精進料理の味とは

作る修行~台所の坐禅~

精進料理の味とは

三徳さんとく六味ろくみ

六味ろくみくわしからず、三徳さんとくそなわらざるは、典座てんぞしゅする所以ゆえんらざるなりと」

『典座教訓』

(意訳)
六味が調和し、三徳が備わっていなければ、典座の料理とはいえない。

 

と『典座教訓』に記されているように、精進料理を理解するには「三徳」と「六味」が大切な要素です。

 

三徳

  • 軽軟きょうなん 口当たりよく爽やかな身体に優しい味
  • 浄潔じょうけつ 清浄なる心と態度で作る衛生的な料理
  • 如法作にょほうさ み教えや定めを護り正しく調えた料理

この三つはどれも食する者の健康を保つこと、ひいては命を尊ぶことに直結する要素です。

素材の食感を活かし歯ごたえを味わってもらうために、生に近い堅さの状態に料理を仕上げることもありますが、そればかりに偏ってしまうと消化が悪くなり、重すぎて身体に負担がかかります。適切に火を通して柔らかく調理し、味付も濃すぎないように薄く淡く調えた料理を中心に考えることが軽軟の心得です。

また衛生的な配慮は、あなどれば健康を害し命にかかわる食中毒にもつながるため調理に最低限必要な基本です。調理役に配属された僧は、まずは身支度を調えることから始まり、使った道具をその都度きれいに洗って元の位置に戻し、こまめに清掃を行い、衛生的で機能的な台所環境を常に心がけることを指導されます。邪な心を離れた純一なる心と、清潔で衛生的な台所があってこそ、仏さまに献じるきよらかなお膳を調えることができるのです。

そして修行として行う調理ですから、その根底には仏教や禅の教え、また決まりごとなどから外れぬよう、正しい心と姿勢で作られなくてはなりません。「如法にょほう」とは、法のごとし、つまり仏法に則っているという意味です。邪な心を遠ざけて、お寺の教えのとおりに調理するとき、この三つの要素が相互に作用して、食べる者に深い悦びと健康をもたらせる料理となるのです。

 

五味ごみ五法ごほう五色ごしょく

この三徳を味の面で具体化した表現が「五味五法五色」です。これは中国の陰陽五行思想の影響を受けた考え方で、精進料理に限らず和食全般で認識されている捉え方です。

  •  五味 苦味、酸味、甘味、辛味、塩味
  •  五法 生、煮る、焼く、揚げる、蒸す
  •  五色 青、黄、赤、白、黒

甘い味付の料理ばかりを何品も揃えても、単調で飽きてしまいます。苦い料理や辛い料理を一食、あるいは一日の中にうまくとり混ぜてこそ変化が生まれ、甘みがより引き立ち深い満足が得られます。

同じく、いつも煮物ばかりではなく焼いたり揚げたりといった各種調理法と味付を組合わせることが、限られた素材で飽きずに長期継続できる工夫となります。

そして食材の色の調和も考慮することは、単なる見た目の美しさだけでなく、幅広い栄養を摂取でき、健康維持につながります。

精進料理はあまり美味しくない薄い味を我慢して食べるものだ、と誤解されがちですが、少量の薄味でも充分満たされるように調理することで、心身共に充足し、僧たちは激しく厳しい修行に屈しない健康を維持しているのです。

 

淡味たんみ

そして曹洞宗の精進料理では六つ目の味、「淡味」を重視します。淡味の解釈はさまざまですが、ここでは「素材そのものの持ち味」としましょう。

単なる「薄味」と「淡味」はまるで異なります。それは過剰に味を付け足すことでもなく、また何もしないことでもありません。また、淡味は苦、酢、甘、辛、塩のように個別で具体的な味というわけではありません。

素材の素晴らしい個性を引き出すために、必要かつ適切な調理をほどこす過程自体も「淡味」と呼ぶことがあります。そして、これまで記してきた諸々の教えに基づき丁寧な調理を経てできあがる、素材そのものの持ち味が引き出された、大自然の恵み、命の輝きに満ちた味を「淡味」と称します。

修行道場の台所では、この三徳六味を実現するために、さまざまな精進料理の調理技術が培われ、800年近くにわたり伝承されてきました。ここでは、その中から三点に注目してみましょう。

 

1.自分で行うことを大切にする

他人任せにせず、自分の大切な修行としてで積極的に取り組む姿勢を重視しています。例えば、沢庵、ぬか漬、梅干などの漬物を漬けたり、味噌を仕込んだり、小豆からあんこを調えたりと、素材自体から作ることも少なくありません。できるだけ手作りすることで、食べる人に向いた味に調整することもできますし、また、食材の特性に合わせて無駄な廃棄ロスが出ないように工程を工夫することもできます。もちろん、掃除や片付けも誰かがやるだろうではなく、率先して取り組みます。

精進料理

自分で行えば時に失敗もします。しかし、それが良い修行になるのです。実際に自分で行うことで生産者の苦労や、食のありがたみがより深く理解でき、感謝の念が深まります。それによって、より食材を大切に扱うようになり、命を敬って調理に励もうとする志が湧く好循環が生じます。修行道場では時折とんでもない大失敗も起こるのですが、それを過剰に責めるようなことはありません。無いに越したことはありませんが、失敗から学ぶこともたくさんあるのです。

また出来合いの品や、近代的な道具を利用することもあります。しかし、その便利さに甘えすぎて、自ら手をかけ手間を惜しまず、苦労して作る姿勢を放棄してしまわないように、よくよく心して調理に臨みます。効率重視の世の中ではありますが、手間を惜しまずに丁寧に作る姿勢を道場では頑なに守っているのです。

 

2.うわべの見かけに惑わされない

精進料理

「五味五法五色」の項で、精進料理では彩りも大切にすると述べました。

もう少し深めますと、それはうわべの見かけではなく、ものの深奥から自然ににじみ出る、そなわる命の美しさを指します。大自然の尊い恵みを受けて収穫されたみずみずしい胡瓜の緑色。真っ白な大根。イチゴの濃赤。どれもそのままで本当に愛おしく、ありがたき自然の美です。無用に手を加えず、その色を素直に活かすのです。

取れたてのナスの鮮やかな紫色も、時間が経てば生気を失ってくすみ、張り艶もなくなります。しかし、それは価値が劣るということではありません。ぬか漬けにしたナスのにぶい薄茶色も、取れたての色とは別の、時間をおいたことで得られる素晴らしい趣があります。色の鮮やかさ、見栄えの良さだけに惑わされてしまうことがないように気を付けて調理を行います。

時に、来客へのもてなしや、外部への紹介などでは変化を出し興味を惹くために特殊な盛り付け方をしたり、人為的な装飾を添えたり美麗なうつわに盛り付けることもあります。しかし修行僧が日々口にしている精進料理は、できあがったそのままを、なんの柄や細工もない素朴な漆皿に無骨に盛り付けるだけです。派手な虚飾は一見目を驚かせますが、やがて慣れが生じて効果は長続きしません。虚飾を加えない日常の中に、真の美しさを見いだしていくことも、また「淡味」につながる姿勢なのです。 

 

3.旬

旬を大切にする、という理念は和食全般の捉え方です。大地の恵みをいっぱいに受けて成長し収穫される旬の食材は、栄養が豊富で、また価格もお手頃になり、調理に用いるにはとても利点が多くなります。旬の初期に出回る初物を「はしり」と呼んで季節の訪れを感じ、そしてまた、その最後の収穫を「なごり」と呼んで去りゆく季節を愛でながら味わうことは、四季がはっきりした日本人ならではの食に対する感覚でしょう。

特にお寺では、生産者からお供えものとして現物が寄進されることが多く、例えば、冬に本格的な雪が降って畑が埋まる前に収穫した大量の大根や白菜などを頂くことがあります。これぞまさに、その土地ならではの季節の風物詩でもあり、お寺としてはその食材を少しでも長く保存し使い切るようにさまざまな工夫を施してきました。

かつて栽培技術が未発達で、冷蔵庫などの保存機器や自動車による道路交通網もなかった頃、お寺で口にできるのはその時期に周辺で育つ野菜や山菜、果物など地域の生産物だけで、当然ながらタケノコご飯は春、栗ご飯は秋に調理されてきました。いくら貴重で珍しいからといって、無理して春先に松茸ご飯を作るような季節外れなことはしませんでした。その結果、自然と旬の献立を季節に合わせて調える台所の慣例が伝承されてきたのです。 

しかし、今の時代、旬の捉え方には少し注意する必要があります。今や胡瓜やトマト、ナス、人参やリンゴ、イチゴなど多くの基本的食材が季節を問わず一年中入手できますし、缶詰やパック、冷凍ものなど、一定の時期に大量に収穫される食材を無駄なく保存できる技術も発達してきました。そうなってきますと、今度は、冬だからといって胡瓜を献立に加えないのは逆にそれが選り好みにつながる危険もあるでしょう。逆に、その年の天候によっては、旬の時期でも高価で入手が難しい場合もあり得ます。旬に執着しすぎては、本来の精進料理のあり方から離れてしまう恐れがあるのです。

いずれにせよ大切なことは、無理なく手に入る素材を、差を付けずにありがたく使わせて頂くという謙虚な姿勢です。その上で、できる範囲で旬の季節感を調えていく柔軟でとらわれのない姿勢を持つことが大事だといえるでしょう。

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