梅花流詠讃歌【梅花照星に似たり】⑫
新語・流行語大賞が発表され、その年の世相を表す今年の漢字が選ばれるころになると、暦は師走です。今年も残り少なくなりました。読者の皆さんにとりまして今年はどのような1年でしたでしょうか。
猛暑が6月から始まり、熱中症警戒アラートが多発した暑く長い夏でした。台風や線状降水帯発生に伴う大雨などの自然災害も多く発生しました。
また、ご家族、知人など親しい方との別れを経験した方、ご家族に新しい命が誕生し、おじいちゃんやおばあちゃんになった方、などなど、この1年忘れられない喜び、悲しみ、怒り、といった感情を人それぞれが心に抱いていることと思います。
歳晩を迎えると私は、坂村真民さんの「坐忘」という詩を思い出します。
坐忘
坐シテ年ヲ忘レヨ 坐シテ金ヲ忘レヨ
坐シテ己ヲ忘レヨ 坐シテ詩ヲ忘レヨ
坐シテ佛ヲ忘レヨ 坐シテ生ヲ忘レヨ
坐シテ死ヲ忘レヨ
(致知出版社発行『自選 坂村真民詩集』より)
冒頭にある「年ヲ忘レヨ」の「年」は、自分自身の年齢という意味もあるかも知れませんが、この1年という意味合いが大きいと思います。残念ながら、ここで詩の意味を解説する余裕はありませんが、12月の声を聞く時、この詩は私たちの心に染み込み、深く考えさせられます。
「忘」という漢字の成り立ちを見ると、「心」を「亡」くすと書いて「忘」となります。心とはとらわれるものです。「忘れる」ということを、とらわれの心をなくす、すなわちとらわれを突き放し謙虚になると受け止めるべきでしょう。
仏祖の道を習うには 自己をならいて自己わすれ
忘れわすれてゆくなかに 身心脱落 成ると知る
と詠うのは、梅花流詠讃歌「高祖道元禅師学道御和讃」一番です。
この歌詞は『正法眼蔵』「現成公案」巻にある
「仏道をならうといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。」
の説示をいただいています。仏道をならうということは、自己をならうこと、つまり知識や教養を身につけることではなく、自分自身を明らかにすることです。
自分自身が明らかになると、その自分を忘れなければなりません。それは、自分への執着や欲望というとらわれをこえるということになります。
「学道御和讃」は仏道修行のあり方を詠う曲ですが、ひとり坐してこの1年を振り返る時、過ぎ去りし日々をしっかり確かめ、謙虚になることが、「自己をわするる」ことであり、「年ヲ忘レヨ(年を忘れる)」ということではないでしょうか。しみじみと歳晩を過ごしたいものです。
静岡県官長寺 住職 大田哲山



