迷える中年ライターが『修証義』を書き写してみた ~曹洞宗のお経を一般人が読むと?(第2章・第9節)~


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honbun初めて触れる『修証義しゅしょうぎ』の本文を読み、鉛筆を手に書き写し、また現代語訳を読む中で感じた事を率直に語っていきます。第9回は、第2章「懺悔滅罪」の第9節について。

第9節「吾等われら当来とうらい仏祖ぶっそならん」

■ライターはこう思いました

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ライター 渡辺ロイさん

この節では「懺悔のやり方はこうですよ」という、実際的な話から始まっています。
その懺悔の方法を、とても普遍的な順序で語られています。

・多くの過ちを重ねてきたことを認め

・過ちの連鎖から解き放たれることを望み

・救いの道へと導いてくださいと願う

事実関係を羅列すると、ただこれだけのことです。

第7節で触れたことと多少重複するのですが、仏教における懺悔(「ざんげ」ではなく「さんげ」)は、悔い改めるための機会です。
懺悔さえすればそこでOK、はい終了、とならないところが仏教の厳しくもロジカルなところ。
過ちをこれ以上重ねない、救いの道へと歩む、そういうことを望み願うためのチャンスが懺悔なんです。

ちょっと脱線しますが、仕事での打ち合わせや会議などと、実は懺悔は同じ仕組みなのでは、と思ってしまいます。
会議などは、ある程度の結論に着地するための話し合いなのですが、皆が皆同じ意見を持ち寄っているわけではありませんよね。ということは、会議の席で自分の意見を曲げるシーンも出てくるはずです。
誰も「自分の意見を曲げたい」と思って会議に出席するわけではありませんが、実は「この意見を曲げさせてくれ」と思うくらいで出席したほうがいいのではないかな、と思うのです。

自分の持って行った意見よりも、より良い意見やアイディアと巡り合うためには、初めから「この会議は、自分の意見を捨てるチャンスだ」と思っていたほうが、より得られる可能性が高まるはず。
相手の言うことは正論なんだけど、なんとなく感情的に賛成できない、そんな状態になったら、誰も幸福にはなりませんよね。
我が身を省みつつ、そう想像するわけです。

簡単に要約してしまえば、懺悔は「よりよい生き方をするために、望み願う機会」じゃないかな、と思うのです。
似ているとは思いませんか?

そして後半。
「仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん」
このセンテンス、かなりグッときます。
仏自身も、私たちと同じように悩んでいた、と。

そういえばそうです。仏の姿などには多くの伝説的な装飾が施されているはずですが(天上天下唯我独尊、とか)、そういうものに惑わされなければ、彼の成した行為で最も尊敬できる、素晴らしい出来事こそが「自力で悟りを開いた」ということなのでしょう。
史上稀に見る大天才である彼でさえ、当たり前ですが悟りを開くまでは悟っていないのです。
そしてそこに、この節ではさらにこう重ねて語ってくれます。
私たちも、いつかきっと仏と同じ境地に至れますよ、と。
「当来」とは、来たるべき世、来世。狭義にとらわれず、ここは「いつかきっと」と読み替えるのが妥当でしょう。

戒名とは、仏弟子になって修行するときの名前だそうです。修行ネームですね。
そこにあるのは、仏と同輩になり、さらに修行を続けるという世界観です。
いつまで経っても修行を続けなくてはいけないという、ちょっと辛い(怠け者の個人的な感想です)お話ではあるのですが、それでもこの「仏と一緒に修行する」という考え方は、仏教の持つ魅力の中でも、群を抜いて私を魅了します。
仏教のように偉大なる先達を尊敬することと、他の宗教のようにとにかく絶対的な存在にすがるのとでは、やはり違いますものね。
どちらが是かと言うことではなく、あくまでも自分にとってどちらがしっくりくるか、というお話なのです。

死後の修行も含めて、よりよく生きていくための道程の、スタート地点として懺悔があると考えると、それはずいぶんと爽やかな行為だといえます。
爽やかな割に、道はとても険しそうなのですが……。


■禅僧がライターへこう応えました

ロイさん、こんにちは。第9節の原稿、とても嬉しく拝見しました。

懺悔は、自分の身勝手な価値観や欲望で世の中を見るのではなく、「仏の価値観」で世の中を見るための、言わば「前処理」にあたる機能を持っています。

例えば、黒板やホワイトボードに新しい文字を書き込むときに、前の文字が残った上に次の文字を書いても文字はきちんと見えませんよね。
前の書き込みや書き損じ、また長い間に付着してしまった汚れなど、それらをきれいに掃除して、新たな気持ちで次に臨もうとすることは、「より良い生き方をするために、望み願う機会」という受け止めがぴったりです。
また、これまでの自分の思い込みやとらわれから離れていこうとする謙虚さは、会議のたとえとも合うものだと思います。

そしてこの節の最大の魅力は、ロイさんが感じる通り「仏もかつては私であり、私もいずれは仏である」という箇所です。
普通、宗教とは絶対的な超越した存在を信じ、それに従うという性格が強いものですが、修証義では自分自身が仏になれるのだと説きます。仏とは、いつかは自分もそうなりたい、そしてきっとなれる「憧れの先輩」なのです。

そして今回、「仏と一緒に修行する」という言葉が、とても印象に残りました。この先修証義を読み進めると「仏と一緒に」と感じる個所が他にも出てくるかと思います。意識して読み進めて下さい。
そこでいう「仏」とは一体どういう存在なのか、また「一緒に」とはどういうことなのか。ロイさんがどう捉え、表現するのか、とても楽しみです。

 

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