【人権フォーラム】ハンセン病が残した負の遺産と、そこから私たちが学ぶべきこと

2026.02.11

昨年11月、岡山県の長島愛生園において、「『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議」(「同宗連」)第二連絡会が開催されました。実際に参加した本部員より、現地での体験を報告します。 

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むつみ交流館

岡山県の瀬戸内海に浮かぶ長島。本土と橋で繋がったその先、長島愛生園の宿泊研修施設「むつみ交流館」で、一泊を過ごした。街灯こそ整備されているが、窓の外は暗く、聞こえてくるのは昔と変わらないであろう夜の瀬戸内海の静寂だけだった。

この変わらぬ静けさの中で、何十年と隔離され暮らした方々がいる。そして、そのまま丘の上の納骨堂に入られた方々がいる。私にとっては一夜のことだったが、入所者の方々は幾度この夜を過ごし、どのような思いを抱えていたのだろうか。

施設には、入所者の生活を支える場であったことを示す多くのものが今も残されている。これらはすべて、かつてこの場所で「家族を作る権利」や「本名を名乗る権利」さえ奪われた人々の、消えることのない記憶の痕跡である。

「治る病気」であるのに、なぜ90年もの間、隔離は続いたのか。そして、その過ちから、私たちは何を学ぶべきなのか。

  

なぜ治療より隔離が優先されたのか

ハンセン病は今では薬で治る感染症である。しかし日本では、1996年の法律廃案まで約90年の間、患者を施設に強制的に隔離する政策が続いた。なぜ治療ではなく隔離が優先されたのか。その理由をたどると、当時の日本社会が抱えていた体裁へのこだわりや、貧困の問題が浮かび上がってくる。

  

国の体裁が人権を押しつぶした

明治期の日本は、欧米列強に追いつこうと「一等国」を強く意識していた。伝染病を「国の恥」とみなす風潮が生まれ、ハンセン病患者は「国辱」と見なされてしまった。患者の人権よりも国の体裁を優先させる考え方が、政策に少なからぬ影響を与えていった。

特効薬が開発された第二次大戦終戦以降も、隔離政策は続いた。経済的理由が優先され、患者を社会に戻すための環境整備は後回しにされた。その結果、国民は偏見を改める機会を逸し、「怖い病気」という認識だけが残った。隔離によって患者が見えない存在にされていたからである。

政府は「国民の恐怖があるから隔離を廃止できない」と説明し、国家の責任を国民の偏見へ転嫁した。この身勝手な論理は、日本社会全体が差別を解消する機会を失う大きな要因となった。

 

開設当時の建物も一部残されている

見える問題だけを隠した国の姿勢

ハンセン病は貧困や劣悪な住環境と深く結びついた病気でもあった。本来であれば、生活環境の改善こそが根本的な対策である。しかし政府は時間と費用のかかる施策を避け、患者を隔離するという簡単な方法に頼り続けた。原因に向き合わず、目に見える問題だけを封じ込めようとした結果である。

 

長島愛生園が語り続けるもの

長島愛生園は1930年に開設された日本初の国立ハンセン病療養所である。ここには隔離政策がどれほど人々を苦しめたかを物語る遺構が、今も静かに残されている。

その一つに、監房跡がある。監房とはまさに懲罰房であり、治療とは何の関係もない。逃走や規律違反とされた行為で暗く狭い部屋に閉じ込められる仕組みは、隔離政策が医療の名を借りた統制の装置であったことを示している。

園内通貨

脱走防止のための園内通貨は外部では価値を持たず、入所者に「社会の外」にいるという感覚を日々突きつけた。断種や中絶の強制、園名の強要など、入所者の人生そのものを奪う制度も存在した。この断絶は本人だけでなく次世代にも及び、今なお痛みを残している。

  

なぜ療養所に納骨堂が必要なのか

療養所には納骨堂だけでなく、かつては火葬場も併設されていた。遺体となっても忌避され、外部への搬出すら許されなかったためである。そして、愛生園では死亡した入所者の解剖記録が残されていたこともわかっている。死後の尊厳までも奪われていたという現実は、隔離政策が人の生と死の両方を支配していたことを示している。

隔離政策が廃止された今も、故郷に帰れない遺骨が多く納骨堂に残されている。家族が差別を恐れ、引き取りを拒むケースがほとんどであるためだ。納骨堂は、隔離が家族の絆をも断ち切ったという動かしがたい事実を静かに伝えている。

  

感染症と差別の連鎖

ハンセン病隔離政策の失敗は、その後の感染症の対応にも活かされなかった。HIV/エイズでは、同性愛者や外国人など特定の人々への偏見が強まり、科学的知識より恐怖が広がった。新型コロナでも感染者や医療従事者への中傷や排除が起き、同じ構図が繰り返された。

未知や無知が恐怖に変わり、その恐怖が差別へとつながっていく。この連鎖は、今も社会に根強く残っている。

  

世界遺産を目指す意味

近年、有志の団体と行政、そして入所者自治会が連携し、長島愛生園を世界遺産に登録しようという動きがある。これは単に建物を保存するためではない。隔離政策は入所者の家族形成の権利を奪い、語り部となるべき次世代が構造的に少ないという問題を生み出した。そのため、長島愛生園そのものを語り部とし、建物や生活の痕跡を未来へ伝える器として残そうとしている。

世界遺産条約が求める価値の一つに、人類が学ぶべき普遍的な教訓という考え方がある。長島愛生園が残すのは、差別と排除が基本的人権をどのように破壊するかという普遍的な教訓である。

  

社会的包摂へ

ハンセン病者への差別は、社会が誰かを外側に追いやることで安定しようとした結果生まれ、今なお苦しむ人たちが存在している。私たちが学ぶべきは、人を排除しない仕組みをつくることである。社会的包摂という視点に立つと、変わるべきは病気の人ではなく社会の側であることが見えてくる。

包摂を実践することとは、過去の非人道性を指摘するだけでなく、今も本名を使えず社会に戻れない元入所者の尊厳回復に力を尽くすことである。

  

おわりに

夜、むつみ交流館の窓から感じたものは療養所の歴史の一端に過ぎない。かつて街灯のない闇の中、入所者の方々はどれほどの不安や絶望を抱えていたのだろうか。

特に重く受け止めたいのは、あの納骨堂に静かに積み重なった時間が、いま私たちに投げかける問いの深さである。

生きていた間だけでなく、亡くなった後までも社会の外に置かれ続けた事実は、隔離とは何か、そして社会とは何かを私たちに静かに問い続けている。

私たちが過ちを繰り返さないと誓うなら、療養所の外にある社会全体が差別の責任を引き受け、「彼らの家は社会のどこにでもある」と宣言しなければならない。

長島愛生園の静かな空間には「二度と同じ過ちを繰り返さないでほしい」という願いが今も息づいている。その声に耳を傾け見えない差別を見過ごさないことこそが、私たちにできる最も身近な人権の取り組みなのだと思う。

人権擁護推進本部 本部員 齋藤隆健 記

 

令和7年度人権啓発資料法務大臣表彰ハンセン病問題啓発動画「記憶を受けつぐ旅~岡山県瀬戸内市・長島に残るハンセン病の歴史~」

〈制作者〉岡山県瀬戸内市 岡山県瀬戸内市に所在する2つの国立ハンセン病療養所「長島愛生園」と「邑久光明園」の歴史と現在を通して、ハンセン病問題を学ぶための動画です。2次元コードからご視聴ください。