【人権フォーラム】東日本大震災~寄り添うとは~

2016.03.15

東日本大震災から、5年が経ちました。3月が近づくと震災関連の報道が増えますが、普段、被災地の記事を目にすることは少なくなっているように感じます。1月に福島県伊達郡国見町の社会福祉協議会の方から「昨年からボランティアが急激に減っている」とお聞きしました。マスコミによる報道の減少と同様に、被災地への関心低下がうかがえます。では、復興が進んでいるかといえば、必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか。

確かに、土地のかさ上げや復興公営住宅の建設等、遅々としながらも物質的な面での復興は進んでいるでしょう。しかし、被災された方々の心を考えたとき、取り組みが必要なのは、むしろこれからだと思うのです。

 

人も復興したように見えますか?

被災地での行茶活動(傾聴ボランティア)に参加したある宗侶は、見た目は明るく振る舞っていた方から、「人を見て、人も復興したように見えますか?」と問われ、心はまだ何も復興出来ていないのだという気持ちが伝わってきたと教えてくれました。

また、「いつまでも後ろ向きではいられない。前を向いていかないと。感謝の気持ちが笑顔になる」と言われる方がいたけれど、自分に無理に言い聞かせているようにも聞こえ、気持ちの奥底には我々には見せられない苦しみを抱えていることが伝わってきたと、現場での所感を報告されています。

大切な方の命をはじめ、震災によって多くのものが失われました。そのことによって生じた悲しみや苦しみは、これからも続くことが考えられます。辛い気持ちや将来への不安は、時間の経過とともに積み重なり大きくなることもあるからです。

今なお、被災地では震災関連死の死者数が増えていますが、特に福島県では、原発事故の影響が暗い影を落としています。放射能汚染の問題は長期化しており、先が見えない状況にあってその苦悩は消え去っていません。

生活環境の激変、経済的精神的負担、人間関係の断絶や複雑化、家族の分断やあつれき、家庭内暴力の増加、孤立等、様々な問題が生じています。小さな胸の内を吐露することができずに悩みをため込む子どもたちがいる一方、高齢の方も避難生活の中で、将来の展望が描けないまま時間だけが過ぎてしまっています。

住み慣れた地での隣近所との気兼ねない生活は一変し、思いもよらない仮設住宅での暮らしとなりました。大人にとっても子どもにとっても、環境変化への対応には、相当のエネルギーが必要だったと思います。

時が経ち、仮設住宅から離れる人、自宅を再建して移る人、残る人など、状況は変わってきています。場所によっては仮設住宅の集約が始まり、また一から関係性を作らなければなりません。

それぞれがそれぞれに困難を抱え、過度なストレスにさらされている現状があります。

 

行茶活動に参加して

宗門では、福島県に曹洞宗東日本大震災災害対策本部復興支援室分室(以下、分室)を設置しており、仮設住宅等における行茶活動を中心に様々な支援活動を行っています。

この度の人権フォーラム執筆に当たり、久しぶりに分室の行茶活動に参加しました。避難者の声を皆さまにお伝えすることで、継続的な支援を呼びかけようと思ったからです。

ある仮設住宅の集会所で、一緒にお茶を飲みながら避難者の方とお話をしたのですが、久しぶりの行茶活動ということもあってか、自己紹介も忘れる始末でした。余計な力が入っていたのか、自然なコミュニケーションが取れなかったように思います。「何を伝えるべきか」答えが見つからないまま、倦怠感を伴って福島を後にしたのでした。

宗務庁に戻り、原稿を書く段になっても軸がはっきりしないため、筆が進みません。何とかしようと、いろいろなところから人の言葉を借りて作った原稿は、中身のない薄っぺらなものになりました。

心が落ち着かない。

仕事への焦りとも違う、この心のざわつきはいったい何なのか。色々な人との会話を通じて、その理由が次第に明らかになっていったように思います。自分だけでは気づかなかったに違いありません。

私は、被災地復興支援の業務に携わっていたことがあります。その時から、分室の方々には大変お世話になってきました。被災された方や避難者の苦悩に触れてきた経験もあります。

しかし、異動で取り組む仕事が変わる中で、言葉では「被災地に寄り添いたい」「避難者や現場で活動している支援者のことを思っている」とは言うものの、自分自身の生活や目先の仕事に追われ、具体的行動が伴っていませんでした。

以前、震災直後からずっと被災地支援に尽力してきた方から「この問題に一生付き合う気があるのか」と問われたことがあります。そのとき、分室の方が私に信頼の言葉をかけてくれたことは、とても嬉しいことでした。同時に、責任も感じたのです。この言葉に応えなければと。

なのに、言い訳の言葉ばかりを頭にうかべて、何もしてこなかった。そうした自分をごまかしたくて、表面ばかりを取り繕おうとしていたのです。

行茶活動が終わり、疲労を感じながらの帰路となったわけは、上辺だけの寄り添いであることに、自分自身が気づきたくなかったからだと思いました。そういう自分では、原稿を書こうにも言葉が生まれてくるはずもありません。

今も被災地に思いを寄せ、活動している宗侶がいます。定期的に遠方から駆け付ける宗侶もいます。その人たちをいつも温かく支援し、送り出している応援者もいます。それぞれの状況がある中で、誰もが現地に行けるわけではありません。それでも、「出来る何か」をしている人はいるのです。現場に行くことだけが支援ではないからこそ、それぞれがそれぞれにできることを。そう思ったら、ようやく原稿が進みだしました。

 

僧侶が持つべき基本的姿勢とは

曹洞宗人権啓発視聴覚映像第17作『寄り添う~人間の尊厳を守る~』において、秋田県月宗寺住職の袴田俊英師は、次のように語っています。

「孤立を生んでいるのは、私たちが他者の人生を真剣に考えずに、自分のことだけを考えていて、権利ばかりを主張する生き方になってしまっているからではないでしょうか。いま、人権という言葉で語ったりしますが、本当は優しさなのではないかと思うのです。相手のことを思いやること。悩みに寄り添い、耳を傾けること。これは人権ということだけではなく、僧侶が持つべき基本的姿勢なのではないかと思っています。いま、悩んでいる人は多くいますし、孤立している人も、見えないかもしれないけど周りにいます。そういった人々の聞こえない声を聞くとか、見えない姿を見る、そういう努力を重ねていくことが、人権を考えることにつながるのではないでしょうか」

 

あなたに

見ようとしなければ見えない現実がある。見ようとしているか。聞こうとしているか。その努力を重ねているか。袴田師の言葉を改めてかみしめながら、自分自身に問い続けなければならないと思っています。

今回の行茶活動でも、分室の方々には大変お世話になりました。避難者のおばあちゃんには、手作りのお土産まで頂戴しました。

ありがとうございました。また会いに行きます。

(人権擁護推進本部記)

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