迷える中年ライターが『修証義』を書き写してみた ~曹洞宗のお経を一般人が読むと?(第4章・第24節)~

2018.09.19

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初めて触れる『修証義しゅしょうぎ』の本文を読み、鉛筆を手に書き写し、また現代語訳を読む中で感じた事を率直に語っていきます。第24回は、第4章「発願利生」の第24節について。
honbun第24節 「同事というは不違どうじ     ふいなり

■ライターはこう思いました

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ライター 渡辺ロイさん

『修証義』における「気持ち良く生きるための4つの定理」の最後、4つめの「同事(どうじ)」について語られている節です。
「同事」とは、文字通り同じ事。仏教用語ではなく、普通の言葉として辞書にも載っていますが、あまり普段の生活では使わない言葉です。

内容としては「自分を捨て、相手と同じ心、境遇になってはじめて仏の心を働かせることができる」ということを語っています。
ここまで、他者(人以外の生けとし生けるものも含め)に対して、多くの心の働き、実際の働きかけが必要だと説いてきたところに、ラストではその自他の区別も取り払え、と言っています。うーん、なかなかに難しいことを言います。

さらに、現代語訳では明確に触れていない部分があります。それは、原文の「佗(た/他と同義)をして自に同ぜしめて 後に自をして佗に同ぜしむる」という部分です。直訳的に読み取れば「他者を自分のように受け止め、その後に自分を他者と同じと考える」とでもいいましょうか。つまり、まずは他者を自分に引きつけて判断し、それから自分を他者の側にもっていきなさい、ということでしょう。
なぜ改めて自他の区別をなくす「順番」に言及したのか。
これはとても興味深い部分です。

自他の区別について考えるとき、私は「個性」という言葉を思い浮かべます。
いま自分の子どもの頃を振り返ると、どうやらあまり普通の子ではなかったような気がします。きちんと自他のラインを明確にして、その中で自分がどこにいるのかをいつも探していた、そんな子どもでした。
だから、「個性」という言葉には敏感でした。そこを明らかにしないで、「みんな」という一括りにされてはたまったものではない、そう思っていたからです。

しかし、長じるに従い、どうも世間で言われるような「個性」が、どうも肌に合わないことに気がつきました。
特に「個性を伸ばす教育」とか言われると、どうにもこうにもイラっとしてしまいます。
これは多分に持論なのですが、個性というのは伸ばすものではない、と思うのです。個性とは、人が好き嫌いに関わらず持っているもの。自分の個性を押し付けたり伸ばしたりするのではなく、単に「他者の個性を尊重する」ことだけが重要なのではないでしょうか。
だって、鼻が丸いのも足が短いのも、太っているのも、どんな仕事に満足感を得るかも、これは全部その個人に帰属するもので、良いも悪いもない、「個人の特性」だと思うのです。どのタイミングでそういう個性が付与されるかもわかりません。
だから「どうですかみなさん!これが私の個性ですよ!」なんて振りかざすようなものではないはずなのです。

そう考えるに至った私にとって、前出の「他→自、自→他」の順番は、ちょっと納得がいきます。
幼い頃は、自分を確立するためにも「いかに他者が自分と違うのか」について敏感であることは当然です。そこから始まって「そんな明確に違う他者も、自分と同じだと考えてみよう」という考え方は、納得のいくステップです。そして、さらに次のステップとして「他者と明確に違うと自覚している自分自身」も、やっぱり凄まじい数が存在している生けとし生けるものと同じなんだ、と考える。
他者の身になって考えるよりも、やはりこちらの方が難しい。だって、今まで生きてきて培ってきた、身につけてきた諸々を手放すようなものですから。

単純なことを説いているようで、さらりと難しいことを要求してくる『修証義』は、やはり一筋縄ではいきません。

 

■禅僧がライターへこう応えました

今回お読みいただいた一節は、仏教で人々を導く際に用いられた「四摂法」の1つ、「同事」についてです。「四摂法」とは、人々が安心して仏教の教えを聞くことが出来るように仏教者が採るべき態度であるとされます。曹洞宗では道元禅師が、あえて「菩提薩埵四摂法」とし、「菩薩」の生き方としての「四摂法」を説きました。

「四摂法」とは「布施・愛語・利行・同事」の4つになりますが、やはり「同事」の解釈は困難であり、しかも、ロイさんにご注目いただいた文脈である「佗をして自に同ぜしめて 後に自をして佗に同ぜしむる」は曹洞宗内でも解釈が割れる箇所で、難しいのです。

そこで、理解するためのヒントもあって、中国での大乗経典への註釈書では、「同事」について、観音菩薩の姿であるとしています。観音菩薩は、救うべき人々が教えを聞きそうな相手を見極め、様ざまな姿へと変化するとされ、「観音三十三身」などともいいます。

今回お読みいただいた一節も、「同事」を行うのであれば、観音菩薩のように、よくよく相手のことを知り(佗をして自に同ぜしめて)、相手に届く態度で導く(自をして佗に同ぜしむる)ものだといえましょう。

ただし、我々は観音菩薩のようには上手く出来ませんので、1人の人として、1人の仏教者としてどう実践できるのかを考えなくてはなりませんが、『修証義』を通して見てきますと、既に「第三章 受戒入位」で仏の位に入り、仏のお力をいただいており、「第四章 発願利生」の冒頭では菩提心を発しております。

我々はそれらの教えに導かれ、自己自身のあり方にこだわること無く、人々の中に入っていくべきなのでしょう。相手に合わせると、どうしても個性や自分が見失われると思いがちですが、仏教者として生きるという誓願の中であれば、どう姿を変じても、仏教者としての自分であることに変わりがないのです。

 

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