【人権フォーラム】『宗報』にみる戦争と平和 6   ―昭和11年の不敬語句削除「諭達」とその背景―

2016.11.14

不敬の語句は改称・削除せよ

 満洲事変(1931〈昭和6〉年9月)以降、日本社会が宗教界も含め、戦争への熱狂に傾斜していく時勢にあって、新たな国粋主義である「日本精神運動」が勃興してきます。

前回の連載記事「昭和6年~9年 反宗教運動と日本精神運動」では、宗学者・衛藤即応師(1888~1958)が、排外主義的な当時の思潮に対して、リベラルな学問の視点から反論を試みていたことを見てきました。

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国際連盟脱退記事(朝日新聞)

しかし、不拡大方針にもかかわらず、日中両軍の軍事衝突が泥沼化し、日本が国際社会の中で孤立(1933[昭和8]年3月・日本国は国際連盟脱退通告)していく中で、政治の世界のみならずマスコミ、学問や社会全体が軍国主義的な雰囲気に支配されていくことになります。当時の日本人その中の宗教者や仏教者の中でこのような動向に疑問をもち抵抗した少数者はいましたが、一度立ち上げられた戦争への熱狂を押しとどめることは為政者ですらできませんでした。

1936(昭和11)年2月には、『宗報』第927号「法規令達」記事に「不敬」語句は即時に改称し削除せよとの「諭達」が発令されています。その全文を次に載せます。

 

 

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不敬語句削除論達

(両山貫首及管長ニ対スル尊称誤用ニ関スル)諭達

明治大正時代ヲ通シテ浅薄ナル外来思想ハ千古不磨ノ我國體ニ少ナカラサル悪影響ヲ来シタルカノ如キ感アルモ厳然タル國風ハ能ク之ヲ排シ而モ近時國體明徴ノ標語ニ一層日本思想ヲ宣揚サレツツアルハ喜フヘキ事ナリ然ルニ我宗ハ古来ヨリ両山貫首及管長ヲ称スルニ猊下ノ尊称ヲ用ヰ又両山貫首及管長ノ末派寺院ノ法筵ニ臨マルル際ハ御親臨御親修及拝謁ナル言葉ヲ用ヰ来レルモ此字句ハ往々ニシテ誤ラレル懼アリ依テ今後ハ各自戒慎シテカカル言語ヲ避ケ御臨席又ハ御臨場御修行拝問等ト改称シ其ノ他特ニ宮府ニ於テ使用セラルル敬語ニ類スルカ如キ語句ヲ廃止シ不敬ニ亘ラサル様注意スヘシ又面山師ノ得度作法中ノ國王モ汝ヨリ尊カラス父母モ汝ヨリ云々ノニ句其他佛経祖録中往々ニシテ前後ノ文意ヲ截断シ唯タ文字ノ表面ニノミ拘泥スレハ或ハ不敬ニ亘ルカノ如キ文字少ナカラサルヘキモ文中國ト称シ王ト書カレタルハ支那古来ニ於ケル國情ヨリ来レル慣習的文字ニシテ我二千六百年来ノ帝國ヲ指シ主権者ヲ指スモノニハ断シテ無之ニツキ若シ人之ヲ詰ラハ良ク此点ヲ懇切ニ解釈シテ些ノ誤念ヲ懐カシムルコト無キヤウ佛祖ノ真意ヲ諒解セシムヘシ而シテ得度作法ハ近ク管長猊下ノ御意志ヲ體シテ一宗一定ニ公布スヘク考慮中ニ就キ其レ迄ノ間ハ右掲ケタル二句ハ各自ニ於テ削除シテ作法スヘシ

昭和十一年二月一日

總  務  今井  鐡城

財務部長  佐藤  大麟

教学部長  奥村  洞麟

庶務部長  谷口  乕山

 

曹洞宗務院からの驚くべき指令です。この「諭達」では皇室・宮中用語に類似する「猊下」尊称や、「御親臨」「御親修」等の敬語を改称すること、『得度略作法』中の文言が不敬の疑いがあるため削除して使用すべきことを指示しているのです。

当時の世情の影響とはいえ、本宗の伝統や儀則の根本に関わる事柄ですので、あまりにも唐突・拙速の観が否定できません。さらに、この文書自体に自家撞着の矛盾があるのです。

 

諭達の背景・社会思潮 

―国体明徴声明―

 この不敬語句削除「諭達」が発令された背景としては、諭達冒頭に「‥‥近時国体明徴ノ標語ニ一層日本思想ヲ宣揚サレツツアルハ喜フヘキ事ナリ」

とあるように、政府の「国体明徴」声明の存在があります。

1935(昭和10)年8月と同年10月と相次いで日本政府は国体明徴声明を発表して、美濃部達吉(1873~1948)の天皇機関説を「国体」(あるべき国家の根源・主体)に反するものとして排除しています。

満洲事変以降、日本社会が急速に戦時体制化していく過程のなかで、国体論が攻撃的性格を強めていきます。

美濃部達吉は当時、貴族院議員であり、憲法学者・東京帝国大学名誉教授の経歴をもつ有識者です。とくに大正デモクラシーにおける帝国憲法の立憲主義的解釈の権威として、統治権の主体を国家におき、天皇をその国家の最高機関とする当時は広く受け容れられていた通説を述べていたに過ぎません。大正期の国家公認の政治思想家である井上哲次郎(1856~1944)も君主主義と民主主義の調和にあるべき国家=国体があると説いているのです。その意味では、美濃部の天皇機関説は、決して反体制的な学説ではありません。

しかし、個人主義・自由主義も含めた西欧の学問・思想をも排撃する急進思想運動は、これまで国家機関とその官僚がひろく受け容れていた常識であったこの天皇機関説すら反国体的な思潮として否定しようとしたのです。戦争への熱狂や国家至上主義的な雰囲気が逆に国家機関や政治の理性そのものをも変容し麻痺させていくのです。

美濃部達吉の天皇機関説への攻撃から政府の国体明徴声明にいたる概略は次のとおりです。

1935(昭和10)年の第67帝国議会で菊池武夫議員が美濃部の天皇機関説について、天皇の神聖不可侵性を否定する国体に背く学説であるとして美濃部自身を「学(エセ学者)」「謀叛むほん人(反逆者)」と糾弾します。

美濃部はこの非難に対して、議場で「一身上の弁明」と前置きして、自身の学説を平易に解説しました。この弁明に対して、当の質問者である菊池議員さえも一定の理解を示し、事態は沈静化するかに見えました。

ところが、一旦火がついた世間の熱狂は収まりを見せず、逆に民間の団体や在郷軍人会などが天皇機関説排撃運動を全国的に展開していきます。その中で「機関」の用語すら理解しない人々が「れ多くも天皇陛下を機関車・機関銃に喩えるとは何事か!」と激昂したという伝聞もあります。

当初は冷静に対処していた岡田啓介内閣も、この熱狂的な民間運動に屈服して、美濃部の学術書3種類を発売禁止処分とします。さらに2回に分けて国体明徴声明を発表して、従来の通説であった天皇機関説を国体に反する思想として断罪するに至りました。民間が政府や学界のみならず国家統治論そのものを左右するという一種の革命でもあったのです。民間は国家・政府から一方的に指導されるばかりではなく、民間の熱狂と運動が逆に国家そのものの針路に介入するという側面もあったのです。

この声明発表後、文部省は1937(昭和12)年『国体の本義』を刊行し、自由主義・民主主義そして個人主義を排除して絶対主義的天皇制という思想を教育していきます。これはたしかに政府によるイデオロギーの強制のようにも見えますが、この国体明徴問題を通して分かることは、その土壌は民間にもあったということなのです。(『日本史大辞典』第3巻等参照)

 

 国体明徴の諭達

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国体明徴論達

 第1次国体明徴声明直後、曹洞宗は「(國體明徴ニ関スル)諭達」を『宗報』第917号(昭和10年9月1日発行)にて公布します。

近時吾カ國體ノ本義ヲ説クニ当リ例ヲ他国ニ覓メ徒ニ私解ヲ加ヘ吾カ國固有ノ國體ヲ傷クルカ如キ学説ヲナス者アリ是レ甚タ遺憾ニ堪ヘサル所ナリ 世或ハ此ノ妄説ヲ信シ其ノ帰趨ヲ愆ル者ナシトセス

曩ニ政府当局ハ之ニ関シ声明ヲ発表シ更ニ今回文部次官ヨリ別ニ告示スルカ如キ通牒ニ接シタリ蓋シ機宜ニ適シタル処置ト謂フヘク本宗寺院並ニ檀徒信徒ハ自他相戒メ斯カル異説ニ惑サルルコトナク進ンテ吾カ國體観念ヲ明徴ニシ政府声明ノ趣旨ヲ徹底セシムルコトヲ期スヘシ

  昭和十年八月十六日

文中「国体ノ本義ヲ説クニ‥‥私解ヲ加ヘ吾カ国固有ノ国体ヲ傷クルカ如キ学説ヲナス者」とあるのは、天皇機関説について国会でも弁明した美濃部達吉であることは明らかです。天皇機関説に対する攻撃があるまでは、帝国の統治理論として政府、官僚のみならず宗教界も含めていわば定説化した常識でありましたが、曹洞宗はこの学説を「国体ヲ傷クルカ如キ学説」とか「妄説」「異説」などと非難しています。そのうえで曹洞宗当局は、国家統治の主体は万世一系の現人神天皇にありとする政府の明徴声明の趣旨を徹底するように指示しています。このような社会的背景と前提が、冒頭の不敬語句削除「諭達」にありました。

 

不敬語句削除「諭達」の問題点

 不敬語句削除「諭達」に対する教団内外の反応を述べる前に、この諭達自身の問題点を見ていきましょう。

最初は、『得度作法』詳しくは『永平祖師得度略作法』の撰述者を「面山(瑞方)師」としている点です。この文献はすでに江戸期より親撰の根拠を疑われてきた経緯もありますが、伝統的には道元禅師による典籍とされています。少なくとも、1936(昭和11)年当時は、偽撰説や面山撰述説が定説化していたわけではありません。それにもかかわらず、この「諭達」であえて「面山師」撰述説を採用しているのは誠に奇異です。当時の伝統的な学説や常識を無視してまでも、「不敬」に関して、道元禅師の名前を表に出してはならないという意図的な操作があったとしか考えられません。

 さらに、「諭達」には、「国王モ汝ヨリ尊カラス父母モ汝ヨリ云々ノニ句」の削除を指示していますが、該当箇所の語尾を「云々」という極めて曖昧な引用がなされているのも、公文書という性格上、非常に不自然です。

この異様さは、『得度作法』の実際の削除の箇所は、この直後の「神袛冥道も皆な是れ下方なり(原漢文)」にあったのではないかと推測します。なぜならばこの部分は直接「天神地袛」を劣等視していますので、いわゆるの「不敬」の程度はより強いと考えられるからです。曹洞宗関係者以外は知りえないであろう「神袛冥道皆是下方也」の文言を直接載せることへの危機感がそうさせているのかもしれません。実際に駒澤大学図書館蔵書の一部には、この「神袛冥道」以下の文字を保留にした形跡も確認されています。

 

諭達への反応と批判

 このような不自然で拙速の観も否めない不敬語句削除「諭達」ですが、国体明徴声明に沿った指令ですので大方は理解を示したと思いきや実はそうとばかりは言えないようです。

この諭達が発令された翌日の2月2日、「教学新聞」第1077号は、「これも時代の流れ 不敬の懼れある用語を禁止する曹洞宗の諭達」の見出しで諭達全文を転載し、次のように論評しています。

「‥〈前略〉‥猊下の字句も亦廃止するかの如き意味が記されてあるが、更にその最後の文章に於て『得度作法は近く管長猊下の御意志を体して一宗一定に公布すべく考慮中云々』

とあり、猊下の字句がこゝでは明瞭に用ひられてあるので、その間自己憧著の観があり、而もかゝる公文書に猊下の尊称を用ひることは甚だ妥当をくものとして早くも闔宗の注視を集めつゝある」と、「猊下」の尊称を回避するはずの当の諭達が、同一文面で「猊下」を使用している矛盾点を指摘し、公文書としてははなはだ妥当を欠いていると批判しているのです。

「猊下」がなぜ不敬のおそれがあるのでしょうか? 「中外日報」第10945号(昭和11年2月19日発行)には、「猊下論」と題する記事があります。

「○○〈陛下か?〉と猊下は発音にまぎらはしく偽似、酷似類同等の嫌ひあり、‥〈中略〉‥猊下を慣称づけて喜んで居る僣上的誇大妄想より推定するも、他より不敬なり大不敬の名目なりと言はれ得るのやむなき事態ならずや、然し出拠や一片の屁理屈でカ様なマギラハシキ称呼を強用執存して一般国民より批難を受けるが如き危険を冒すの愚あるべきか」

という論説があり、天皇「陛下」とこの「猊下」とが類似していること自体に不敬のおそれがあるということかもしれません。

さらには「教学新聞」第1081号所載の記事では「慌てたり矣! 大宗団! 所謂不敬用語禁止の曹洞宗の諭達に非難」と題して、本件の続報を掲載しています。教団内部からも、この諭達は異例であり、大袈裟にすぎるとの非難が多かったと報じています。

「今回の曹洞宗に於けるが如き宗務当局が率先してかかる禁圧令を出したことは最初の異例とされてゐる。なほ宗内の有力者の間では若しこの種の取締をなすとしても諭達といふが如き大袈裟なものとせず、説示の程度に止めて置くべきであったといふ意見が大多数である」

とあり、必ずしも宗侶の大多数がこの諭達の趣旨を理解し同調していたわけではありません。なぜこのような問題のみならず「自己撞着」しているような諭達を慌てて発令しなければならなかったのでしょうか?

 たしかに1935(昭和10)年1月から始まった、美濃部達吉の天皇機関説事件と、政府の国体明徴声明があり、各宗派の「不敬」語句の摘発も行われていました。しかし、政府の国体明徴声明だけが、この諭達発令の直接の動因となったわけではありません。

 その動因は、ある衝撃的な事件とその遠因にある当時の仏教界全体や文部行政をも巻き込んだ不敬語句問題があったのです。その点については、次回解明してまいります。

(人権擁護推進本部記)

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