博雄老師です。のちに英語を習得し、西洋人に教えを説き始め、1967年には禅センター・オブ・ロサンゼルス・仏真寺を設立しました。

私の師であるコペンス天慶老師は、1980年にオランダを離れ、前角老師の下で修行を積みました。その後、アメリカ、ヨーロッパ、そして日本で修行を続け、2002年にイギリス人の妻、妙法老師とともにオランダの小さな町アウトハイゼンに定住し、禅川寺(Zen River)を設立しました。以来、世界中から修行者を迎え入れています。

2015年のある日曜の夜、一般向けの礼拝と坐禅の会に参加するためアウトハイゼンを訪れました。何年もの間、何かを探し求めていて、何のために探しているのかも曖昧でしたが、その夜、私はとうとうその場所を見つけました。そして「道」を見つけたのです。たちまち私の心の奥底の何かが「これだ!」と気づかせてくれました。

この気づきは、深くて静かであり、平穏と喜びの感覚をともなっていました。言葉で説明できるものではなく、それを「不知」と言うこともできます。まったくの驚きでしたが、それでも私はその気づきを何よりも信じることができたので、禅川寺を幾度となく訪れ、1年後、私はそこに引っ越していました。

時とともに、修行仲間は家族のようになり、禅川寺は私の体の一部となりました。すでに出家を果たし、もっと先へ進むことができるという感覚はありましたが、しかし実際にどうすればいいのかが分かりません。時に、師が経験した行脚修行のことや、それによって得られた深い信仰であったり、あるいは道元禅師が道を求めて中国へ渡り、現代の私たちに影響を与え続けるほどの智慧の財産を残してくれたことを思い起こしたりしました。

達磨大師のお話も、私に刺激を与えてくれました。インドから中国へ渡り、梁の武帝に招かれたときのこと、2人の間にいくつかの問答があり、結局、達磨大師のお答えが自身の意に沿うものではなかった武帝は「私の前に立っているのは誰だ?」と達磨大師に尋ねます。すると達磨大師は「不識(知らない)」とお答えになられたのです。天慶老師はしばしば、達磨大師の答えを少し言い換え、「Whoknows?(誰が知る?)」と表現されます。自分自身を立てないことで、解釈に幅が生まれ、私たちが何者になれるのか、それを探る機会を与えてくれます。

洞松寺専門僧堂のドキュメンタリー映像のなかで、堂長の鈴木聖道老師はこう語っています。「専門道場の山門をくぐるということは、これまでに持ってきた、養われてきたものも、すべてを放って、今ここにいる、本当の自己に、真実の自己に、目覚めるということです」。

いつでも、どこだって、未知の環境に身を投じることは、より豊かな経験をもたらしてくれるものだと私は理解しています。ありがたいことに、天慶老師は長期間、禅川寺を離れることを許してくれ、日本で修行をしたいという私の願いを応援してくださいました。

2023年10月、日本へ向かう飛行機が離陸したとき、私の心の中には再び、「これだ!」という、静かな喜びが湧き上がりました。洞松寺の修行中も、たとえ、お腹が空いていたり、苦しんだり、頭が混乱してしまったときでさえも、その喜びは常にありました。同じ経験をしている仲間に囲まれていることは、かけがえのない経験でした。修行という力強いものに支えられ、互いの「不知」が、我々をより親密にさせてくれているのを感じました。こうして私は、忽然として未知の世界にいる居心地の良さを感じるようになったのです。

1984年、前角老師の招聘によって禅センター・オブ・ロサンゼルス・仏真寺での布教活動をされ、その後4年間をアメリカで開教師として過ごされた鈴木聖道老師は、その気持ちをきっと理解してくださっているに違いありません。その後、鈴木老師は、岡山県の洞松寺を、世界中から人々が集まり、親密に一体となって修行する専門僧堂へと変貌させました。日本の禅に根ざしているため、修行は非常に豊かで、そのおかげで私は梅花流詠讃歌をお唱えすることをはじめ、多くの新しい役割や活動のなかで、また「初心者」に戻ることができました。

梅花流詠讃歌のなかから数曲を覚えられたころ、鈴木老師は私を法事に連れて行ってくれました。法事はだいたい檀家さまの家で行われることが多く、私は背が高いオランダ人の尼僧ですから、必死にその場に溶け込もうと努力しても、どうしても目立ってしまいます。私にできたのは、自分の出身地を忘れ、御詠歌の音色が私たちの心を繋いでくれることを信じるだけでした。

鈴木老師はたくさんの「不知」の経験を与えてくださいました。お手伝いしたい気持ちはあるのに、袈裟の正しい畳み方がわからない、塔婆の置き方がわからない、抹茶のたて方がわからない、「不知」は私に謙虚な気持ちを与えてくれました。一方で「誰が知る?」という感覚も、私にとって大きな支えでした。わからなくてもやってみようとする力を与えてくれ、自分ができると思ってはいなかったことさえできるようになりました。歌に静けさが、お拝に静止が、緊張に安らぎが訪れました。

大本山永平寺、大本山總持寺、興聖寺、愛知専門尼僧堂といった他の寺院にも短期間滞在し、少しずつ「不知」の教えに頼るようになりました。お寺はそれぞれ異なるため、常に自分の知識を手放し、目の前の状況を観察し適応する必要がありました。行く先々、小さな失敗もしましたが、同時に素晴らしい驚きも訪れ、信仰を強めてくれました。調和する声に、合掌する手に、勧められるお茶に、互いにかわす笑顔に、親密な絆は何度も何度も生まれました。

「華厳経」で大知識を尋ねて旅をする善財童子のように、私も道中で、慈悲深き導きを得ることができました。私たちが常に深く繋がっていること、どんなに違いがあるように見えても、ただ不知のままに寄り添い、共に歩むことができれば、私たちが一つのいのちを生きていることを見出すことができると教えてくれました。ゆえに私はひたすら進み続け、洞松寺専門僧堂に上山して1年半、準備不足を感じつつも、参禅者を受け入れ、得度式や法戦式、仏前結婚式など、他の方々を導く機会にも恵まれました。

禅川寺での坐禅を通して「不知」に出会ったことは、私にとってかけがえのない経験であり、さまざまな場面でその不知を見つけることができました。この身を不知の世界へと投げ込むことを恐れない、何人もの師に出会えたことは本当にありがたいことでした。私はこれからも旅を続けます。そしていつか行脚する雲水たちのために、私にしていただいたことと同じことをさせていただき、このご恩に報いたいと思います。

宗立専門僧堂掛塔僧 オーバービーク暁星(ヨーロッパ国際布教総監部同籍、海外特別寺院禅川寺)記