【人権フォーラム】世界平和記念聖堂建設の趣旨~広島の歴史と平和への歩み~
先月号の人権フォーラムでは、広島市内を会場に開催された2025(令和7)年度第1回人権擁護推進主事研修会の研修会報告を掲載いたしました。
今月号は、研修会の2日目に「世界平和記念聖堂建設の趣旨」をテーマにご講演いただきました、カトリック中央協議会事務局次長・原田豊己神父にご寄稿いただいております。
世界平和記念聖堂(カトリック幟町教会)は、広島市中区に所在し、原子爆弾・戦争の犠牲者への追悼と世界平和祈願を目的に建設されたキリスト教の聖堂です。 研修会を振り返りつつ、あらためて世界平和記念聖堂建設にまつわるエピソードと平和への想いを綴っていただきました。
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被ばく80年を機会に多くの方が広島にお越しくださり感謝申し上げます。研修会は私のためにも良い機会となりました。
被ばく地広島を考えるためには、1931年9月18日の柳条湖事件勃発から1945年のポツダム宣言受諾(日本の降伏・敗戦)まで足掛け15年の間アジア、太平洋において戦争を行い、広島が軍都であったことを思い出さなければなりません。被ばくという被害者だけでなく加害者であったことを深く意識したいと思います。
広島は次のように三様の表現で語られます。
廣島(軍都廣島)
広島湾を囲むように東には呉(海軍兵学校・呉工廠)またその東には大久野島(毒ガス製造)。西には岩国(海軍航空隊・連合艦隊の碇泊地)があり、広島駅から歩兵が徒歩での移動が可能な宇品港(広島港)があります。
また、日清戦争当時には大本営が広島城に設置されました。広島編成の陸軍第5師団はアジア、太平洋地域を転戦しています。

ヒロシマ(被ばく地ヒロシマ)
テニアン島から出撃したB29(エノラ・ゲイ)が投下した原子爆弾により1945年8月6日午前8時15分被ばく。テニアン島には従軍牧師と従軍司祭が派遣され、彼らは、原爆投下機の任務の成功と乗員たちの無事を祈りました。その一人ジョージ・ザベルカ神父は、広島長崎を訪問し米ソ対立と軍拡競争の中で核軍縮を訴えるようになります。
爆心地から約2キロにあったカトリック教会(現幟町教会・世界平和記念聖堂)には、4名のイエズス会に属するドイツ人司祭がいましたが、傷を負うも奇跡的にも助かりました。その中には、のちに世界平和記念聖堂の建設を発案するフーゴ・ラサール神父(日本名 愛宮真備)がいました。
ひろしま(1947年平和都市宣言)
敗戦後GHQは、プレス・コードを発令するなどの占領政策を進めてゆきます。
1947年8月5日から3日間行われた平和祭で平和宣言が読み上げられ、戦争の否定と平和を希求する広島の思いは、8月6日の平和宣言として現在まで続いています。
「広島平和記念都市建設法」が1949年8月6日に公布・施行され、恒久の平和を象徴する都市として再建に着手してゆきます。
ラサール神父が発案した世界平和記念聖堂建設は、ローマ教皇の支援を受けて1950年着工し、1954年、献堂されました。その間には1950年から1953年の朝鮮戦争(休戦)もあり、建築費の高騰、資材の入手が困難な事態もありました。

世界平和記念聖堂
被ばく前にあったカトリック教会と同じ場所に建築を行ってゆきます。コンペ形式を取り入れ広く公募しましたが、紆余曲折の後に設計は村野藤吾、構造計算は内藤多仲という当時最高の建築家により手がけられました。建造物としても素晴らしいもので、2006年7月には国の重要文化財に指定されました。
ラサール神父が聖堂建築に求めたことは、日本的な性格の尊重、モダン・スタイルでありながら宗教的、記念的なものでした。それは、現在聖堂の随所に見ることができます。聖堂の頂には灰から生まれ変わるといわれる鳳凰(フェニックス)、聖堂内の照明器具は蓮の花の形、州浜形の窓などです。また、広島市民をはじめ、平和への思いを込めたメッセージと共に世界各地から寄贈されたステンドグラス、パイプオルガン、正面扉、聖堂中央には再臨のキリストのモザイクなどがあり、人々の思いを伝えています。
聖堂記には次のように記されています。「広島に投下された世界初の原子爆弾の犠牲となりし人々の追憶と慰霊のために、また万国民の友愛と平和のしるし」「この聖堂に来り拝するすべての人々は、逝ける犠牲者の永遠の安息と人類相互の恒久の平安とのために祈られんことを」。このように、この聖堂の目的が祈りの場であることが強調されています。
モニュメント(碑)
広島市内には多くの碑が建立されています。
福島地区町民慰霊碑
広島市西区福島町には、1927年に第6回全国水平社大会が行われたように戦前被差別部落がありました。また、近くに三菱重工業の工場があり朝鮮人徴用工の住まいがあったと言われています。三菱重工業は大きな被害を受け朝鮮人徴用工も被ばくしました。

参加者
この碑の碑文には「天を抱くがごとく 両手をさしのべし 死体のなかにまだ生きるあり」とあります。作者深川宗俊は、戦後反戦詩人として知られ、当時は三菱重工業で朝鮮人徴用工の指導をしており自らも被ばく者です。深川宗俊は、徴用工の祖国帰還、三菱広島元徴用工被爆者訴訟などを手掛け、2007年に最高裁は賠償を命じる判決を出しました。この碑文は、死体の中にまだ生きている者がいるという状況を描写したとの受け止めだけでなく、差別の中で治療を受けられず、生きているにもかかわらず死体として取り扱われる様の描写ともいわれています。こののち広島では、原爆はあらゆるものを破壊したが、差別という壁は破壊できなかったと言われるようになります。
原爆の子の像
2歳で被ばくし1955年12歳のときに白血病で死去するまで、回復を願い、折り鶴を折り続けた佐々木禎子さんと原爆で亡くなった子どもたちの死を悼む碑です。日本のみならず世界中の子どもたちが慰霊と世界平和のために鶴を折り、一年中この碑から折り鶴が絶える日がありません。2016年アメリカのオバマ大統領が広島訪問の際に、自ら折った折り鶴を広島市に寄贈しました。戦後80年の今年、禎子さんが自ら折った折り鶴が親族からオバマ元大統領に手渡され、平和の思いを託されたそうです。折り鶴は世界中で平和のシンボルとして使用されています。
その他にも韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑文、E=mc²の碑文で有名な市立高等女学校職員生徒慰霊碑などもあり、現地に行かなくともネット検索で碑文を読むだけでも様々な思いを持つことができます。
カトリック教会の教皇メッセージ
聖ヨハネパウロ2世教皇は1981年2月広島を訪問され「戦争は人間のしわざです」で始まる平和アピールを発表されました。その中で、「戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念聖堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません」と語りかけられました。同時に「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです。広島を考えることは、核戦争を拒否することです。広島を考えることは、平和に対しての責任をとることです。この町の人々の苦しみを思い返すことは、人間への信頼の回復、人間の善の行為の能力、人間の正義に関する自由な選択、廃虚を新たな出発点に転換する人間の決意を信じることにつながります」と述べられました。
フランシスコ教皇は2019年11月広島を訪問され、「戦争のために原子力を使用することは現代において犯罪以外の何ものでもない」「核兵器を保有することもまた倫理に反する」と訴え、核兵器廃絶を世界に呼びかけられました。終わりに 日本人は思想で歴史を解釈すると言われますが、事実の目で歴史を直視することが求められます。そうしたとき加害者はゆるしを願い、被害者は勇気をもってそれを受け入れて和解が生まれます。謝罪とゆるしと和解を通して、二度と同じ過ちを繰り返さぬことをともに心に刻むことがいま問われているのかも知れません。世界中で争いと分断が続き、胸の痛む毎日があります。武力と言論による暴力は、人間を委縮させ思考を停止させます。そのようなときにこそ、分断しようとする力に対抗する真の友愛を取り戻すときだと思います。
カトリック中央協議会 事務局次長 原田豊己



