坐禅と三心

作る修行~台所の坐禅~

坐禅と三心

これまでの禅の精進料理では、数多くの細やかな心がけを大切にして調理されていることがおわかり頂けたと思います。

ここで最後に、まるでその逆のことを申します。禅僧が実際に台所に立つ際には、これらのさまざまな教えや規則などをことさらに意識しません。目の前の調理という行為に、文字どおり無心にただただ没頭します。知識としてこれらの教示がしっかりと頭のどこかにありながら、調理中にはそれを追い求めないでただ包丁を握るのです。

なんだか理解しにくいなあ、とお感じでしょう。

しかし、ここは重要な点です。坐禅のとき、あれこれ教義を頭の中で追いかけたりしないのと同じです。坐禅と同じこころもちで料理すると、自然に、頭の中はすっきり晴れた青空のように何もない、ただ目の前の食材に徹しているからっぽの状態になるのです。

料理を突き詰めようとすればするほど、技術や知識に比重が傾き、逆に、禅の教えから遠ざかってしまうことがよくあります。精進料理は坐禅と同じ修行、という根本的立場を外れては、禅の精進料理は成り立ちません。つまり、料理技術を追い求めるだけでなく、常日頃坐禅にも親しまないと精進料理の味は深まらないのです。

坐禅中のように、何も追いかけず、ひたすら調理するということは一朝一夕にできることではなく、やはり習熟が必要です。坐禅でも、はじめのうちは足腰の痛みに悩まされたり、妄念ばかりが次々に湧いて、はじめから無心で坐るのは難しいものです。だからこそ、継続実践が大切なのです。ぜひ、坐禅も料理も長く続け、自己を調えてゆく悦びを共に味わいましょう。

ところで、坐禅というと、黙々と坐って心身を調える修行というイメージから、自分のためだけに行うものという誤解があるようですが、大本山総持寺を開かれた瑩山禅師が常に大慈大悲に住して、坐禅無量の功徳、一切衆生に回向せよと『坐禅用心記』で説かれたように、曹洞宗の坐禅では常に他者に想いを振り向け、寄り添っていこうとする慈悲の心を大切にして坐禅を行じます。

そうした他を想い、他を支えようとする姿勢は台所での修行でも大切です。食べる人のことや使わせていただく食材のことなど、他者を念頭において調理することが良き料理へとつながり、ひいてはそれが自分にも返ってきます。

道元禅師は『典座教訓』の結びで、三つの心すなわち喜心きしん」「老心ろうしん」「大心だいしんの三つの心構えを大切にせよと示されております。

およもろもろ知事ちじ頭首ちょうしゅしょくたるにおよびて、ことつとめをすの時節じせつは、喜心きしん老心ろうしん大心だいしん保持ほじすべきものなり

(意訳)
修行として自らの任務にあたる者は、必ずこの三つの心を忘れずに心がけて励みなさい。

 

これらを総じて三心さんしんと呼びます。これらは出家修行者に対する教示ではありますが、誰もが大いに学ぶべき点があるのではないでしょうか。

「喜心」 いわゆる喜心とは、喜悦きえつの心なり。

今こうして、み仏の教えとめぐり逢い、大切な修行として調理に臨むご縁を喜ぶ心。何ごとも、嫌々ながら取り組んでは良い結果には至らないでしょう。調理係という役割をありがたく受け止め、食べる人の幸せを念じて積極的に努力してこそ良い料理となり、ひいては相手も自分も悦びを得ることにつながるのです。

 

「老心」 いわゆる老心とは、父母ぶもの心なり。

親が見返りを求めずに我が子を育てるように、食べる相手を深くおもいやって調理する慈しみの心。優しい老親が、自らの寒さを後回しにして寒くないか、困ったことはないか、と親切に子を気遣うように、自分の都合で作った料理を押し付けるようなことなく、相手の立場に立って調理方法や味付けを変えながら、手間や苦労を惜しまずに調理します。

 

「大心」 いわゆる大心だいしんとは、こころ大山たいざんにし、 こころ大海たいかいにして、偏無へんな党無とうなこころなり。

大きな山がどっしりと動かぬように堅固で、また広い海が清濁せいだく全ての流れを選り好みせずに受け入れるような偏りなくひろい心。良い材料とそうでない材料、あるいは相手の好き嫌いによって、作業の態度を変えるような私的な価値判断を差し挟まず、選り好みせずに常に精一杯の努力を惜しまない万全の態勢で調理します。

 

食事というものは本当に不思議なものです。

登山で良い汗を流し、大自然の中で頂くおにぎりの味は格別です。しかし、同じおにぎりでも、重要な試験前に食べたら緊張のせいで味がしなかった、という例もあるでしょう。また、いくら食べてもなぜか満たされないということもあれば、逆にわずかなお菓子を皆で分けて食べたらとても嬉しく優しい気持ちになった、ということもあるでしょう。

生物学的にみれば、必要な栄養素を補給できれば問題ないはずですが、そうした合理性だけで単純に解決できないのが人間の難しさであり、また素晴らしさでもあります。

美味しさや食の喜びを感じる場面は人間にとって必要ですが、だからといってやみくもに求めすぎては煩悩となってしまいます。

禅寺の精進料理は、無理な我慢を強いるものではありません。限られた食材や分量の中で、いかに心身共に深く満足できるかを心がけて調えます。そしてまた、食材の命を大切にして無駄を出さない姿勢は、環境問題や食糧問題にも深くつながっています。

もし皆さんが、“自分の日々の食事は本当にこれで良いのかな”と疑問や不満をお持ちなのだとしたら、まさに今こそが、精進料理の食に対する姿勢や工夫に学び、食事に対する向き合い方をよく考え、見直す絶好の機会になるでしょう。

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